きみの記憶


伊織いおり。ごめんね」


 なにがごめんね、だ。

 俺はこの街が好きでずっとここで暮らしたいのに。


 お父さんの転勤が決まった。

 それは、仕方ないっちゃ仕方ないことだ。


 でも、いきなり今週末引っ越すって言われても心の準備とかもできてない。

 もう友だちと会える回数は数回しかないじゃないか。


 大人は親は、子どものことをなんにもわかってくれない。

 なんでもごめんねって謝れば済むと思って。



 嫌になって、家を抜け出して夜の公園でひとりブランコに座る。



「家帰らないの?」


 声がしたほうに顔を向けると同じくらいの年の女の子がいた。

 気づかなかった。


 こんな夜にがひとりで大丈夫だろうかと自分のことを棚に上げて思う。


「ちょっと……」


 この子に話しても意味ないから。

 誤魔化して下を向く。


「そっか」


 その子はなにもかず隣のブランコに座る。




「なにがあったか訊かないの?」


「うん。訊かないよ。

 でも、あなたが話したいんだったら聴くよ」


 優しい子だな。

 普通、こんな夜にブランコに乗ってたらなにかあったか問いただしてもおかしくないのに。


「きみはなんでここにいるの?」


 きみだって、こんな夜に公園に来るなんてなんかあったんじゃないのか?


「わたしは、時々ここに来るの。ここならあまりだれも来ないし、色々考えることができるから」


「そうなんだ」


 なにを考えるのだろう。

 はじめて会ったけど、不思議な子だった。




「ここね、星がたくさん見えるから星空公園って言うんだって」


 おばあちゃんが言ってたー、と得意げに話す。

 知らなかったな。ずっとこの街に住んでるのに。



 空を見てみると、いまにも降ってきそうな満天の星空が広がっていた。


 そして、あれは天の川だ。

 一年に一度だけ織姫と彦星が会うことができる橋のようなもの。

 きれいだな。


「今年は雨じゃないから織姫さんたち会えたかな」


 女の子が空を見ながら呟く。


「きっと会えたよ」


 去年は雨だったが、今年はさっぱり晴れている。

 安心させるような言葉を述べる。


「でも、一年に一度しか会えないなんて可哀想だよな」


 夫婦なのに、会えるのが一年に一回だけなんてこんな可哀想なことはないと思う。




「そうかな? わたしそう思わないよ」


「え、なんで?」


 淡々と話すその子の目は、きらきらしていた。

 その瞳はまるで星のようだった。


「織姫さんたちはきっと心で繋がっているから。

 お互い会えない日のほうが多いけど、だからこそその会える一日が大切になる。

 そんな特別な日になるのいいと思わない?

 近くにいすぎると気づけないこともたくさんある。

 離れていたほうがいいときだってあるんだよ」


 少し悲しそうな顔をする。


 俺にはちょっとよくわからなかった。

 離れていたほうがいいときがある、なんてどうしても思わない。

 友だちとはいつだって近くにいたい。

 だから、引っ越しなんてしたくない。

 そう思うのは、俺だけじゃないはずだ。



「あ! 流れ星!」


 織姫と彦星の再会をまるで祝福しているかのように流れ星がいくつか降ってきた。

 今夜流星群がみえるかもしれないってニュースでいってたから、それだ。


 キラッと輝く流れ星を見て、彼女のほうを見ると、目を瞑ってなにかをお願いしていた。



「なにお願いしたの?」


「えっとね! 

 あなたがずっと笑顔でいられますように、って」


「……っ!」


 声が出なかった。

 はじめて会った人のことを願うなんてそんな人もいるんだな、と感心する。

 まだ今日知り合ったばっかなのに。


「ほら、笑ってるときっといいことあるよ」


 手をほっぺたにあてて無邪気に笑う。

 そのあったかい笑顔になんだか救われた気がした。




「ごめん。わたしそろそろ帰らなきゃ」


「あ、うん」


 じゃあ、また。と手を振る。

 もう会うことはないのに、また、なんて。

 手をふって、彼女を見送ったけどもうあいたかった。

 また、話したかった。




 星空公園。

 最後にここに来たかった。

 あの女の子はいないかな、と辺りを見渡す。

 すると、ひとりの女の子が手を振ってこっちに駆けてくるのが見えた。


「また会えたね!」


 やっぱりあのときの女の子だ。

 今日はおばあさんと来てるみたいだ。


「お友だちかい?」


 お友だちではない。知り合いってとこかな。

 そう思ったけど、その子は明るく笑う。


「うん! お友だち!」


「そうかい。仲良く遊ぶんだよ」


 そう言ったおばあさんはベンチに座って本を読み始めていた。



「俺ら、友だちなの?」


「え、ちがうの?」


 女の子は少し残念そんな顔をする。

 そんな表情をさせたかったわけじゃないのに。


「いや、まだ全然話したことないのになって……」


「そんなの関係ない。

 わたしはあなたのこともう友だちだって思ってるよ!」


 友だちか。

 そう思ってくれるのはもちろんうれしい。

 でも、俺はもう転校するんだ。

 だから、会えないんだよ、もう。



 明日、転校してしまうことを話す。


「転校かぁ、しょうがないっていえばしょうがないことなのかもしれないけど、ちゃんと子どもの気持ちも考えてから決めてほしいよね」


 なんでわかってくれるんだろうか。

 クラスの友だちに言っても「親の仕事なら仕方ないよな」ともうはじめから諦めたように言うのに。

 同い年なのに卓越している回答ばっかだ。



「わたしたちが親になにか言っても状況が変わらないことのほうが多いと思うけど、諦めないで話してみたらなにか変わるかもしれないよ。 

 わたしはあなたに決められたものに抗うことを最後まで諦めてほしくないな」


 女の子の言葉が胸を貫く。

 

 抗うことを諦めないか。

 そんなこと思ったことなかったな。


「……ありがとう。俺、自分の気持ち言ってみる」


 その子のおかげで諦めない決心がついた。

 その結果、転校することになっても悔いはない。


 まだ2回しか会ってないのにこんなに俺のことを考えてくれるなんて。



「そろそろ帰らないと」


 名残惜しいけど、俺は"帰る"という言葉を口にする。

 まだ荷造りをできていないからもうそろそろ準備しないと。

 親に怒られてしまう。


「またね!」


 もう会うことはないはずなのに、最後までまたね、と言ってくれる。

 そんな彼女の優しさに最後の最後まで救われた。

 もっとはやく出逢っていたかった。

 もっとたくさん話をしたかった。


 そんなことを思いながら、公園の外まで歩く。

 まだ聞けてないことがあった。

 だから、俺は振り返って叫んだ。


「きみ、名前は?」


 もう転校するんだから、この街を離れるんだから聴いても意味ない。

 でも、覚えておきたかった。

 俺の心を救ってくれた素敵な子の名前を。


「あおい。水原葵!」


 水原葵。

 呼ばれた名前を心の中で反芻する。


 葵に大きく手を振って、前を向く。

 もう振り返りはしない。


「またどこかで会えたら……」


 そうぽつりと零した一言は雲ひとつない青空に儚く消えていった。







 4年後、俺はまた戻ってくることができた。


 葵に言われて、俺はあのあと、諦めないで自分の気持ちを言葉にして父さんと母さんに伝えた。

 父さんは、「高校生になってしまうと思うけど、戻れるように頑張ってみるよ」と言ってくれた。

 母さんも、「伊織の大好きな街だもんね。わたしもなるべくなら叶えてあげたいわ」と笑ってくれた。


 だから、葵のおかげだ。

 葵がこの街にいる保証なんてどこにもないけど、会えたらありがとうって伝えたいな。


 中学では、葵の姿をみつけることはできなかった。

 高校生になった俺は家の近くの進学校へと進んだ。




 入学式。

 いるはずないけど、どうしても " 水原 葵 " の名前を探してしまう。

 横から順番に名前を目で追っていくと、息が止まった。

 彼女がいただけでなく、同じクラスだったから。




「おはよう」


 わざわざ通らなくていい道を通って、彼女の前に来た。

 勇気を持って挨拶を交わす。


「……おはよ!」


 葵から返事が返ってくる。

 少し顔をあげるとあの頃と変わらない瞳が俺を捉えていた。

 でも、それ以上はなにも話そうとはしない。


 やっぱり俺のことなんかおぼえていないんだと思ったら少し悲しくなった。


 でも、それでもよかった。

 葵の近くにいられるなら。


 またあの無邪気な笑顔に会えるのなら。




 でも、いつまで経ってもあのときと同じような笑顔を見ることはできなかった。

 どこか上辺だけを繕っているような笑顔だった。

 あのあと、中学のとき、なにかあったのだろうか。


 その謎は結局わからなかった。

 葵は、自分のことをなかなか話そうとはしなかったから。

 ガードが思ったより固かった。




 それから半年のときが過ぎ。

 葵との想い出はどんどん増えていた。

 少しずつ自然な笑顔も増えていき、あの頃の無邪気な笑顔も一度だけ見せてくれた。




『星空公園に来てほしい』

『話がある』

『ずっと待ってるから』


 送ってしまった。


 これでもう後戻りはできない。

 俺はいまから人生初の告白ってやつをしようと思っていた。

 相手は俺の初恋の人。



 ここは星がよく見える公園。

 葵と俺、ふたりのお気に入りの場所だった。

 ふたりの家のちょうど真ん中辺りにあるし、よくここで話したっけ。

 そういえば、小さい頃も。

 なんて想い出を振り返ってると、かれこれ一時間以上経っていた。


 遅いな。既読にもならない。

 忙しいのかな。なら、明日。いいや、だめだ。

 今日は8月20日で、葵の誕生日。

 誕生日を祝うのと同時に告白する。

 結構前から決めていたことだ。今更変えない。


 それにしても、葵のことを考えて待つ時間全然苦じゃない。

 むしろたのしい。


 緊張しているはずなのに、葵の笑顔を思い出していたら不思議と口が緩む。

 俺が告白したらどんな顔するんだろうか。

 笑ってくれるだろうか。

 頷いてくれたらいいな。



 もう結構時間が経ったのに一向に既読にならないメッセージ。

 心配になって何回か、かけてみるけど繋がらない電話。

 次第に空は暗くなり、雨が降ってきた。

 雨宿りするために屋根のあるベンチへと移動する。



 なにか事故でもあったのだろうか。

 シーンとする公園には、救急車やパトカーのサイレンの音だけが響いていた。


 まだ待つつもりでいたが、親から『そろそろ帰ってきなさい』と連絡が入った。

 仕方ない。そう思って諦めて家のほうへ歩く。


 いままでこんなことなんてなかった。

 メッセージに気づかなくても、電話まで繋がらないなんて。おかしいよな。

 まぁ、既読になっていないのなら来るはずがない。

 なにか用事があってスマホをみていないのかもしれない。



 気持ちと同じくらい重いドアを開けると、母さんが立っていた。


「あんた、今日どこ行ってたの?」


 連絡しずに帰りが遅くなった俺を、少し怒ってるみたいだった。

 でも、俺はそっけなく返す。


「べつに……」


「とりあえずご飯食べちゃって。片付かないから」


 はいはい、と返事をして、テレビを付ける。

 いつものようにアニメを見ようとチャンネルを変えようとすると、ニュースが流れ込んできた。



『次のニュースです。

 今日の昼13時頃、星空公園近くの交差点で交通事故が起きました。

 普通自動車とトラックが衝突し、16歳の歩道を歩いていた女の子が巻き込まれたとのことです。

 運転手共に重症でいまだ意識は戻っておりません。

 女の子については頭部からの出血が多く、すぐに病院に搬送されましたがまもなく死亡が確認されました』


 リモコンが手から滑り落ちる。

 慌てて拾って、テレビを消す。

 頭の中をさっきのニュースの映像がうめつくす。


「可哀想に。あなたと同じ年の女の子じゃない」


 隣にいた母さんが呟く。


 嫌な予感が頭をよぎる。

 星空公園。16歳。女の子。

 既読にならないメッセージ。繋がらない電話。

 ただそれだけなのに最悪な可能性が結びつく。


 頭には昼間聞いた救急車のサイレンだけがガンガン響いていた。



 もう一度電話をかける。

 お願いだ、葵。出てくれ!

 でも、どんなけ願っても電話が応えることはなかった。


「スマホはいいから先に食べなさい」


 母さんに注意されたから、一旦スマホを置いて食事をする。

 でも、頭の中は真っ白で味も匂いもわからなかった。



 ご飯を食べ終わり、自分の部屋に戻った。





 プルルル。


 いきなり電話がなった。

 慌てて見るけど、葵の名前ではない。

 見たことない番号だ。


 それでも構わず電話を手に取る。


「はい」


「もしもし。わたし、由乃ゆの!」


 スマホ越しから聞こえたよく知っている声が震えているのがわかった。


「由乃ちゃん! あの葵のことなんだけど!」


「……うん。あおちゃんは」


 なにかを決意したように由乃ちゃんがゴクッと唾を飲み込む音が聞こえた。

 俺は由乃ちゃんが話し出す前に言葉を紡ぐ。



「なぁ、ニュース見た? 昼間起きた事故ってさ、結構身近でびっくりしない? 

 それってさ……まさか葵なわけないよな。ただ電話が繋がらないだけで。どこか家族で出かけてて……それでメッセージも既読にならないだけだよな。

 ただそれだけだよな?」


 わざと明るい口調で、早口になっていく俺に由乃ちゃんは肯定も否定もしない。

 きっとそれが答えなのだ。


「伊織くん。落ち着いて聞いね。あおちゃんは」


 由乃ちゃんの話を聴いて、スマホが手から滑り落ちそうになる。


 そんな。嘘だろ。

 葵が……。


 それからしばらく経っても言葉ひとつさえ出てこなかった。

 ただただ、頭が真っ白で何も考えられない。

 いままで感じたことのないような気持ちに戸惑いながら、俺は床に座り込んだ。





 このままじっとして眠る気にはなれなくて、気づいたら俺は外へ出ていた。


「伊織? こんな夜中にどこ行くの?」


 母さんの言葉を無視して俺は由乃ちゃんから教えてもらった葵が運ばれた病院へと向かった。


 俺は病院に行って、どうするつもりなのだろう?

 俺が行っても邪魔なだけなのに。

 そう思うのに足は止まらなかった。



「あの、水原葵さんの友だちなんですけど……」


 受付に行くと、葵がいる場所のドアの前まで案内してくれた。

 ドアに手を伸ばしたとき、中からは泣き声が聞こえてくる。

 きっと、葵のご両親が泣いているんだ。


 なんだか入る勇気はなくて、俺は伸ばしかけた手を引っ込めて、その場を去る。


 病院内を歩いていると子どもが産まれたということで家族で泣きながら喜びあってる声が聞こえた。

 病院は産まれる場所で、でもそこで亡くなる人だっている。

 泣いていることは同じなのに、その事実は真逆。

 だれかの喜びの裏にはほかのだれかのかなしみが隠れているんだ。


 そのことを改めて知った俺は、重い足を引きずるように家に帰った。








「由乃ちゃん」


 次の日の朝、由乃ちゃんが家に来てくれた。

 きっと、昨日たくさん泣いたのだろう。

 目が腫れていて、いまでも少し泣きそうな顔をしていた。



「実は……わたし、あおちゃんが伊織くんのとこ行く前にちょっと話したの」


「え?」


 由乃ちゃんの言葉で俺のメッセージを葵が見ていたことがわかる。

 バナー通知なら既読をつけず、読むことができるからだ。

 既読はついていなかったけど、ちゃんと見ていたんだ。


 はっと息を呑む。俺のせいだ。

 偶然、運悪く、その場所にいたのではなくて俺が呼び出したから。だから葵は。

 俺が悪い。俺が。



「伊織が話があるってなんだろ。告白だったらどうしよ! 最高の誕生日になる! って笑ってた」


 両想いだったんだ。

 いや、自意識過剰かもしれないけど、少し前から気づいてた。

  葵が俺に見せる笑顔はみんなに向けるのとどこかちがっていたから。これも俺の勝手な思い込みなのかもしれないけど。


 昨日は葵の誕生日だった。

 だからこそ最高の誕生日にしてあげたかったはずなのに、俺のせいで最悪な誕生日になってしまった。



「はい、これ。あおちゃんのお葬式の場所」


 由乃ちゃんが書いてくれたみたいで、小さな紙には丁寧な絵と字が並んでいる。


「俺は……行かないよ」


 行けるわけないじゃないか。

 俺のせい。俺のせいみたいなものなのに。

 葵のご両親にどんな顔で会えばいいのかわからないのに。


「……うん。それでも一応渡しとくね」


 じゃあ、と言おうとし、扉を閉めようとすると由乃ちゃんが大きな声を出す。


「伊織くん!」


「なに?」


 由乃ちゃんの大きな声にびっくりして、思わず扉を閉めようとしていた手が離れる。

 扉は閉まることなく、彼女の目を見つめる。


「伊織くんのせいじゃ絶対ないから! 

 だからあんまり自分を責めないでね!」


 顔に出ていたのか、由乃ちゃんは心配そうにこっちをみて儚げに笑う。


「……うん、またね」


 由乃ちゃんが帰ったことなんて見送りもせず、扉を閉めた。

 そのあと、ドアにもたれかかり、絶望感が身体全体を蝕んでいるようだった。



 その日はどうやって一日過ごしたのかなんて覚えてなかった。

 気づいたら一日が終わっていて、つぎの日の朝になっていた。

 一日中カーテンを閉めて暗い部屋の中にいたせいでいつ日が変わったかなんてわからなかった。


 起きてリビングのほうへ行く。

 その眩しさに思わず目が眩む。

 まるで葵のことは夢なんじゃないかってまだ錯覚してしまう。

 ほんとに夢だったらよかったのに。



「伊織。今日、水原さんとこのお葬式の日なんでしょ」


 ソファでぼーっと寝転がってる俺に向かって母さんは話す。


「え、なんで母さんが」


 なにも言ってないのに。

 なんで、知ってるんだ?


「昨日、葵ちゃんのお母さんに偶然会ってね、それで……」


「俺は行かない」


「行きなさい」


「行かないってば!」


 少し乱暴に声を上げる。

 その声が家中に響き渡る。


「葵ちゃんのお母さん、あなたに話したいことがあるみたいよ。

 行ってきなさい。そして、最期さいごにちゃんとお別れくらいしてあげなさい」


 はい、と制服や数珠を渡される。

 まるでもうはじめから用意されていたみたいに。


 それにしても、葵のお母さんが。

 そんなこと言われたら行くしかないじゃないか。




 葵のお葬式会場の前に立つ。


 嫌だった。お葬式に行くのが。

 葵がもうこの世にいないって嫌でも実感させられる場所が。

 こんなとこにきても、俺はまだ受け入れられない。



「伊織くん」


 俺に気づいた由乃ちゃんが小走りで駆けてくる。

 その目にはまだ涙を浮かべてる。

 親友が亡くなったのだ。泣くのは当然だ。


 なのに、どうして俺は泣けないんだろう。

 お葬式という場所が葵はもういないって言ってるのに、俺だってもう実感させられてるはずなのに、俺はどうしてもその事実を受け止めることができない。

 まだ信じられずにいた。


 中に入るとすぐ、葵の笑顔の写真が目に入る。


「ねぇ、由乃ちゃん。葵はもういないんだよな」


「……うん」


 由乃ちゃんが唇を噛み締めながら俯く。



 控え室の中を見てみると、葵のご両親や親戚、近所の人がたくさん来ていた。


「まだ若いのにかわいそうに」


「不運の事故よね」


 なんて、葵のことを同情するような声が飛び交う

 その場にいるのはなんだか気まずくて、由乃ちゃんとちがうところに座って待つことにした。



「わたし、あおちゃんにお誕生日おめでとうって言えなかった。あおちゃんがたのしそうに伊織くんの話をしてるの聴いてたらすっかり忘れちゃって。

 夜、電話で言おうかなって思ってて。

 でも、もう二度と言えないんだよね。

 言えばよかったな……」


 由乃ちゃんは後悔が残ってしまった、と泣きながら話す。


 そんなこといったら、俺だって伝えたいことなにひとつ伝えられなかった。


 お誕生日おめでとうも言いたかった。

 "好き"

 たった二文字なのに、それすら葵に言えなかった。



 葵のご両親もおばあさんも由乃ちゃんもみんなが泣きながら、葵のことを見送った。


 でも、俺はやっぱり泣けなくて、その光景を見て心のほうがひどく痛かった。

 責任感で押しつぶされそうだった。






「伊織くん、であってるかな?」


「あ、はい」


 お葬式が終わって、外で立って待っていると声をかけられる。

 葵のお母さんだ。顔は少しやつれているけど、優しそうな雰囲気は葵とそっくりだった。


「はじめまして。葵の母です」


「はじめまして、高野伊織です」


 それから控え室のほうに案内され、葵のお母さんとふたりきりになる。

 密室の空気は重くて沈黙が続いた。

 だからこそ、自分からそれを破った。


「この度は本当にすみませんでした。

 俺があの日、葵さんのことを呼び出さなければこんなことには……」


 深く深く頭を下げる。

 こんなことで許されるなんて思ってないけど。

 いくら謝っても謝りきれない。



「伊織くん。顔を上げて」


 穏やかな声にゆっくりと顔を上げる。


「これは伊織くんが悪いわけでも、あの子が悪いわけでもない。だれのせいでもないの。

 事故といっても信号無視とかではなかったみたいでね、だから運転手の人たちが悪いとも思わないわ。いまだに意識が戻らないみたいだし。

 ほんとに運がちょっと悪かっただけ。

 だから、そんなに自分を責めないでね」


 由乃ちゃんも自分を責めないでねと言っていた。

 なんで?

 いっそのこと俺を責めてくれればいいのに。

 怒ってくれればいいのに。

 最低だって詰ってくれればいい。

 でもそう思うのは自分が楽になりたいだけなのかもしれない。


「じゃあなんで。……俺を呼んだんですか?」


「お礼を言いたくて」


「え」


 聞こえてきた言葉に耳を疑う。


 お礼?

 俺は責められることはあっても、感謝されるようなことはなにもしてない。

 そんなことはあってはならない。




「伊織くん、ありがとね」


 まるで葵が話しているような柔らかい声がまっすぐ耳に届く。


「あの子はなにかあるとひとりで抱え込んじゃうタイプで弱いとこ家族にも見せようとしなくて無理して笑ってるとこあったの。

 だから、いつも心配だった。わたしも愚痴ばっか聴いてもらってたなぁ……」


 そうだろうな、と思った。

 葵はよくひとりなんでもがんばろうとする子だったから。あの子はほんとに他人優先で優しくてだれがみたっていい子だった。

 俺は静かに頷く。



「でも、伊織くんの前だと自分らしくいられたみたいだよ。

 家でいつもたのしそうに伊織くんのこと話してて、わたしたち夫婦はほんとにうれしかった。

 あの子のこと理解してくれる友だちが由乃ちゃん以外にもいるってこと。

 だから、ありがとう。それを伝えたくて……」


 葵のお母さんの目からは微かに涙が零れていた。

 そして、自然と俺の頬にも涙が伝う。


 葵は俺の前だと自分らしくいられた?

 俺、なにもしてないのに。

 でも、葵はそう思ってくれたんだ。


「あの、葵は出かけるときなんか言ってました?」


 声が少し掠れる。


「……大切な人に会いに行ってくるって。メッセージを見てうれしそうだった。

 それはきっとあなたのことよね。

 既読は直前でつけるからってまだつけないでいたみたいだけど」


 大切な人。

 そんなふうに思っててくれたんだ。


 もう二度と葵と話すことなんてできない。

 もう二度とあの笑顔を見れない。


 葵の笑う顔が、声が一気にフラッシュバックして、俺の視界は完全に揺れる。

 声を抑えることもできず、泣き喚いた。


 いままで泣けなかった。

 葵のお母さんのまえで、こんなとこで泣くなんてお門違いだってわかってる。葬儀でも泣けなかったのに。

 それでも涙は止まるどころか溢れてくるばかりで俺は必死に顔を手で覆う。


 そんな俺に、葵のお母さんはなにも言わないでずっとあたたかく見守ってくれていた。




「今日は伊織くんに会えてうれしかったわ。

 ありがとう。よかったら今度は家のほうにも来てね」


「はい。途中取り乱してすみません。

 これで失礼します」


 葵のお母さんは最後まで穏やかな声で、最後まで俺を責めることはなかった。

 それどころか ありがとう なんて。

 葵と同じでなんて優しい人だろう。


 ひとり歩く帰り道で空を見上げる。


 あたりまえだけど、この世界に葵がいなくなってもなにも変わらない。

 朝が来て、夜が来て、毎日巡り続ける。

 でも、人がひとりいなくなるだけでこんなにも視える景色せかいが変わってくるなんて。

 思いもしなかった。


 この日常はあたりまえじゃなかったんだな。

 明日がこない人だっているのに。

 人は突然いなくなったりするのに。

 俺は、その事実を忘れていた。







「なぁ、そろそろ学校来いよ」


 親友の颯太そうたが学校のプリント類をたくさん持ってきてくれた。

 俺の机の上には前にもってきてくれたプリントがまだ置いてある。

 手をつけられていないプリントをみて、颯太は少し呆れたような顔をした。


 情けない話だけど、葵がいなくなって俺は学校に行けずにいた。

 俺の中には後悔しか残っていない。

 もし俺があの日葵を呼び出さなければ、家まで迎えに行っていれば、葵をうしなうことはなかったんじゃないかって。

 なんでもっとはやく葵に好きだって言わなかったのかって。


 家でひとり俺はずっとたくさんの"もしも"や"なんで"を考えていた。

 そんなこと考えても未来が変わるわけじゃないのに。

 起こったことは取り消せないのに。


 由乃ちゃんや葵のお母さんが俺のせいじゃないって言ってくれても、俺の中の罪悪感は少しも消えない。

 葵がいないことを受け止めた途端に後悔が残る。




「これ、水原さんの机の中に入ってたみたい。

 俺、水原さんの家知らないから、伊織が届けてほしい」


「……わかった」


 葵のなにかはわからないけどノートを渡された。

 しかも、結構古びたノートだった。



「俺はさ……」


 颯太は少し言いにくそうに話す。


「水原さんと仲良かったわけじゃないからわからないけど、水原さんはきっと伊織に責任感じてほしいなんて思ってないと思うよ」


 それはだれよりも俺がわかってる。

 葵は、自分のことより他人のことを願う優しい子だから、俺に責任を感じてほしくないって言うと思う。


 それなのに、俺は葵がこの世にいないっていう事実を受け止めたくない。

 ほんとはまだ夢の中でいたい。


 いつだって瞼を閉じれば、葵の笑顔が脳裏に浮かぶ。



「明日は来いよ?」


 その問いかけに俺は頷かなかった。


 学校に行っても、葵には会えない。

 葵がいない学校は俺にとって、つまらない場所だ。

 そしてこの日常もつまらない。


 颯太はなにも言わない俺になにか言いたそうな顔をしていた。

 それでも「じゃあ、また」と言って帰っていった。




「これは葵の日記?」


 颯太からもらった葵のノートを見る。

 勝手に見るなんていけないと思うが、手が伸びる。

 ページをめくっていく。


 一番はじめのページを見て思わず目を開く。


『友だちなんてもういらない』


『嘘の笑みで、偽りの自分を演じてるほうが楽。

 そのほうが傷つかなくてすむ』



 葵は嘘の自分を演じていた。

 俺の知らないことばかりだ。

 葵にはなにかあったんだ。


 そこから何枚かページが破られていたり、涙かわからないもので滲んでいたり、まともに読めないページが続く。



 ここからは最近の日記みたいだ。


『伊織と話すのは落ち着く。なんでだろう。

 はじめて会った日なぜかはわからないけどはじめて会った気がしなかった』


 ああ、もしかして俺たちが出逢ったいたことを頭の片隅においといてくれていたのかもしれない。


『伊織が先生になるの向いてるって言ってくれた。

 うれしい。

 お母さんたちにもちゃんと話さないと。

 いまは神社継げないって。大学に行きたいって。

 教育学部なんてわたしがいけるかなんてわからないけど……』


『今日も言えなかった』


 葵の心の中を覗いているみたいで、葵の本心と会話をしているようだった。


『伊織がいるとなんだか自然と笑える。

 伊織といるとたのしい。

 伊織はいつもわたしを笑わせてくれる』


 そう思ってくれていたならうれしい。

 俺はちゃんと葵を笑顔にできていたならよかった。


『明日は誕生日。

 伊織が星空公園に来てって言ってくれた。

 たのしみだなぁ』


『誕生日の日くらい勇気を出して伝えるんだ 』


 その後のページは真っ白で何もない。



 葵は結局伝えられたのだろうか。

 だれかに自分の伝えたいことを。

 お母さんやお父さんに自分の夢のことを。


 俺のせいですべてを台無しにしてしまった。







 俺は葵の日記を届けに行くため外に出た。

 葵の家にいって、仏壇に手を合わせたい。

 このノートをみたことを葵に伝えたい。


 久しぶりの外は俺にはすごく眩しいものに見えた。

 歩いていくと大きな桜の木が目に入る。


 この桜の木。憶えてる。

 高校生になった葵とはじめてあった場所だ。

 あのときからきっとすべてがはじまっていた。



 ゆっくりと桜の木に手をあてる。


「お願いします。俺の願い叶えてください」


 俺の願いはただひとつ。

 葵に生きててほしい。ただそれだけだ。


 その瞬間、桜が急に黄色く光り、その眩しさに思わず目をつぶる。

 すると、中から奇妙な生き物みたいなものが出てきた。



「呼んだー?」


 随分と明るい声が聞こえる。

 そこには羽が生えて空を飛んでいる変な人間みたいなのがいる。


「はぁ、ついに俺は幻覚を……」


 冷や汗までかいてきた。どうしよう。

 頭を抑え、その場を後にしようとする。

 そうすると、すかさず後ろから声が届く。


「幻覚じゃないよ。

 僕はきみの強い想いによって僕は呼び出された。

 桜の妖精さん。よろしくね」


 声のほうに振り向く。

 そういえば、桜には不思議な力が宿っているってだれかが言ってたっけ。

 ふいにそんな言葉を思い出す。


 でも、桜の妖精さんなら、女の子じゃないのかって思う。

 たしかに女の子みたいにかわいい顔をしているからいいのかもしれない。

 まぁ、そんなことはどうでもいいんだけど。



「それでは願いごとをどうぞ」


 願いごと。ほんとに叶えてくれるんだ。

 俺の願いごとは____


「葵を生き返らせてほしい。お願いします」

 

 こんなわけもわからない桜の妖精に頭下げるなんてほんとは嫌だけど、俺は必死に頭を下げる。

 どうか叶えてください。


 すると、とりあえず顔上げて、と言われる。

 ゆっくり顔を上げると、桜の妖精は視線を斜め上に上げてこほんと咳払いをする。


 俺は葵を生き返らせてくれるなにかがあるんじゃないかと期待する。

 でもその期待は絶望へと鮮やかに塗り替えられる。


「残念だけど、それはできない」


「なんでも叶えてくれるんじゃないのかよ!」


 つい大声を出してしまった。

 慌ててごめん、と謝る。



「できる限りのことはするよ。

 でもね、一度死んだ人間を生き返らせることなんて絶対にできない。

 そんな世界の仕組みに抗うことなんか僕ら妖精さんのすることではない。

 死んだらそこでおしまいなんだから」


 桜の妖精は淡々と話す。


 それくらいわかっていた。

 死んだらそこで終わりで、例えばそれが人でも動物でも生き返るなんてできるわけない。

 止まってしまった鼓動が再び動くことはない。

 それでも、俺は葵に生きてほしいんだ。

 また葵に笑ってほしい。



 少し考え込んで、今度はさっきのとはちがう願いごとが頭をよぎる。


「じゃあ……もう一度だけ。もう一度だけチャンスをください。

 今度はその日に葵を呼び出さないから」


 過去に戻って、俺が葵をあの場所に呼び出さなければ、葵はそこで死ななくてもすむ。

 我ながらいい願いごとが浮かんだと内心喜んでいると、その歓喜は一瞬で驚愕きょうがくへと変わった。


「きみが葵ちゃんをその日、呼び出さないのなら他の人が死ぬよ」


「ど、どういうこと?」


 思ってもないことを言われて目を開く。


「その日そこで事故が起こるのは最初から決まってたんだよ。運命ってやつかな。

 運命は変えられないんだよ……。

 そこで葵ちゃんが生きることになったらだれかが死なないといけない。

 生きると死ぬは表裏一体。

 そうやって成り立ってるんだよ。この世界は」


「……」


 言葉につまる。

 どうすればいいのかわからない。

 必死に頭を回転させる。




「ねぇ、どうする? きみは自分の大切な人のためなら他人を犠牲にする?」


 そのとき、最低だってわかってるけど俺は他人を犠牲にすることしか頭になかった。

 


 他人を犠牲にはできないからやめる、そう言える人間はどんなに心が綺麗だろうか。



 でも、考えてみてほしい。


 喪った大切な人がもう一度生きててくれる。

 笑っててくれる。

 葵がまた俺の隣に傍にいてくれる。


 それなら____




「覚悟は決まった?」


「うん。時間を巻き戻してほしい。

 そこで俺は葵の運命をひっくり返してみせる」


 運命をひっくり返すだけじゃなくて、葵の心を救ってみせる。

 葵が偽りの自分を演じなくてすむように、無理に笑顔をつくることがないように。


 俺はこのとき、自分のするべきことがはっきり見えた。




「その願い叶えてあげる。僕に証明してみせてよ。

 運命は変えることができるって」


 クラっと目眩がして、起きたら自分の家の玄関の前にいた。

 新しい制服。まだ汚れていないローファー。

 過去に戻ったんだ、と悟った。




「過去に戻ったからと言ってあまりいまを変えすぎてはいけないよ。葵ちゃんだけでなく、他の人にも影響を与えてしまうかもしれない。

 他の人の未来が変わってしまう。……前できなかったことは、いまもできないんだよ」


 そんな辛辣な桜の妖精の言葉を思い出す。


 急がなければ。

 きみと会ったあの桜の木の下へ。





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