第3話 「幼馴染との婚約 ③」

 ギイと一番行き来があったのは、 まだ母が健在で――貴族令嬢としては随分おおらかに育てられていた頃だ。

 父親同士が若い頃からの親友で、要するに生まれながらの幼馴染なのである。

 頻繁に開かれるお茶会で、もともと活発な性格だったエルフリーデは、ギイと庭園で走り回ったり、笑い転げたりしていた。


 その日はグレンフェル家にクレモンヌ家を招待していた。

 勝手知ったる我が家の庭園で、エルフリーデは今日も今日とて元気いっぱいに過ごしていた。


『エルー! 昨日は雨だったのだから、地面は滑りやすいわよ。どうか気をつけてね!』


 母の声がして、少し離れたテーブルを見ると、彼女が心配そうにこちらを見ている。


『はーい、気をつけるわ!』


 エルフリーデが元気よく手を振って答えると、母の隣で父が笑っている。

 言っている端から、エルフリーデは足をすべらせて転倒してしまった。


『エル!』

『大丈夫よ、お母様』


 エルフリーデはすぐに立ち上がると、大丈夫だと見せるためにテーブルの近くまで小走りで向かう。

  

『エルフリーデ、ドレスが葉っぱだらけだぞ』

『あら、本当だ。教えてくださってありがとう、お父様』


 エルフリーデはスカートについている葉っぱを手で払い落とす。

 母がちょっとだけ困ったようにクレモンヌ夫妻に謝罪した。


『もう、困った子ねえ――ごめんなさい』


 だがクレモンヌ夫妻は笑って許してくれた。


『あんなに楽しそうなエルフリーデを止めるのは酷というものですよ、奥様。それにさすがジョナサンの子供という感じがする。すべての元凶はジョナサンに違いない』

『言ったな、ルクサルド=クレモンヌ。お前には言われたくないが』

『さすがの私もお前には負けるよ』


 それこそ子供の頃から親友同士の二人がそうやってやり取りをしている隣で、クレモンヌ伯爵夫人も微笑む。


『ふふ、いいのよ、エルフリーデはそのままで。子供らしいもの』


 クレモンヌ伯爵夫人は、エルフリーデにもいつも優しい。


『ありがとうございます』


 エルフリーデはカーテシーをすると、ギイの元へと戻っていく。

 その後姿を見送りながら、クレモンヌ伯爵が呟いた。


『うちのギイにはあれくらい元気なご令嬢がぴったりだな』

『そうですわねえ』


 クレモンヌ伯爵夫妻の視線の先ではギイと笑い合うエルフリーデの姿がある。


『何しろブラインは私に似て大人しいからな』


 ブラインとは、ギイの四歳上の兄だ。物静かな人柄で、今日も一人離れて木陰に座り、本を読んでいる。


『誰に似てるって?』


 父が口を挟むと、クレモンヌ伯爵はははっと大口を開けて笑った。

 そんな大人たちの会話などつゆ知らず、エルフリーデはその日もギイと真剣に遊んでいた。


 二人が八歳の折である。

 当時のギイはまるで少女と見間違うほどの可愛らしさと華奢な体つきだったが、中身は少年らしく冒険活劇が好きだったりした。


『“ジャスティスシリーズ”あるだろう? 今、お兄様と一緒に夢中になって読んでるんだ』


 ひとしきり走り回り、ここらで一休みしようとベンチに腰かけた二人は、最近読んでいる本について話していた。


『ジャスティスシリーズって、船に乗って遠い国に流れ着く物語のこと?』

『そうだよ! ジャスティスが無人島で生活するんだよ。最初は洞窟に住んで、自分の力で切り開いていくんだ。すごく面白いから、今度エルも読んでみて』

『わかった、時間があったらね』

 

 ギイはじとっとした目でエルフリーデを睨む。


『時間があったらねって……読む気ないでしょ。だってエルは“ゴトフリーの悲劇”みたいな本が好きだもんね』

『う……、確かに“ゴトフリーの悲劇”はすごく好きな本だけど、ちゃんと読むってば!』


 意外といってはなんだが、エルフリーデが好むのはシリアスな恋愛ものだった。もちろんまだ子供だから、そこまで複雑な筋立てではない。けれど、明るいラブコメディーよりはシリアスで重厚な物語を読むのを好んだ。


『ふうん。じゃ、読んだら感想教えてよ?』

『……うん、一年後になるかもしれないけど』

『だからそれって読む気ないってことだよね!?』


 ギイが顔を顰めたが、もちろん彼は本気で怒っているわけではない。エルフリーデもギイもお互いの好きなものを把握して、尊重していたからだ。


『読む気はある。そうだ、ギイがあらすじを教えてくれたらいいんだよ。私が気になるように、楽しく話して?』

『あらすじ聞いちゃってから読んだりする?』


 といいながらもギイが楽しげにあらすじを話しだしたので、エルフリーデはにこにこしながら耳を傾けた。

 

『ギイ、帰るぞ』


 クレモンヌ伯爵の声が響く。

 ベンチからギイが立ち上がったので、エルフリーデもそれにならった。

 立ち上がると、ギイの方がエルフリーデよりほんの少しだけ背が高い。


『今日も楽しかったわ』


 エルフリーデがにっこり笑うと、ギイの耳がさっと赤くなる。そこでギイが、あれ、と首を傾げた。


『あれ、エル……、右手の人差指がちょっと赤いけど』

『わ!』


 ばれちゃった、とばかりにエルフリーデは右手を自身の後ろに回した。


『どうしたの?』


(まだ黙っておきたかったのに……!)


 ギイが心配していることを隠そうともしない顔で言うので、エルフリーデは白状することにした。


『あのね、昨日、お母様が特別にお許し下さったから、私、クッキー焼いたの!』

 

 これにはギイは心底仰天したらしい。

 ぽかんと彼が口を開ける。


『ええ、エルがクッキーを……!?』

『そうなの。令嬢っぽくないって思うでしょ? でもね、お母様がいいわよって……料理長にも手伝ってもらいながら焼いたんだ。ちょっとだけ天板を触ってしまって、火傷しちゃったの。まさかあんなに熱いとは思わなかった!』

 

 料理長は自分がついていてお嬢様に怪我をさせて申し訳ないと平謝りだったが、エルフリーデはもちろん母も料理長を咎めるようなことはなかった。

 むしろそれで次回はきっともっとうまくできる、と思っているくらいである。


『わあ、すごいね!』


 ギイがにっこりと笑う。

 

『美味しかった? 僕も食べたかったな』

『そう言ってくれて嬉しいんだけど、焦げちゃって……まだ人に出せるようなクッキーではなかったの。でも上手に焼けるようになったら、一番にギイに食べてもらいたい!』

 

 それはエルフリーデの素直な気持ちだった。

 ギイの顔にみるみる満面の笑みが広がっていく。

 

『やったあ、約束だよ』

『もちろん! ギイはあまり甘いのは好きじゃないでしょう? 甘くないクッキーを焼くからね』


 彼があまり甘いものを好まないということを彼女はよく知っている。一般的にこの国のお菓子は甘いものが良しとされて好まれているから、ギイの好みとは逆だといえる。


(ほんとはクッキーを焼いたのも……ギイが美味しく食べてくれるお菓子を作りたいってことだったんだけど。それはまだ内緒!)


『嬉しい、絶対だよ――でも、火傷には気をつけてね』


 エルフリーデは右手の小指を差し出した。


『この小指に誓うわ!』


 ギイも右手を差し出し、二人は小指を絡ませる。


『その日を楽しみにしてるね!』

『うん!』


 だが、ついぞその約束が果たされることはなかったのだ。

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