第27話 「不思議な世界 そして、十日目 ②」

 しんと永遠にも似た静寂の時間が訪れた。

 少なくとも、エルフリーデにはそのように感じられた。

 どくどくと自分の鼓動の音ばかりが大きく聞こえ、エルフリーデはぐっと口元を噛み締めて目の前のマリスを見つめる。

 だがここで怯んでしまっては、以前と何も変わらない。


「令嬢たるもの、ワルツを断られたらどうするかはご存知でしょう? 少なくてもクレモンヌ様は理由をちゃんと仰っているじゃないの。グレンフェル家の令嬢として、恥ずかしくない振る舞いをしてください」


 まるで義母のような言い回しになった。

 だがそうやって言い添えれば、歯を食いしばったマリスが押し黙る。彼女はしばらく俯いていたが、やがてカーテシーをした。

 そのままぷいと何も言わず去っていくマリスの背中をみながら、エルフリーデはそれまで溜め込んでいた長い長い息を吐いた。


(ああ、私……、言い返せた……、マリスに……っ!)


 自分でもなんと評したら良いのか分からない、熱すぎる思いが込み上げてきて、下手をしたら泣き出してしまいそうだ。

 少し立ちくらみがしてしまい、ふらっと身体を揺らしたエルフリーデの背中に当てられたのは、ギイの手だった。


(……ギイっ……!)


 エルフリーデがさっと見上げると、そこにいたのは――……美術館や観劇と同じ穏やかな笑顔を浮かべたギイだった。

 瞠ったエルフリーデに、にこにことしたままギイが続けた。


「相変わらずわがままだね、マリス嬢は」


 それは、この絵が綺麗だね、このケーキが美味しいね、と言うのとまったく同じ温度であった。


(……、そうよね、こちらのエルフリーデにしたら、これくらい、いつものこと、なんだろうな……)


 エルフリーデとしては一生分の勇気を振り絞った気がしていたが、それはこのギイには理解してもらえないだろう。

 彼女は行き場のない思いを抱えたまま、ギイに謝罪した。


「ごめん、なさい。義妹が騒がしくて……」

「君が謝ることじゃないよ。マリス嬢には手綱を握ってくれる婚約者が必要だな。きっとグレンフェル伯爵が良い相手を見つけてくださるだろう。それより喉が乾かないかい、君が好きな白ワインでももらってこようか」


(私はどちらかといえば白ワインよりも果実水が好きなんだけれど……)


 それでも確かに喉はからからで、潤せればなんでもありがたい。エルフリーデが頷くと、ギイがすぐに側を通りかかった使用人から白ワインの入ったグラスを手に入れてくれた。


「ありがとうございます」


 ワイングラスを受け取ったエルフリーデがお礼を言うと、ギイが大きくウィンクをしてみせる。


「いいんだよ、君のためなら何でもするよ」

「本当に、ありがとう、ございます……、私、どうやってお返しをしたら……」

「僕がしたくてしてるんだから、気にしないでくれ。君は何もしなくて良いんだよ」


 エルフリーデは、ゆっくりを目を見開いた。


(私は……何もしなくて……いい……?)


 このギイは優しくて、甘い態度を崩そうとしない。

 気遣いをしてくれるし、エルフリーデが大好きだという気持ちを隠そうともしない。


 けれど、クッキーを焼きたい、といえば危ないからしなくていいと止める。

 出かける場所もどこもかしこもエルフリーデの希望を通すばかりで、彼自身の意見を口にすることはない。


 何をどうやって聞いても、「君がよければいい」「エルフリーデが好きなように」という返事がくるばかり。何かしたい、と訴えても、しなくていい、と断られてしまう。

 何でも言うことを聞いてくれるけれど、でも、エルフリーデが何かすることは求めていない。

 

(それって……"私”である必要、あるのかな)


 そしてこのギイは、マリスのため息をついて震えてしまうエルフリーデの動きには、気づかない。マリスに言い返すことがどれだけ勇気が必要か、知らないだろう。

 エルフリーデがそのことを訴えれば、きっとギイは笑顔を浮かべて、「マリスに言い返せて、えらかったね」と言ってくれるかもしれない。

 けれどそれは――……エルフリーデの求めていることとは違う。彼女は褒めてほしいわけではない。彼女のすることを全て肯定してほしいわけでもない。

 自分とは違う視点を持って、時には諌めてほしいし、時には認めてほしい。


(このギイは……私に対してまるで子供に対してするような態度なんだわ)


 目の前で微笑んでいるギイは、とても素敵な人だ。

 元気が良くて、自分の意見をはっきり持っている、またそれを言葉にすることもできるこちらのエルフリーデならば、ギイに伺いを立てる前に行動に移すから、こんな悩みを持ったりはしないのだろう。そしてギイがそんなエルフリーデの味方になることで、二人の関係はうまく成り立っているはずなのだ。


(私には、合わないというだけ……、でもこのギイが相手では、私は――……やっぱり、私は……)


 そこでギイが口を開いた。


「そうだな、君にしてもらいたいことがあるよ。僕へ言葉を返してもらいたい」

「――……え?」

「僕は君が好きだ。では、君は、僕のことが好き?」


 頭の中が真っ白になった。


(私が……このギイのことを、好き……?)


「私は――……」


 呆然と、考える前に言葉がついて出る。


「うん」


 穏やかな表情のギイが、エルフリーデの答えを待っている。


 そこであの日のギイの姿が過る。

 エルフリーデが転倒する時に、必死でこちらに手を差し伸べてくれていたギイのことを。


(私の、焼いたクッキーだけを食べてくれたのもギイだった。美味しいと、言ってくれたのも……)


 きっとあのギイだったら、エルフリーデがクッキーを焼きたいといえば、気をつけろよと言いながらも、楽しみに待ってくれるのではないか。

 それより、エルフリーデが自分の意志を示したことを、喜んでくれるのではないか。


 『お前、言いたいことを言えよな』


 そう忠告してくれたギイ。

 ギイはきっと、エルフリーデが一人で立つことが出来るよう、見守ってくれていたに違いない。


(あのギイだったら、今、私がああしてマリスに言い返したのを見たら……)


 よくやったな、とちょっとだけ口角をあげてくれるのではないか。

 エルフリーデの胸をときめかす、彼だけの微笑み。


(ギイ……、私、貴方に会いたいっ……!!)


 胸が締め付けられるような痛みで、エルフリーデの言葉は続かない。

  

 そんな彼女の様子に目の前のギイがふと心配そうな表情に変わる。


「エルフリーデ?」


 だがそこで、広間の奥で「婚約のお祝いをさせていただこう」とマコノヒー伯爵の声が響き渡り、周囲の貴族たちから歓声があがる。

 我に返ったエルフリーデがギイを見やると、彼は再び穏やかな表情を浮かべていた。


「ごめん、その話はまた後でね」


 小さくウィンクをしたギイに、小さく頷き返すのが精一杯だった。


 ◇◇◇


 マコノヒー伯爵の挨拶に続き、乾杯三唱となった。

 お祭り騒ぎに乗じて、ギイが知り合いの子息に話しかけられている隙に、エルフリーデはそっと大広間を出た。


 向かうは、マコノヒー伯爵家の庭園だ。


(お願い、お願い……、そこにいて……!)


 祈るような気持ちで、記憶のまま庭園の奥を目指すと、果たしてその天使の像は今夜もそこに立っていた。


(いてくださった……!)


 弾む息を整えることも忘れて、エルフリーデは天使の像を夢中になって見上げた。

 月の光に照らされて、今夜も泣いているように思える。

 その姿はやはりどこか物悲しくも思えるが、今夜のエルフリーデにはまるで天使が歓喜の涙を流しているかのようだった。


「お願いっ……、お願い、勝手なことを申し上げていることはわかっています。でも、私……」


 無意識にエルフリーデは祈るように両手をぐっと絡み合わせる。


「あの、ギイに会いたいのっ……、もう一回、もう一回だけ、私にチャンスをください、もう二度と、消えてしまいたいなんて思わないから……! だから、お願いしますっ……!」


 もう一度、ギイに真正面から向き合いたい。


(だって、ずっと好きだったから――……!)


 エルフリーデは無我夢中で、ぎゅうっと両手を握りしめて、強く祈り続けた。


「私を元の世界に戻して――!!」


 ぱあっと光が周囲に立ち込め、そしてエルフリーデは意識を失った。

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