第7話 「クレモンヌ邸での夜会」
幼い頃は何度も訪れていたクレモンヌ邸の夜会に、凄まじく緊張しながら参加した。人がひっきりなしに出入りする大広間の扉の前で、エルフリーデはぎゅっと扇を握りしめる。
(だいじょうぶ、だいじょうぶ……、ちゃんとまともなドレスも着てきた、メイクアップもお願いした、ネックレスとイヤリングはお父様が十八歳のお誕生日にくださったものをつけている)
美しい細工が施されている金のネックレスを見下ろす。
耳を飾るのはネックレスの対の、こちらも金のドロップ型のイヤリングだ。
一緒に街に出かけることはなくなっても、誕生日には父は必ず贈り物をくれる。もちろんそれはマリスにもしていることで、エルフリーデだけではないのだが、それでも思いのこもったプレゼントは嬉しく、大事にしている。
こっそり父にお礼の手紙を書くのがエルフリーデにできる唯一のことだ。
(お父様が一緒にいてくださっているみたい)
今まで大事に仕舞っていたが、今夜はこのネックレスをつけるのだと最初から決めていた。
そして紺色の瞳に合う濃い目のブルーのドレスは、ちゃんと今年仕立てた流行遅れではないものだし、くすんだ髪色はどうしようもないけれどメイドに綺麗に結い上げてもらった。何しろ婚約者、候補との初めての夜会である。エルフリーデが特に頼まなくても、メイドたちは張り切って支度してくれた。
(彼女たちの腕は間違いない、だから大丈夫――後は、私が、頑張るだけ)
それが一番の問題かもしれない。
エルフリーデは無意識に震える身体に力をこめつつ、大広間へと足を進めた。
いつだってエルフリーデは、目立たない令嬢である。
だから彼女が登場しても、誰も注目なんてしない――彼以外は。
人々の輪の真ん中で、美しいプラチナブロンドの髪を持つ精悍な男性が見えた。彼がその場の中心であることは明らかで、周囲の人々はみな、夢中になって話しかけている。その彼が彼女が広間に入るなり、ぱっとこちらを向いた。
周囲の人に断りをいれて、まっすぐにエルフリーデに向かって歩いてくるその人こそ――ギイ=クレモンヌ。今夜から、エルフリーデの婚約者だ。
(私の、婚約者……?)
改めてそう思って、向かってくるギイに視線を送る。
「……っ!」
ギイが歩くと、光も一緒に動くような錯覚が起きる。思わずグッと手に力をこめてしまうが、なんとか身をすくめずには済んだ。
彼はさっと彼女の頭からつま先まで視線を送り、微かに頬を赤らめた。どうしたのだろうかと思う間もなく、質問をされる。
「エルフリーデ、来たか」
子供の頃とはぜんぜん違う、低く響く声で話しかけられると、それだけでたじたじになってしまう。
「……、はい、……参りました」
蚊の鳴くような声で答えてしまったが、ギイの耳には届いたようだ。彼はエルフリーデの背後に視線を飛ばし、何かを確認してから表情を少しだけ緩める。
「久しぶりだな」
「お久しぶりです」
そこでまだ挨拶をしていないと気づいたエルフリーデがカーテシーをする。彼女が姿勢を戻すのを待って、ギイがゆっくりと尋ねる。
「俺達の婚約について、聞いたか?」
まるで苦手な甘いものを食べる時のようなその顔は、子供の頃から見知ったもののような気がして、エルフリーデは一瞬気が抜ける。そのお陰で先ほどよりもほんのわずか滑らかに言葉が出てくる。
「はい、うかがいました」
「聞いたうえでここに来たということは――いいんだな?」
ギイの口元が少しだけ震えているような気がして、ぱち、とエルフリーデは瞬く。
(やっぱり、さっきからギイが緊張しているような……まさか、そんなわけないわよね……なんでギイが婚約に関して確認するのに……だって相手は”格下の私なのに”)
「はい」
「……いいんだな、では次からは俺がエスコートするぞ、グレンフェル家から」
(えっ、グレンフェル家から……?)
若干戸惑ったが、なんとか頷く。
「……はい、そうされたいのでしたら」
「本当に構わない?」
重ねて尋ねられて、エルフリーデはハッとした。
(これは、私から断ってほしい、っていうこと?)
エルフリーデは一度口を開き、力なく閉じた。
なんと言えばいいか分からない。
以前の自分だったら、ましてや相手がギイだったら、軽口混じりにでも言えたはずだ――”何よ、ギイ、私が相手じゃ不服だって?”とか、なんとか。
自己嫌悪のため、エルフリーデの瞳がさっと陰ると、ギイが右足にかけていた体重を左に移した。
「どうした」
「え」
「なにか言いたいことがあるのか? ……婚約者になったんだ、遠慮なく言え」
ぽかんとするエルフリーデに、ギイがさらに畳みかけるように尋ねる。
「俺が婚約者じゃ嫌か?」
「いいえ、そうでは……」
本音がぽろりと零れかけ、はっとする。
脳裏を、何をしても絶対に褒めてくれない義母のすました顔がよぎる。義母が喜ぶように、今ここでギイに「婚約者にはなりません」と答えるべきなのだろうか――どれだけ自分の思いに反していても。
「そうではないならば、今、何を考えたか教えてくれるか」
畳みかけられるように尋ねられ、視線を落としてしまう。
「……私の振る舞いがご不快に思われましたら、謝罪いたします」
“幼馴染”ではなく、“淑女”ならば許されるだろう言葉を告げる。
しばらくギイからの返答はなかった。
「なあ、そんな他人行儀な話し方はやめてくれないか。昔は……そんなんじゃなかっただろ」
やがて潜められるように続けられた言葉に、はっとして見上げると、彼はもどかしそうな表情を浮かべていた。
(ああ、私ったら……ギイにこんな顔をさせてしまって……!)
だがそこで、ギイがはっとしたかのようにエルフリーデに手を伸ばす。
「あぶないっ」
「――!?」
彼の力強い手に引き寄せられると、あたりにふわりと甘い香りが漂う。
それは確かに知らない香りだったが、けれどどこか――。
(ああ、やっぱりギイ、なんだな)
昔から馴染みのある、彼の体温だった。
母の葬儀のときに手を握っていてくれたギイ――そのあたたかさを忘れたことはない。
そこへ、先ほどまでエルフリーデがいた場所にどどっと令息たちがなだれ込んできて、間一髪ぶつからずに済んだ。
ギイはエルフリーデを庇うかのように前に立つと、令息たちの一人に向かって声をあげる。
「おいコンラッド、危ないじゃないか! 気をつけろよ」
「悪い、ギイ。エルドが酒を飲みすぎたみたいだ」
一人がどうやら知り合いだったらしく、ギイに向かって謝罪した。ギイの背中越しに令息をみれば、彼もまた社交界で人気だと言われているコンラッド=マコノヒー伯爵令息だった。
「酒を飲みすぎたって……まだ夜会は始まったばかりだろう」
「だから悪いって――っ、おっと……、あれ、お邪魔したかな?」
ギイの背後でエルフリーデは小さく息をのむ。
コンラッドはギイの背後に立っているエルフリーデをまじまじと見ている。
「邪魔ではないよ。彼女はエルフリーデ=グレンフェルだ」
「ああ、名前は知ってるよ。だってお前が……」
何かを言いかけたコンラッドに対し、ギイがわずらわしそうに片手を振って制した。
「それはともかく、いいから気をつけろよ」
「え」
「また今度な!」
ギイはくるりと身体を反転して彼女に向き直った。彼の表情は固く、何を思っているのかはよくわからない。
「ここには酔っ払いがいるから、向こうに行こう」
「―……はい」
ギイが差し出した腕にエルフリーデはおずおずと手を伸ばす。
彼の腕は、昔に比べるととてもたくましくて、エルフリーデをなんなくエスコートしてくれる。
「ったく、とんだ邪魔がはいったな」
「……あの……」
躊躇いがちにエルフリーデは口を開いた。
「なんだ」
「その……ありがとう、ございました、助けてくださって」
お礼を言えば、ギイがぱっと彼女を見下ろしたので、少し気まずくなった。彼はじっと彼女を見つめていたが、やがて小さく息を吐く。
「あれはあいつらが悪い。どうせ酒を飲んだ勢いでふざけてたんだろう――ああ、そういえば」
「?」
「聞いているかわからないが、明日お前の家に呼ばれているからな」
(え!)
目を見開いたエルフリーデの表情から、聞いてないと察したらしいギイが説明を加える。
「グレンフェル伯爵に招待されたんだ。明日はお前とお茶をすることになっている……婚約者になったからな」
(ギイと、我が家でお茶を……? すごく、久しぶりね)
そこで過るのは、母が生きていた頃の楽しい思い出ばかりだ。
エルフリーデの胸にあふれたのは、素直な喜びだった。
「まだ婚約者としての自覚はないかもしれないが、とにかく明日は――……」
「――……います」
「ん?」
エルフリーデは衝動のまま、ギイの耳に届くか届かないか分からないくらいの音量で囁く。
「お待ち、しています、ね」
そして、ふわりと微笑む。
「……っ」
――どうしてか、ギイがぴしりと固まり、それから彼の耳にさっと朱が走る。
「……じゃあ、明日お前の家に行くからな」
ギイがぶっきらぼうな口調でそう言うと、それからどこかぎくしゃくしながらエルフリーデをエスコートしてくれた。少し歩けばギイの知り合いにつかまる状況で、彼がどれだけ友人が多いか知れる。
「クレモンヌ、今夜はどうしたんだい。誰かをエスコートしているなんて珍しいじゃないか」
「俺だって年頃だ」
「まぁ、そりゃそうなんだけど。紹介してくれないのか?」
まるでエルフリーデを隠すかのように立っていたギイはそう水を向けられて、ようやく紹介する。
「彼女はエルフリーデ=グレンフェル嬢だ」
ギイが婚約者とは口にしなかったので、知り合いの令息たちは怪訝そうにはしながらも、きちんと挨拶をしてくれる。
「そうか。はじめまして、グレンフェル嬢。私はロバート=スミスと申します」
「はじめまして」
それからもギイはエルフリーデのことを紹介はしてくれるが、婚約者とは口にしなかった。なので、エルフリーデも意識して挨拶だけを交わすようにした。
『なによ、あの冴えない令嬢……!』
『顔はともかく、髪色最悪』
『まさか婚約者じゃないわよね?』
『やめてよ。クレモンヌ様は婚約者とは言ってなかったみたいよ』
ギイを慕っているのだろう令嬢たちが、こちらを眺めては眉根をひそめ、ひそひそ話しているのが視界の端にうつったが、つとめて気にしないように意識の外に追いやる。
とある令息に話しかけられ、ギイが応じている最中のこと。
あまりにも強い視線を感じてエルフリーデはふと顔を上げた。
「……っ!」
広間の向こうに、ぎらぎらとした瞳を隠そうともしていないマリスが目に入って、エルフリーデは瞬時に身体を固くした。
異変を感じたらしいギイが、驚いたように彼女に声をかける。
「どうした?」
だがエルフリーデは恐怖のあまり、声を出すことができない。
すぐにマリスは身を翻して、広間を出ていってしまったから、ギイは義妹には気づいていないに違いない。
エルフリーデを捉えているのは、マリスの憎悪に近い感情に満ちた眼差し。
(マリス、きっと……よくないことを、考えてる……)
義妹のことなら、よく知っている。
「だから、どうしたんだ?」
そこで再度ギイに声をかけられてエルフリーデは我に返る。
彼らの前で、ギイに話しかけていた令息があっけにとられたような表情で二人を見ている。
「お、お邪魔してしまって、申し訳ありません。どうぞ、私に構わず続きを……」
エルフリーデにはなんとかそう続けるのが精一杯だった。ギイが何かを言いかけたが、口をつぐみ、彼女からふいっと視線を逸らす。
一度気まずい雰囲気になってしまうと、もう修復不可能だった。その夜は最後までギイとどこかぎくしゃくとしたままだったのだ。
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