第11話 「消えて、しまいたい」

 翌日はあまりよい目覚めではなかった。


 しかしなんとかいつものように、朝食の席に向かったエルフリーデが、ダイニングルームの扉を開こうとすると、マリスと両親の会話が耳に飛び込んできて、フリーズした。


「昨日、ギイがうちに来ることになっていたのをどうしてギリギリまで教えてくれなかったの?」

「急に決まったんだよ。エルフリーデにも私が話したのは朝だったんだ」

 

 穏やかな父の声が応じる。

 父はエルフリーデには距離をもって接するが、マリスには子供の頃と同じように対応する。基本的に、思いやりがある人なのだ。そんな父の気性を分かっていて、マリスも実の父親のように甘えている。素直なマリスのことを父は可愛いと思っているだろう――感情をうまく表せないエルフリーデとは違って。


「ほんとうにぃ? お義父様ったら年のせいでうっかりしちゃったってことではなくて?」

「マリス、口を慎みなさい」

 

 義母が口を挟む。

 義母は礼儀や躾に関してはマリスにも厳しい人だが、それでもエルフリーデに対するそれよりもずっと口調にも態度にも温度がある。


「はは、言われてしまったな。でも本当に突然のことだったんだ」 


(いつも思うけど……、私がいない方がよっぽど家族みたい……)


 会話だけ聞いていると、本当に円満で。

 子供の頃から何度となく感じていた疎外感が襲い掛かってきて、エルフリーデは扉のノブにかけていた手をゆっくりと下におろした。


「ふうん。まぁ使用人たちもそう言ってたものね。それで昨日ギイと話して、やっぱり彼がいいなって思って。私の話もよく聞いてくれるのよ、彼は。私のことが好きなのに違いないわ」

「マリス、“いくらお慕いしていたとしても”ギイ様と呼ばないと駄目じゃないの」


 エルフリーデの目の前が真っ暗になる。


「でもギイはギイだもの。大丈夫、表ではちゃんとギイ様って呼ぶから」

「もう……。それで、貴方、私の言った通りでしょう。マリスと気が合うと思っていたの。――やはり昔のあれこれにとらわれずに、今の彼らを見なくては」


 義母の静かな声が続く。


「うん、まぁ、それはそうかもしれないが」


(あ……)


 父の返事は必ずしも明るい調子ではなかったが、今までにないくらい揺れているようだ。


「お茶会の様子をちょっとだけうかがっていたけど、お姉様とギイは全然会話が続いていなかったし。ギイ、私とは共通の知り合いもたくさんいるから、話が続いたのよ。やっぱりギイだって“話が合う”方がいいと思うの」


 エルフリーデは身を固くした。それはまごうことない真実だ。


「まだ本当に決まったわけではないのですよね? でしたら、婚約するのはマリスでどうかと今から申し出てもいいのでは?」


 父の答えはなかった。

 だがマリスと義母がどれだけギイの婚約者にマリスがふさわしいかを話しつづけるのをそれ以上聞いていられなくて、エルフリーデは踵を返した。

 どうしてもしばらく落ち着く時間が必要だった。そうでないと、大声で泣き出してしまいそうだったから。

 

 部屋に戻るや否や、ソファに座り込んで、項垂れる。


(私……、私……、私は………どうしたら、よいの……?)


 動悸が激しい。

 そこに至って、自分はギイとの婚約を心底のぞんでいると知る。


(何も言えない私に、そんな資格はないのに……)

 

 震える手をゆっくりと握りしめる。

 

(でも……、マリスの言っていることはもっともで……、ギイも、きっとそのうち、私が相手じゃ物足りなくなって……)


 混乱して、考えが言葉にならない。

 しばらくして、ある結論を導き出す。


(きっと……婚約はマリスのものになるのに違いない……お父様がそう決められたら終わり。私にはギイ以上の相手なんて……これから現れることもないだろう……)


 ぽた、と涙が自分の拳にこぼれ落ちたのにも気づかなかった。

 エルフリーデは、それから数日どんな風に過ごしたのか自分でもあやふやなくらいだった。


 幸い、父は決断はしなかったらしい。


 それから一週間後、ギイの友人であるコンラッド=マコノヒー伯爵令息の婚約披露の夜会にギイの同伴者として招待されたからだ。

 その招待状がマリスではなく、エルフリーデに届いた日、彼女は自分でも信じられないことにその場で泣き出しそうになった。

 だがそれからすぐにギイがエルフリーデをエスコートすることを知ったマリスが部屋に怒鳴り込んできた。


「なんで、あのギイのパートナーがだっさい貴女なのっ! ほんっと信じられない! 私がギイの婚約者にふさわしいってお義父様に言ったのに!」

「……」

「もうほんっとお義父様ったら煮え切らない、しんっじられない! 私の方がグレンフェル家のためになるっていうのに!」

 

 ださい、ずるい、信じられない、地団駄を踏みながらマリスが一方的に叫び続けた後、最後に殺したいと言わんばかりの視線でエルフリーデを睨みつける。


「お母様に言ってやるんだから! 絶対にギイとの婚約は私のものにしてもらいますから!」


 エルフリーデの返事を待つことなく、マリスは部屋を飛び出していった。


 それからマコノヒー伯爵家での夜会までは、まさに針のむしろだった。


『まさかこんなに自分を知らないだなんて思わなかったわ、エルフリーデ』

『ほんっとうに!! 身の程知らずのお義姉さま!』

『……』


 ため息をつき、どこまでも冷ややかな義母と、あからさまな敵意をぶつけてくるマリス。

 そして、何も言えずに俯くばかりの自分。


 ギイとの婚約を断ればいいのだろう……でも、そうしてしまうと、自分はもう生きていけない。だからそれも言い出せない。それだけは譲れない。なのに、何も言い返せず、時が過ぎるの待つだけ。


 エルフリーデは自分の人生の決断を、誰かが下すのをただ待っているだけだった。


 なんて愚かな自分。

 なんて弱くて、ずるいのだろう。


 けれど、どうしたらいいのか、もう分からなくなってしまった。


(ああ……、消えて、しまいたい。私が消えたら、みんな、ほっとするのかな)

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