第25話 「不思議な世界 七日目」
「今日の装いもいいね」
美術館へ向かう途中、馬車の中でギイは手放しでそうやって褒めてくれる。
エルフリーデは自身のシンプルなライトブルーのドレスを見下ろすと、さすがに苦笑してしまった。
一応まだ病み上がりという体なので、どちらかといえば動きやすさに特化したドレスだというのに。
「君は何でも似合うね」
彼は冗談ではない、といった様子だ。
こんなにエルフリーデを熱心に褒めてくれるなんて。
「その、クレモンヌ様」
「うん、なんだい?」
にこりとギイが微笑む。
こちらのギイの微笑みに慣れつつある――あのギイの口元をくいっとあげるような笑みとは違うけれど。
「私を外に連れ出してくださって感謝しています。こんなによくしていただいて、本当に……どうやってお返しをしたらいいのか……今度何か、私に出来ることがあれば……」
思わずそんな言葉がついてでると、ギイは爽やかに笑って、片手を振った。
「気にしないでくれ。僕がしたくてしているんだ。君は何もしなくていい、ただそこにいれば」
ぐ、とエルフリーデは息を呑む。
「そう、ですか……?」
「そうだよ。君がそこにいてくれているだけで僕は嬉しい」
(それって……っ)
ちくっと胸が痛む。
(――っ、だから、こんなによくしてくださる方に、私が……言えることなんて、ないんだってば……)
エルフリーデはぎゅっと拳を握りしめ、気持ちを落ち着けると、ギイに向かって微笑み返した。
◇◇◇
ギイが連れて行ってくれたのは、エルフリーデも訪れたことのある国有数の美術館だった。桁違いの所蔵品を抱えていることで知られており、回顧展や絵画展も定期的に開かれている。幅広いジャンルの絵画や蔵品の展示があるため、とてもじゃないが一日では到底回りきることが出来ない。
エルフリーデも今までに何度も訪れてはいるが今だ全貌をつかめていないくらいだ。
「好きなように見て回るといいよ」
美術館に足を踏み入れるなり、ギイがそう言ったので、エルフリーデは彼を見上げる。
「クレモンヌ様は何をご覧になりたいですか?」
「君が観たいものが僕が観たいものさ。君は気にせず、自分の好きなものを観たらいいよ」
(この美術館だったら、きっと観たいものがあるだろうに……)
だがエルフリーデは言葉を呑みこむと、彼の好きなようにしてもらうことにした。
それから彼女は今まで一度も訪れたことのない、印象派の絵画が飾られているエリアへと足を運んだ。当然のようにギイも彼女の後をついてくる。
「この絵、やはり素敵……」
一枚の絵の前で足を止めたエルフリーデは誰に話しかけるともなくそう呟いた。
印象派として有名なその画家が描いたこの少女の絵は、赤いリボンを髪につけていることから、赤いリボンの少女の絵、と呼ばれ親しまれている。
「そうだね」
ギイがそう答えてくれる。
エルフリーデがちらりと彼を見上げると、観劇をした時と同じような笑顔を浮かべていた。
「赤いリボンの少女の絵、名前だけは知っていましたが……、この優しい色使いと、女の子のまろやかな輪郭が……いいですね」
エルフリーデはじっくりと絵を眺めながらそう呟く。
実は間近でこの画家の絵を見るのは初めてだったが、芸術に関して門外漢であるエルフリーデにも、素晴らしさが一目で知れた。
「君はこの絵が好きなのかい?」
「そうですね。好みの作風だと感じます」
そこでエルフリーデは、ギイに尋ね返した。
「クレメンス様は?」
「君が好きなら、僕も好きだよ」
「――っ」
再び胸のうちに浮かんできた言葉を、エルフリーデは即座に打ち消した。
「それで、次はどこを観る?」
当たり前のようにギイが尋ねてくる。
「……そうですね、もう少しだけこのフロアをじっくり観たい、です。その後は、写実派のエリアにも行きたいです」
「いいね。そうしよう」
ギイは微笑み、それからずっとエルフリーデと同じ速度で美術館を見て回ったのだった。
◇◇◇
半日以上を過ごすと、さすがに足が疲れてしまったので、帰宅する前に併設されているカフェで一休みすることとなった。
ギイはエルフリーデと同じパイシューを頼んだが、やはり一気に食べて、すごい勢いで紅茶を飲んでいる。
(付き合わせてしまって、申し訳ないな……)
フォークをさくりとパイシューにさしながら、エルフリーデは恐縮した。粉砂糖をいっぱい振られたさくさくのパイシューは、この前食べたストロベリースコップケーキに比べると甘さは控えめだが、それでも十分甘い。
(このギイは、どこまでも優しいな……)
どんなギイであってもギイはギイで、やはりエルフリーデにとっては特別な人だ。
けれど――……。
「さて、次は何を観たい?」
にこにこと笑うギイに、どうしてか気後れしてしまう。
その理由を自分でもつかめないまま、エルフリーデは口を開く。
「クレモンヌ様は、楽しんでいらっしゃいますか」
「僕かい? もちろん。君が楽しいのが、僕が楽しいことだもの」
もやっとする違和感を無視しながら、エルフリーデは笑みを浮かべる。
「そう言っていただけて嬉しいです。あの、絵を鑑賞したい気持ちはあるのですが、さすがにこれだけ歩くと疲れてきてしまって――……せっかく連れてきていただいて申し訳ないのですが、念のため今日はもう帰宅したいかなと思います」
「もちろんだよ!」
ギイが頷く。
「無理だけはしてはいけないよ。とにかく、君が見たい絵を見れたならばもう目的は達したさ。このお茶を飲んだら、帰ろう」
「――……クレモンヌ様のご覧になりたい絵は、ご覧になられましたか」
「もちろん」
(“君が見たい絵が僕が見たい絵だよ”……)
「君が見たい絵が僕が見たい絵だよ」
ぼんやりと胸の内で考えていた言葉をギイがそのまま口にしたので、エルフリーデは少しだけ身を震わせる。
彼女は紅茶を一口飲み、思い切って切り出した。
「今度何かお礼をいたしますわ」
「気にしないでくれていいんだよ。何度も言っているが、こうして君の時間をもらっているだけで十分なんだ。エルフリーデが気にする必要なんてないんだよ」
ちりりっと胸の奥の違和感が広がっていく。
(このギイは……穏やかだし、優しい。“エルフリーデ”のことを優先して、気遣ってくれる……これ以上何を求めるというの)
彼女はそっと紅茶のカップに視線を落とした。
微かに揺らすと、残った紅茶に小さなさざなみが起こる。
(でも……、これじゃあ、彼のことを何も知ることができないわ)
そこでふと、エルフリーデは今までの自分の行いを思い返した。
(私……、自分の意見、言ってきたかな……)
マリスや義母たちにやり込められるたび、言葉を飲み込んでこなかったか。自分の意志を押し殺しすぎて、それが当たり前になっていたが、それであれば相手にとって”この私”である必要があっただろうか。
『もっと自分の意見を言えよ』
『見てて、辛いんだよ』
マコノヒー伯爵家の夜会でのギイの言葉が脳裏に蘇る。
(ギイ……、もしかしたら、ギイは、昔の私と比べて落胆したからじゃなくて……、今の私のことを知りたくて、ああやって言ってくれた……?)
エルフリーデは再び、ぎゅっと紅茶のカップを握りしめた。
◇◇◇
「実はすごく残念なんだが、遠方の領地に父についていくことになってね、二日ばかり君に会いに来られないんだ」
帰りの馬車でギイがそう切り出した。エルフリーデが瞬くと、でもマコノヒー伯爵家での夜会には戻るからね、と続ける。
(マコノヒー伯爵家の……夜会……?)
どくんと心臓が高鳴る。
(もしかしたら、あの天使像……あるかな……?)
ごくりと唾を飲み込んだエルフリーデに気づいた様子も見せずにギイが説明を続ける。
「この前は内輪の招待客だけだったが、今度の婚約披露はもっと大規模だから、信じられないくらいたくさんの客がいるだろうな。それに乗じてマリス嬢が妙なちょっかいをださないよう、今回はしっかり僕が見張るからね」
(そうか、ここではマリスが私を押したことになってるんだっけ)
エルフリーデは頷いた。
「体調を整えておきますわ」
「うん、一緒に夜会に行けるのを楽しみにしているからね」
完璧な貴公子の顔で、ギイが微笑んだ。
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