第22話 「不思議ではない世界 ギイ=クレモンヌ」
それより一週間後。
ギイがやってくるとジェシカから聞いて、エルフリーデはどこか不敵な笑みを浮かべる。
「へえ、今頃来るのね……」
聞けばちょっと不穏な言葉だが、口調はあくまでも明るい。
この一週間でそんなエルフリーデにすっかり慣れつつあったジェシカは苦笑しただけだった。
(旦那様もエルフリーデ様の様子が普段と違っても、体調が悪化しない限りは心配するなとおっしゃっていたし……それに、どこか昔のエルフリーデ様を思い出すのよね)
昔からエルフリーデ付きのメイドだったジェシカは、天真爛漫だった頃のエルフリーデを知っている。
(あのまま奥様がご存命でいらっしゃれば……、エルフリーデ様はこんな感じのままだったかしらね)
再婚して、新しい母と妹が出来たエルフリーデの顔からみるみるうちに光が消えていくのを、ジェシカはただ黙って見守るしかできなかった。それがどれだけ歯がゆいことだったのか、今この元気いっぱいなエルフリーデを目の前にして改めて感じる。
「ジェシカ、とびきり綺麗にしちゃって!」
と振り向いたエルフリーデの望みに答えるべく、ジェシカは頷いた。
◆◆◆
がちゃん、と音を立ててティーカップが皿に戻される。
「記憶喪失、だって……!?」
蒼白な顔のギイが呟く。
澄ました顔で紅茶を飲んだエルフリーデは頷いた。
「はい、そうなんです。といっても、全部ではないのですが……、うーん、でも結構、かな? 小さい頃からの思い出が、抜け落ちているところがあって。ジェシカに聞いたりしながら埋め合わせているところです」
「お、俺のことは覚えているのか……?」
エルフリーデがにこりと笑い、ギイの瞳が見開かれる。
「笑って……?」
「笑いますよ、そりゃ――……えっと、もちろん、覚えていますよ、ギイ=クレモンヌ様。私の幼馴染で婚約者でしょ? でもごめんなさい、細かいことは全然覚えてないの」
「そ、そうか……、いや、大変だったものな……お前が謝ることはない」
みるみるうちにギイの表情が曇り、がっくりと肩を落とした。
「マコノヒー邸でのことは、俺が側についていたのに防げなくて申し訳なかった、と思っている」
噛みしめるように、ギイが謝罪する。
「ああ、それこそ頭をぶつけた夜のことですよね。でもそれも、全然覚えていなくて」
だが暗くなった雰囲気を吹き飛ばすかのように、エルフリーデが軽やかな声で続ける。
「そのことに関しては、謝罪される必要はありませんよ。お医者様から状況はうかがってます。私が、庭園で足を勝手に滑らせたとか。それにその後、ギイ様が連れ帰ってくれたんでしょう?」
エルフリーデが、ギイ様が、と言った途端、彼がぱっと顔をあげる。
「エルフリーデ……?」
「はい?」
信じられないとばかりのギイの表情を、エルフリーデがきょとんとして見返す。
「今、俺のことをギイ、と呼んだか?」
「あれ、婚約者ですよね、私達? もし失礼なことでしたら、改めます」
「いや、失礼ではないが……」
呆然とするギイに向かって、そこですっと眉間に皺を寄せたエルフリーデが人差し指を向ける。
「あの夜のことは謝罪される必要はありませんが、でもね、ギイ様。お見舞いのお花を一輪でも贈るべきでも思うんです。この一週間、音沙汰なしっていうのは褒められたことじゃありませんね」
「……花……、いや、俺は……贈ったが……?」
ギイのかすかな声は、エルフリーデの次の言葉にかき消されてしまった。
「高価なものはもちろん必要ありませんが、お見舞いのお花くらいはよろしくないですか? 気持ちがある、と示すことって大事かなって思うんですけど! それで、やっぱりここは、薔薇を贈るべきじゃありませんこと? 私が好きなお花ですし、私達の思い出の花ですからね!」
そこで彼がぽかんとする。
「薔薇、か……? お前は、薔薇が好きなのか? そして、俺たちの思い出の花が……薔薇だと?」
「ええ」
はっきりと頷いたエルフリーデに対し、ギイの表情が見る間に引き締められていく。
「そして、お前は見舞いの花も手紙も何も受け取らなかったと?」
重ねて尋ねられたが、エルフリーデはもう一度頷く。
「ええ。お父様からはいただきましたが、ギイ様からは何も――……違うんですか?」
彼女が首をかしげると、思案げな様子を見せていたギイが口を開く。
「事情はわかった。――……俺が悪かった」
「分かったなら、よろしいですわ。クッキー、食べません? 料理長が腕によりをかけて焼いてくださったんですよ」
「……、俺は、いらない」
「ええ、本当に? 蜂蜜とナッツがたっぷりはいった特別甘いクッキーって聞きましたけど」
「……」
そんなエルフリーデをしげしげと眺めていたギイだったが、やがてしばらくしてソファから立ち上がる。
「邪魔して悪かったな。養生してくれ」
「もう帰られるの? では」
エルフリーデが立ち上がると、両腕を広げた。
「は?」
ぎょっとしたギイが一歩後ろに後ずさる。
「は? じゃないですわ。婚約者なんだから、ハグでお別れじゃありませんか」
「ハグっ……」
それきり黙り込んだギイを、不思議そうに眺めていたエルフリーデだったが、しばらくして腕を下ろす。
「……ふうん、そういうことね」
彼女はそう口の中で呟き、にっこりと笑みを浮かべる。
「そうだわ、ギイ様。私、また社交を始めます」
「は?」
「お父様とお医者様にも許可をいただきましたの。婚約者として、どうぞエスコートお願い致しますわね」
よろしくお願い致します、と美しいカーテシーをエルフリーデはしたのだった。
◇◇◇
それから数日後、二人の姿は本当に夜会にあった。
グレンフェル伯爵の知り合いであるホワイト伯爵家での夜会に招かれたのである。大広間の扉の前で、ギイは隣りにいるエルフリーデを見下ろした。
「本当に、夜会に来て大丈夫だったのか?」
ギイが尋ねると、エルフリーデはからからと笑った。
「問題ありません。むしろ、色んな方とお話する方が元気がでますもの」
ギイはそんなエルフリーデの横顔をじっと眺める。
「……そうか」
「ええ。では参りましょう、ギイ様」
ギイのエスコートでエルフリーデが大広間に入ると、周囲が一瞬ざわついた。その多くは、エルフリーデの変貌による驚きであった。
エルフリーデは美しかった。
エルフリーデは深い空のような紺色の瞳と、淡い茶色の髪を持つ、整った容貌の持ち主だ。ただどこかおどおどとした様子が、彼女が美しいと気づかせなかった。それが今夜ははっきりと顎をあげ、指先まで自信に満ちた挙措をすることで、エルフリーデが他の令嬢たちに決して見劣りすることはないと周囲もはっきりと気づいたのである。
「ギイ=クレモンヌ! ……と、グレンフェル嬢」
そこで、ハンサムなホワイト伯爵子息に話しかけられる。ギイよりも二歳年長のこの令息は、女性には手が早いが決して憎めない性格の持ち主で、ギイとも昔から付き合いがある。それに、ホワイト家とグレンフェル家の関係から、エルフリーデとも知り合いだ。
「お久しぶりです、ホワイト様」
ゆったりとエルフリーデが微笑むと、彼女の耳元でティアドロップ型のイヤリングが揺れた。そのイヤリングはこの前の夜会でつけていたものとは違うなとギイはふと思う。
エルフリーデがそうやって笑えば、ホワイト伯爵子息は驚いた様子を隠そうともせずに彼女をまじまじと凝視した。
「待って、君、本当にグレンフェル嬢?」
「私以外に誰がいるんですか」
ふふっとエルフリーデが笑い声をあげると、ホワイト伯爵子息はますます驚いたようだった。
「わ、わらってる! 待って、君ってば笑ったら、そんなに可愛かったんだ!」
「なんてこと! 婚約者がいる令嬢にかける台詞ではありませんわ。でも、褒め言葉としてありがたく頂戴いたしますね」
衝撃から幾分立ち直ったらしいホワイト伯爵子息は、それからしばらく二人の側を離れず、いつものようにギイではなく。エルフリーデに話しかけ続けた。
エルフリーデは軽い会話をすることに長けていた。
ホワイト伯爵子息の振る話題に、軽すぎず浅すぎず、それでいて深すぎない絶妙なラインの返答をするのだ。結果、ホワイト伯爵子息は最初の衝撃を忘れ、エルフリーデとの会話を心から楽しんでいた。
それからもそんなことが続いた。
普段だったらギイと話してばかりの令息たちが、いつの間にかエルフリーデとの会話に夢中になっていく。
やがて人が途切れたタイミングが訪れ、エルフリーデがギイを見上げた。
「私、喉が乾きました」
「果実水でも飲むか?」
「よければ、白ワインがいいです」
「……じゃあ取りに行こうか」
何も言わずとも、エルフリーデはギイの腕に手をかけた。二人でワインが並べてあるテーブルまで歩きながら、ギイが呟いた。
「君は……誰だ?」
「私ですか……? エルフリーデ=グレンフェルです」
「……」
「もしかしたら」
エルフリーデが静かに続ける。
「記憶がないので、今までの私とは違うのかもしれませんが」
「――っ、それは、そうだな……」
そこでテーブルまでたどり着き、ギイが白ワインをエルフリーデに渡す。礼を言ってから白ワインを美味しそうに口に含むエルフリーデをギイは見つめていた。
「ふう。……そういえば、今までの私とは違うかもしれない、で思い出したんですが」
「ああ」
空のワイングラスを受け取りながらギイは相槌を打つ。
「昔の記憶もあまりないと申し上げたでしょう? だから聞きたいのですが、私達は仲が良かったのでしょうか?」
ギイは唖然とした。
やがて衝撃から立ち直った彼が、ゆっくりと頷く。
「……仲は良かった、と俺は思っている」
「そうですか」
ぱっと表情を明るくしたエルフリーデに向かってギイは口を開いた。
「だがある時から状況が変わって、あまり会えなくなったから……ずっと仲が良かった、というわけではないんだ」
「そうでしたか」
そう言ってみても、エルフリーデは特にこれという感情を見せなかった。
「その辺りは、覚えていないのか?」
水を向けると、彼女は軽く肩をすくめただけだった。
「覚えているような、覚えていないような……、でも、ギイ様がそうやっておっしゃるならそうなんでしょうね」
淡々とした返しに、ギイは拳をぎゅっと握る。
「それで、今は?」
気づけばエルフリーデの紺色の瞳が、ギイを見返していた。
「……今だと……?」
「昔は仲が良かった、でもその後状況が変わって会えなくなった、は理解しました。でも、今は? 今は婚約者ですよね。婚約者になったから、仕方なく私と付き合っているんですか?」
「……」
「仕方なく決められた婚約者だから、具合が悪くても花の一つも贈らない? 気持ちを示す必要はないと?」
「いや」
反射的にギイは口を開いていた。
「見舞いの花は贈った……、薔薇ではないが。だが……、どうやらお前の手元には届いていなかったようだな――……そうだな、それは俺の手抜かりだ」
エルフリーデがゆっくりと微笑む。
「人任せにされるのではなく、お花を届ける手段を考えられたほうがよろしいかもしれませんね」
彼は再び自身の拳をぎゅっと強く握りしめた。
「そうだな。状況が分かったから……次回からはそうしよう」
そこでエルフリーデはぱっと明るい表情になる。
「謝罪は受け入れました! では、近いうちに観劇に連れて行ってくださったらこのことは水に流しましょう。そうね、“お転婆令嬢の契約結婚”がいいわ!」
「……“お転婆令嬢の契約結婚”」
ギイがそのタイトルを口にしたきり、黙り込む。
「どうされましたか?」
「……いや、なんでもない」
「この演目、ご存知ですか?」
「ああ、聞いたことはある。確か……喜劇だよな」
「ええ、仰るとおりです。私、ずっと観たかったので! ……そういえば、街のカフェにも連れて行ってくださらない? うちの料理長の焼き菓子も美味しいのだけれど、そろそろ流行りのスイーツも食べたくて! めちゃくちゃ甘いのをいただくのが今の気分なんです。ギイ様も甘いのは好きでしょう?」
ぼんやりしているギイを尻目に、エルフリーデが知り合いの令嬢から話しかけられる。見ればそれはカティア=グリーン伯爵令嬢だった。たしかに以前から挨拶は交わす間柄だったはずだ。
「ごきげんよう!」
明るい調子で答えるエルフリーデに、カティアが言葉を失っている。
「話しかけてくださって嬉しいわ、グリーン様」
にこにこしているエルフリーデに最初は驚いていたものの、やがてそのペースに巻き込まれてカティアの顔に笑顔が浮かび、話が弾んでいく。
そんな二人をじっと眺めながら、ギイの表情はどこか晴れないままだった。
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