第21話 「不思議ではない世界 グレンフェル伯爵」
「あなた、その……エルフリーデのことだけれど」
グレンフェル伯爵は、それまで読んでいた書面から妻の顔に視線を移した。
いつも冷静で、理路整然としている妻がどうしてか少し動揺しているようだ。
「君がエルフリーデについて話すなんて珍しいね」
そんな妻の様子につい口を滑らせると、その表情がよく見知った温度の低いものになる。
「それは私が彼女の母として不合格という意味でしょうか」
(誰もそんなことは言っていないのに)
彼は意識して口元を緩めて微笑み、先を促した。
「決してそんなつもりではないよ。それで、なんだい?」
水を向けると、妻はまたしても少しだけ焦ったような表情となる。
(……もしかして、何か異常事態か?)
「その……、昨夜の夜会で、ちょっとした事故があったようです」
グレンフェル伯爵はぽかんとした。
「は? ……エルフリーデが、か?」
「はい。その場に……たまたまクレモンヌ子息とマリスがいて、連れ帰ってくれて大
事はなかったのですが……その……実は、少し、頭をぶつけたようです」
「なんだと!?」
すぐさまグレンフェル伯爵は立ち上がった。
「その後、急変したりはしていないのか!?」
そんな彼の反応を、それまでとは打って変わって冷ややかな表情になった伯爵夫人が見やる。
「……そうやって、やはりエルフリーデには心をお向けになられるのですね」
妻がそういった反応をみせると、今までの経験からその後が大変だということを身をもって知っている。だがさすがに今日はそんなことは言っていられない。
「エルフリーデだけではない。家族の誰がが頭をぶつけたと聞いたら、こんな反応になるのは当然だろう」
少しだけ強めに言えば、妻は口をつぐむ。
グレンフェル伯爵が見下ろすと、妻の顔色はやはりどこか優れないように思える。
「それで、医者は呼んだのだろうな?」
「朝に。先程帰られましたので、こうしてご報告に上がった次第です」
(……朝……?)
「どうして夜ではないのだ?」
一瞬妻は言い淀む。
「それは……そもそも戻ってきたのが夜も更けてのことだったようで……マリスから話を聞いたのが早朝でしたので」
「早朝……?」
「はい、慌てて見に行ってみればエルフリーデは眠っているようでしたし、苦しんでいる感じもありませんでした。もちろん使用人たちにはお医者さまが来るまで決して目を離してはならないと命じました」
淡々と答える妻に、感情らしきものは伺えない。
(……果たしてこの冷静さはどこまで保たれるのか?)
倒れたのがエルフリーデはなく、マリスだったら妻はどうしただろうと、そんな考えがグレンフェル伯爵の脳裏をちらりと横切る。
(それにマリスが、朝まで黙っていられるものか……? すぐに泣きつきにいってもおかしくないものを)
そんな彼の思考を呼んだかのように、妻の顎がつんとあがった。
「私の采配に不手際があるとお考えでしたら謝罪いたしますわ。でもそもそも旦那様は昨夜何があったかご存知なかったでしょう? それに私がどうして朝まで知らなかったと、旦那様にお分かりになられるんです?」
静かな口調で畳みかけるように言われると、グレンフェル伯爵には答えられない。
(……いつも、こうだな)
再婚してから一度も妻とは寝室を共にしていない――ジョセフィーヌとは違ったことを妻は知っていて、こうして機会があれば何度も当てこすってくる。
無表情な彼女の顔を見つめながら、グレンフェル伯爵は口を開く。
「君の言う通りだ。では私はこれからエルフリーデの様子を見に行ってくる」
「――っ」
どうしてか妻が怯んだので、彼は瞬いた。
「見に、行かれるのでしたら……、どうぞ、驚かないでくださいませ」
「――は? どういう意味だ?」
「エルフリーデの部屋にいらしたら、わかります」
妻はそれだけ答えると立ち上がり、カーテシーをすると振り返ることなく部屋を出ていった。
◇◇◇
エルフリーデの部屋を訪れるのは久しぶりだ。
こんな大義名分がない限り、妻の視線が疎ましく、昼間に堂々と扉をノックすることはできない。
(なんでこうなったんだろうな)
ため息をついたグレンフェル伯爵は、そこで扉の中から信じられないくらいの明るい声がもれていることに気づいた。
「やーだ、それって本当、ジェシカ?」
(……エル……?)
足を止めたグレンフェル伯爵は目を見開いた。
「真実でございます」
「えぇ……、やっぱり記憶がおかしくなっているみたいね。ぜんっぜん覚えてないわ」
「……!」
「わぁ、ごめん、焦らせてしまったわね。大丈夫、体調は悪くないの。お医者様も言っていたでしょ、記憶以外は健康体だって! まぁ記憶が欠けてるのに健康体っておかしい気もしちゃうけどね!」
はは、と明るい笑い声が続き、誘われるようにグレンフェル伯爵は扉を押し開けた。
(……笑っていたのは、やっぱり、エル……?)
馴染みのメイドを相手に楽しげに笑っていたのは、やはりエルフリーデだった。ソファに寛いだ様子で座っているのは確かに彼女なのに、まるで見知らぬ娘のような印象を与える。そのエルフリーデは、きょとんとした顔でこちらを見たかと思うと一気に破顔する。
(――っ!)
「お父様! 来てくださったのね!」
そのまま立ち上がろうとしたエルフリーデを「お嬢様、お座りくださいっ!」と必死でジェシカが止めている。
そんなメイドに対し「ごめんなさい、私ったら」とエルフリーデが小さく舌を出した。
(……こんな……こんなエルは……一体いつぶりだ……?)
「お父様、よろしかったらこちらに来て座ってくださいな」
「あ、ああ……」
弾むようなエルフリーデの声に誘われて、グレンフェル伯爵は足を前に進め、娘の対面のソファに腰かけた。
「お見舞いにきてくださってありがとうございます――ご心配をおかけしてしまって、ごめんなさい」
「……体調はどうだ、マコノヒー家で倒れたと聞いたよ」
「そうなんです。実は体調はそこまで悪くないのですけど、記憶が戻らないところがあって……幼い頃からポツポツと抜けちゃってるところがあるんです」
「なんだと……!?」
先程妻が「驚かないでください」と言っていたのはこのことか。
息を呑むグレンフェル伯爵に対し、エルフリーデはどこまでものんきだった。
「お医者様によれば、頭をぶつけると時々あるんですって。きっとしばらくのんびり暮らしたら元に戻るだろうし、それに万が一戻らなくてもそこまで気にすることはないだろうっておっしゃってました」
そんな風に続けるエルフリーデの表情には悲観めいたものは見られない。
「そ、そうか……、頭痛がするとかは、ないのだな? 気分が悪いとか……」
「ありませんわ。ただぽっかり以前の記憶がないところがあって、それだけ」
そう言うとエルフリーデはにっこりと笑った。
(……っ)
娘の微笑みなんて何年ぶりに見るだろう。
「体調自体は本当に悪くないんです。だから様子を見て、また社交いたします」
「社交を……?」
(以前はあんなに気が向かなそうだったのに……?)
幾多の夜会で、人の目を避けるように壁の花になっている娘を目撃しているグレンフェル伯爵はまたしても度肝を抜かれた。
「――っ、むりを……」
無理をしてはいけないよ、と続けようとして、しかしこちらをまっすぐに見つめる娘の視線を受け止めたグレンフェル伯爵は言葉を飲み込んだ。
「好きにしなさい。だが心配だからお医者さんには適宜診てもらいなさい」
そういえば、エルフリーデの顔に花が咲くようにぱっと笑顔が浮かぶ。
「ありがとうございます、お父様! それから、お父様……?」
「なんだい?」
エルフリーデはぷっと小さく頬を膨らませた。
「一つだけ申し上げたいことがあります。娘が倒れたのだから、すぐに飛んでこないと駄目じゃないですか」
「……えっ……?」
再びグレンフェル伯爵はぽかんとしてしまった。
「私のこと、心配ではないんですか?」
「そ、それは……心配だよ」
それを聞いたエルフリーデはにっこりと微笑む。
「ですよね? だったら、今度からちゃんと態度で示してください。私に何かあったらすぐにお父様に直接連絡がいくようにしてくださいね。いくらお仕事がお忙しいからって、お義母様任せじゃ駄目ですよ」
「――っ!!」
絶句する。
「ね、お父様?」
エルフリーデに聞かれて、グレンフェル伯爵はしばらくしてようやっと頷いた。
「……ああ、そうだな……、そう手筈を整えておこう」
ちらりとジェシカを見やると、彼女は熱心に頷いていた。
(そうか、そんな、簡単ことだったのか……)
「絶対に絶対ですよ?」
エルフリーデがにっこりと笑った。
★★★
娘の部屋を出たグレンフェル伯爵は物思いに耽っていた。
(そうだ、私は――確かに……家庭内が平穏であることを第一に考えて……、妻の視線を気にしすぎて――……)
妻は貴族のしきたりを重んじる人だ。
冷たい性格ではあるが、エルフリーデを徹底的にいじめ抜いたりはしない――夫である自分が線を超えない限りは。
妻のことだから、自分がエルフリーデばかりを構えば、裏で何をしでかすかわかったものではないと思っていた。そしてそれは多分、真実ではある。
だから、自分はエルフリーデとマリスと同じように扱い、そうすることでグレンフェル伯爵はエルフリーデを守っていたつもりだった。娘の笑顔が日に日に消え、以前の彼女がかき消えていってしまっても、どうにもならないと――。
(だが……、大事なところは決して手をひいてはいけなかったのだ……私はなんてことをしでかしたんだ……)
◇◇◇
ソファに腰かけたまま、足を伸ばしつつエルフリーデは独り言をつぶやいた。
「この世界の私って……きっととってもおとなしかったのね。なんだか可哀想なくらいだわ」
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