第36話 あること
まだ、汐斗くんの姿は見えないはずなのに、まるでそこにいるかのように感じてしまう。
この、太陽が暖めて――いや、温めてくれている空気、木の葉の揺れる優しい音、道端に咲く小さな花たち。
私の目に映る今いる世界は――少し、不思議な世界だった。
でも、本当に今日で最後なのかな。
あの時からだいたい1ヶ月が経ってしまったけれど、今日が終われば、汐斗くんに電話をかけることもなくなるし、ラインをすることも大事な連絡以外しなくなってしまうのかな。まだお互いのことを全然知らなかった1か月前のような関係に私たちは戻ってしまうのかな。
――今日で、本当に最後にしなきゃいけないのかな。
終わりって作らなきゃいけないのかな。これは小説の中の物語じゃないんだから作らなくてもいいんじゃないかな。
「おーい!」
向こう側に私のずっとずっと聞いていたい人の声がした――汐斗くんだ。赤信号を待っている一人の人が、こっちに向かって手を振ってきてくれている。
私も手を振り返す。すると、汐斗くんも手を振り返してくれた。
もう少し経てば、汐斗くんと……。
約束の10分前なのに、汐斗くんらしい。いや、私と同じで楽しみだから早く来てしまったっていう理由だったら少し嬉しいかもしれない。
時の流れはどうやっても来てくれるようで、赤だった信号機の色が、いつの間にか青に変わった。
汐斗くんは大地を踏みしめるようにして、横断歩道を歩き始めた。
もうすぐ、私のもとに汐斗くんが来てくれる。
待っていた瞬間。
この瞬間。
――!
「えっ、おい、危ない、逃げろ――!」
突然、男の人が、大声で怒鳴る。何か、そのような声がした。
何が起きてるのかはすぐには分からなかったが、私は、その光景を見て分かってしまった。
向こう側から来ているトラックがコントロールを失って、汐斗くんの今渡っている横断歩道の方にものすごい速さで、爆発したみたいに大きな音で向かってきているのだ。
爆音。
「――えっ」
汐斗くんはその現状は分かったみたいだけれど、あまりにも突然のことで、それに非現実的なことで何をすればいいのか分かっていない様子で横断歩道の真ん中でただ立ち止まってしまった。自分の判断ができないでいるみたいだ。
でも、このままだと、汐斗くんは――
だけど、私が助けたら、私はたぶん――
そのトラックの暴走は止まらない。止まる気配なんかない。それに、汐斗くんは動くことができない。だったら、今、ちゃんと行動できるのは私だけ。私が助けに行かなきゃいけないのだ。一瞬どうするべきか悩んだが、頭が汐斗くんを助けに行かなきゃという信号を出すよりも早く、無意識に動いていた。汐斗くんを助けに行くために、私は走る。足を動かす。
仮に私に明日がなくたとしても、汐斗くんに明日があるんだとしたら私はそっちの方が断然いい。
私は元々、明日を閉じようとしていたのだから。でも、汐斗くんが明日を伸ばしてくれて、今では、明日を創っていこうと思えてきてるだけ。
だから、本当は、もうこの世界にはいないはずだった。すでに、1か月前にこの世界から消えているはずだった。
だったら、私の世界よりも汐斗くんの世界の方が間違いなくあるべきだ。汐斗くんの世界はないとだめなんだ。
前に見た『小さな闘病日記』を見て分かった。私よりも何倍も苦しい思いをしてるじゃないか、辛かったんじゃないかと。そんなものに勝つことができたのに、望んでいた姿になれたのに、汐斗くんがここで明日を閉じていいはずがない。汐斗くんは明日を開かないと――明日を見ないとだめなんだ。それができるようになったばかりなんだから。今からが汐斗くんにとって本当のスタートなんだから。
――むしろ、明日を閉じたい私が、閉じられるんだからそれは望んでいたことなんじゃないだろうか。神様が与えてくれたことなんじゃないだろうか。
ほら、望み通りになるんだから、いいじゃないか。私の願いが叶うんだから。
それにさ、汐斗くんは私のいない世界のほうがきっと輝けるんだよ。私の存在はきっと邪魔なんだよ。分かってるよ。だからさ――
私は、呆然と立ち尽くしてる汐斗くんにありったけの力を込めて、歩道側に投げ飛ばした。周りの景色なんか私には見えなかった。
それから、1秒も立たない間に私に向かってトラックが容赦なく突っ込んできた。
その感触は言葉で表現なんかできない。
――キキッー。
それから、私はどうなったのか、分からない。
明日を閉じたのかも、閉じていないのかも。
今、私はどこの世界にいるのか。
でも、どの世界にいたとしても、汐斗くんにこれだけは言いたい――「今までありがとう」と。
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