第14話 「不思議な世界 一日目」
どんな夜を過ごしたとしても、容赦なく朝はやってくるものだ。
エルフリーデの目覚めは過去最悪だった。両手でのろのろと顔を手で覆うと、全身が痛むことに気づいた。まるで地面に叩きつけられたあとのように。
(もう……朝……? 起きなきゃいけないのね……、ん……? いつの間にベッドに……?)
ぼんやりしていたが、やがてゆっくりと昨夜の記憶が蘇ってくる。
(あれ、私……?)
マコノヒー伯爵家からどうやって自宅に戻ったのか覚えがない。
(確か……転んで……?)
最後にギイがこちらに向かって手を差し伸べている姿が蘇ると、胸が痛む。
(そうだ、ギイとマリスが……あの場にいたんだ)
息を吐き、それからエルフリーデはゆっくりと身体を起こした。
いつもの自分のベッド、いつもの自分の部屋である。
きっと自分は気を失い、ギイが自宅に帰るように手配してくれたのに違いない。
そこで静かなノック音が響き、使用人が入ってくる。昔からエルフリーデの面倒をみてくれている、母と同じくらいの年齢のジェシカだ。ジェシカはエルフリーデが起きているのを見ると、ほっとしたように微笑んだ。
「お嬢様、お目覚めでいらっしゃいますか。お目覚め用の白湯をお持ちしましたので、お飲みになられますか?」
「ええ、いただくわ。……あの、私、昨日どうしたのかしら」
いつものようにテキパキと、白湯の入ったカップを渡してくれたジェシカはその質問に驚いた様子は見せなかった。
「マコノヒー伯爵家でご気分を害されて、倒れられたかと。一緒にいらしたクレモンヌ様がご手配くださり、使用人とともにすぐに戻っていらっしゃいました」
(ああ、やっぱりギイが色々と手を貸してくれたのね……申し訳なかったわ)
「そう……。残念だけど、途中から記憶がないの」
そういえば、ジェシカはさっと顔色を悪くする。
「まぁ、そうですか……!」
「でも、私、気を失っていたんでしょう? だったらそこまでおかしなことでは――……」
「かもしれませんが、すぐに執事に伝えてまいります。白湯をお飲み終わるまでには戻りますので」
食い気味にジェシカが身を翻そうとしたので、エルフリーデは呆気に取られた。
ジェシカは基本的に親身な対応をしてくれるが、それにしては少し大げさな気がしたのである。
「オグデンに言いに行くの?」
普段ならば、エルフリーデがちょっと体調を崩そうが、わざわざ執事のオグデンにまで伝えることはない。だがジェシカは当たり前だと言わんばかりに大きく頷く。
「ええ。エルフリーデ様になにかありましたらすぐに旦那様に伝えるよう、言いつけられておりますから」
そう言い置くとジェシカは部屋を去った。
旦那様、とはもちろんエルフリーデの父だろう。
(えっ……、そんなに私、具合が悪そうだったのかな。まぁ、気を失ったとしたら、そうか……な……?)
ジェシカは凄まじい勢いで戻ってくると、エルフリーデの体調に異常がないことをしつこいくらい確認した上で、身支度を手伝ってくれたのだった。
目覚めはあんなに悪かったが、ジェシカとのやり取りで少し気がまぎれたエルフリーデは、朝食の席におそるおそる向かった。
何しろ昨日の今日である。マリスあたりが、ギイとの婚約を自分のものにする、と声高に叫んでもおかしくない。
果たして予想はあたった。
すでに他の三人は席についていたが、エルフリーデがダイニングルームに入るや否や、マリスが顔を歪める。
「昨日、あんな風に倒れるなんて! せっかくギイ様と楽しい時間を過ごしていたのに邪魔されて、とても迷惑だったわ」
口を歪めながらマリスが言えば、義母も静かな口調で、しかしここぞとばかりに同調する。
「マリスから聞いたけれど、本当に信じられないわ。人前で気を失うなんて淑女としてあり得ないことよ」
エルフリーデがいつものように身体をすくめようとすると、しかしそこで父が声をあげた。
「二人共、静かにしないか」
(え……?)
エルフリーデは驚いて、目を見開いた。
父が、こんなにもはっきりと二人を制しているのを見るのは初めてだったからだ。
「エルフリーデが夜会で倒れたというのに、そんな風に言うとは何事だ――オグデンによれば覚えていないこともあるらしいな。立ったりして大丈夫なのか?」
「……ッ」
あまりにもびっくりしすぎて、エルフリーデは二の句が継げなかった。
「どうした?」
すっと父の眉根に皺が寄り、心配そうな表情を隠そうともしていない。さすがの父もエルフリーデが倒れたとなると、こうまで心配してくれるのか。
「ご心配かけてしまってごめんなさい。その……確かに、記憶はないんです。倒れてからの……」
そういえば、父がさっと青ざめる。
「やはりそうか。すぐに医者を呼ぼう」
ぽかんとしてエルフリーデは父を見た。
いつもならばオグデンを通じてしか、医者を呼ぶことはない。
「そんなに大げさにしなくても……今朝は顔色はそこまで悪くないように見えますけれど」
義母がそう口を挟むと、父はじろりと彼女を見やった。
「大げさとはどういう意味だ」
「マコノヒー伯爵家の手前ということもありますし。それに今朝はエルフリーデの顔色は悪くないように見えますけれど」
「マコノヒー伯爵家に何も責任を取れというわけでもないし、手前も何もないだろう。それに、顔色が悪くないと判断するのは私達ではない、医者だ。そもそも何事もないと知るために医者を呼んで何が悪いのだ」
「そ、それはそうですが……」
「それともなにか、私の判断に何か問題があると?」
「まさか、滅相もございません」
普段は父を言いくるめることの多い義母が明らかに、父の圧に負けていく――しかもエルフリーデのことで。
(お父様……?)
「そもそも君はいつもマリスには甘すぎるほど甘いが、エルフリーデには冷たいところがある。だからエルフリーデに関しての判断は私に一任すること」
「……はい」
義母が頷いて、エルフリーデは呆気に取られて父を眺めるばかりだった。
「それでどうした、黙ったままとは珍しいな、エルフリーデ。やはり本調子じゃないのだろう。医者が来るまで、のんびりしなさい。申し訳ないが私は外せない用事があるので、外出するが」
「は、はい……あの、だいじょうぶ、です、私だけで……」
「そうか」
「それで、ギイ様との婚約は……?」
マリスが口を挟むと、父が今度は義娘に厳しい視線を送る。
「エルフリーデの体調が悪いときに、まだそんなことを言っているのか。いいかい、婚約はそのままだよ」
(――え……?)
こんなにはっきりとギイとの婚約を父が推し進めるなんて。続けられた父の言葉には力がこめられていた。
「とにかくエルフリーデが回復するのが最優先だ。いいね?」
「――……はい」
父が念を押し、マリスはしぶしぶといった様子で頷く。
(お父様がこんなに私の体調について気遣ってくださるなんて……)
いつもとは違う父の態度ではあるが、だがエルフリーデの胸の内は暖かくなる。
それからは余計なおしゃべりもなく、静かに朝食を終えたのだった。
◆◆◆
部屋に戻ってからしばらくすると、かかりつけの医者がやってきた。
いくつかの問診や触診などを済ませると、医者はあっさりと告げる。
「ご安心ください、そんなに心配されることはないでしょう」
「本当ですか?」
「ええ。たんこぶはありますけれど、他に外傷はないし、すぐに治るでしょう。記憶に関しては、まぁ往々にしてそういうことはありますので、必要以上に気を病まれませんように。もしかしたらふとした瞬間に戻るかもしれませんのでね」
「はい……」
「記憶がないことでしばらくは普通と違う行動をすることもあるかもしれませんから、それは旦那様に私からお伝えしておきます」
医者は再度、気楽にお過ごしください、と言い置いて帰宅していったのだった。
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