第26話 「不思議な世界 そして、十日目 ①」

 ギイが来ない二日間で、気づいたことがある。


 この世界では、マリスや義母に会う機会が極端に少ない、ということである。仲がよくなかったのは自分の日記を読めばよくよく伝わってきたが、それにしてもこんなにも会わないものか。

 朝食や夕食で顔を合わせても、必ず父が同席している。

 父がいれば、マリスや義母も大人しくしているから、これは最低限の接触だと言える。

 そして注意深く観察していると、執事のオグデンやジェシカがさり気なくマリスたちに会うのを回避するように誘導していると気づく。それはおそらく父が指示しているのに違いない。エルフリーデにあれだけはっきりと愛情を示してくれるグレンフェル伯爵のことだ、きっとこの推測は外れていないだろう。


(もしかしたら……"向こう”でもそうだったのかな……)


 毎食は無理だったとしても、父も可能な限り同席してくれていた気がする。それに誕生日にだってプレゼントを必ず贈ってくれたし、何よりギイとの婚約を父は死守してくれようとしていたのではないか。

 父の部屋に呼んで、ギイとの婚約はお前にとって本意か、と尋ねてくれたのも、彼の優しさだったのではないか。あの時の自分はまともに答えることができずに、うやむやになってしまったけれど。


(今だったら……、お父様に……ちゃんと尋ねられるかもしれないのにな)


 エルフリーデはそんな風に思った。


(そもそも、私……、なんであんな風に縮こまってしまっていたのだろう。そしてそれを、誰かのせいにばかりしていたような気がする)


 彼女はふうと息を吐くと、そっと俯いた。


(もっときっと、できることはあったはず……)


 そうしてマコノヒー伯爵家での転倒で気を失ってから八日目と九日目は、今までの自分と対峙する時間となった。


 思い返せば思い返すほど、エルフリーデの脳裏にはある一人の男性との思い出ばかりが蘇っていったのである。


 ◆◆◆


 そして迎えたマコノヒー伯爵家での夜会の日。

 約束通りグレンフェル家に登場したギイは、文句なしに格好良かった。今の流行りの身体のラインが出るぴったりした黒のジャケットに、テーパードの、やはりこちらも黒のパンツを合わせ、白いシャツの胸元には青い花が一輪差し込まれていた。


(……っ)


 エルフリーデは内心息を呑む。

 ここ二日、彼女が何度となく思い返していたのは――…ギイのことだった。


「エルフリーデ! 数日会えないだけなのに、とっても恋しかったよ」

 

 真正面から切り込まれると、まだ照れてしまう。しばらくうろうろと視線をさまよわせたエルフリーデは、ようやく聞くべきことを思い出した。


「お帰りなさいませ。それで領地向こうはお変わりなく?」

「うん、ありがたいことにね。でも本当に君がいなくて、呼吸の仕方も忘れるくらいだった」


 ギイがさっと跪き、彼女の手を取る。

 仰々しい台詞も、まるで王女に傅く騎士のように手をとって口づけを落とすのも、ようやく少し慣れつつある。

 眠りから覚めたばかりの、十日前の自分が見たらきっと驚くだろう変化だ。


 挨拶を終えたギイはさっと立ち上がると、感嘆の眼差しでエルフリーデを眺める。


「いつもだけれど、今夜はまた信じられないくらい綺麗だね」

「まぁ……ありがとうございます」


 さっと頬を染めたエルフリーデを嬉しそうにギイが見下ろした。

 今夜は、彼女の瞳と同じネイビ―色のドレスを選んだ。ネイビーだと落ち着きすぎる印象を与えるが、しかしところどころに同系色の宝石が縫い付けられているため、上品だがすごくゴージャスなドレスになっている。

 イヤリングとネックレスは、父からの贈り物だ。


「やはりそのアクセサリーをつけたんだね。珍しいね、君が、同じアクセサリーを続けて使うのは」


 ぽつりとギイがそんなことを言ったが、すぐににこりと笑った。


「だがグレンフェル伯爵からの贈り物は別というわけだな。そして僕からはこれを」


 彼はシャツの胸ポケットから青い花を取り出すと、ちゅっと口づけ、それから彼女に捧げるように差し出した。


「ありがとうございます……っ」


 受け取ったものの、つける場所がない。

 後ろで控えているジェシカに頼んで髪飾りにしてもらうか、そんなことを思ったが――。


「その花に祝福のキスをくれないか?」


 ギイがそんなことを言い出した。


「祝福の……キス……?」

「うん、僕にとっての女神のキスだよ。さあ」


 言われるがままに、花に唇を近づけて、ちゅっと軽いキスをする。すると満足そうにギイがうなずき、その花を戻すよう彼女に手を伸ばした。


「ありがとう。今夜はこれを君だと思って、この胸のポケットにさしておくよ」


 彼が胸のポケットにその花を戻すのをみながら、みるみるうちにエルフリーデは真っ赤になっていく。


(す、すごい……っ。すご、すぎる……!)


 これは絶対に向こうのギイはしないだろう。

 ははっと笑ったギイがエスコートしてくれて、馬車へと向かった。


 ◇◇◇


 マコノヒー伯爵家は、記憶に残るそのまま同じであった。

 家の外観を見上げているだけで、どきどきとエルフリーデの鼓動は激しくなる。


(庭園に……あの、天使の像はあるのかな。後で少しだけでも庭園に行ければいいけれど)


 元の世界に戻れることはないだろうが、それでも叶うなら、一目だけでもあの天使の像を見たい。今ならあの像を見て、自分がどう感じるかも知りたい。


(今夜は人が多いって言っていたから、きっと機会はあるはずだわ)


 大広間に入り、マコノヒー伯爵夫妻にギイと共に挨拶をする。ギイがエルフリーデを婚約者と紹介するのを、夫妻は目を細めて聞いてくれた。

 招待してくださったマコノヒー伯爵夫妻への挨拶が終われば、とりあえず肩の荷が降りた。

 まずはギイとファーストダンスをする。

 彼は普段から想像がつくように、丁寧で優しいリードを守ってくれた。

 そうしてワルツを終えると、ギイは宣言通り、エルフリーデの側を陣取って一切離れようとしない。知り合いの令息が話しかければ応じるが、他の令嬢たちのダンスなどはにこやかに、しかしきっぱりと断っていた。

 それはエルフリーデへの義妹であるマリスにも同様だ。


 今夜もマリスは美しく着飾っていた。

 エルフリーデが落ち着いた色味のドレスを選んだのに対し、彼女は目に鮮やかな真っ赤なドレスである。色こそ派手であるが、クラシカルなデザインを選んでいて、決して下品にはなりすぎていない。マリスは自分をよりよく魅せることを、よく知っている。

 

「どうして踊ってくださらないの?」


 ギイにワルツを断られ、マリスは不満顔を隠そうともしていなかった。


「どうしてって、僕の両手はエルフリーデのためにあるのであって、他のご令嬢と踊るためじゃないんだ」


 飄々とギイがそんな風に答えると、マリスがまるで地団駄を踏むような表情になって、ぎっとエルフリーデを睨みつける。


「お義姉様が、そうやって命じてるの? この人、気が強いものね、悋気がすごいの? でも、婚約者の義妹とワルツを踊るのって礼儀じゃないの、いくら気が乗らなくなってするべきでしょっ」


 やれやれ、と言わんばかりにギイが優しい口調になる。


「僕は最低限の礼儀を果たして、ちゃんとエルフリーデとワルツを済ませているよ。さあ、他の幸運な令息を探しておいで? マリス嬢と踊りたい方はたくさんいらっしゃるはずだよ」

「もう、なんでよっ! 信じられない」


 はああ、と大きなため息をマリスがつき、そこで思わずびくっとエルフリーデの身体が震えた。


(あっ……)


 そんなつもりはなかったが、これが身に染み付いた条件反射だ。

 しかしそんなエルフリーデに、マリスはおろかギイも気づいた様子を見せない。


(よ、よかった……きっとこちらのエルフリーデは、こんな風にため息を聞いて震えたりしないんだわ)


 そういえば、とエルフリーデの脳裏にある日のことが蘇る。

 それはギイと婚約者になってすぐに、グレンフェル家でお茶をしたときのことだ。エルフリーデは珍しく張り切り、ギイのためにあまり甘くないクッキーを焼いて出迎え、彼がそれを食べてくれた日のこと。

 マリスが乱入してきて、こんな見目の悪いクッキーは片付けるべきよ、と言い張ったのだ。そして捨てないで、と言おうとしたエルフリーデの耳に、マリスのため息が聞こえて、彼女は身をすくめてしまった――まさにちょうど、今のように。

 身を縮こまらせてしまい、何も言えなくなったエルフリーデを救ったのは、ギイだった。

 彼はさりげない口調でクッキーを持って帰ると使用人に告げたのだから。

 しかもそのクッキーを気に入ったから、とまで言い添えてくれて。


 ギイはきっと、エルフリーデが震えたのに気づいたのではないだろうか。今あらためて思い返せばそう感じられるくらいの、さり気なさで彼はエルフリーデの心を救ってくれたのだ。


(そういえば、あの日にも言われたんだ……言いたいことは、言えって……)


 あの日のギイのしかめ面が蘇ると、どうしてかそれがとても懐かしい。


(そうよ、誰かの助けを待っていてはいけないの……、ため息くらいで、驚くな、私。これはただのため息、そう……ただの、ため息なんだからっ……)


 エルフリーデはぎゅっと自分の拳を握りしめると、さっと顔を上げた。


、変わらなきゃいけないの……っ!)


 背筋を伸ばして、エルフリーデは口を開く。


「マリス」


 声は思ったよりも落ち着いていて、大きく、しっかりとしていた。

 

「もうやめてくださる?」

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