第30話 君の明日
汐斗くんがドアをノックして診察室に入ると、よく見る診察室の光景が広がっていた。やっぱり私、こういう所ちょっと苦手。ガタイのいいお医者さんがたくさんの資料が散らばっているデスクの前に座っている。
ちょうど椅子が2つあったので、後ろの方にあった椅子に座る。椅子が妙に硬い。座り直してしまう。
「こんにちは。えっと、あれだよね。少し最近体調が優れないと。それで来た感じだよね。じゃあ、最近どんな感じが教えてくれる?」
「あ、はい――」
汐斗くんはお医者さんにそう言われて、最近の状況を時系列順にして話していく。お医者さんはただ聞いた内容をキーボードで打っていくだけでなく時々質問を挟んだりしながら、診断を進めていく。私もただ聞いてるだけではなく、汐斗くんの言ったことを頭で整理していく。
「――ていう感じです」
「分かった。薬はいつも通りちゃんと飲んでる感じ?」
「はい、続けてます。副作用とかは特に大丈夫です」
「そうですか。あとあれですよね、来た時に血液検査もしましたよね。結果がもうすぐ出るので、少々お待ちください。でもこれ、あれなんじゃないかな……」
お医者さんは首を少しかしげた後に、失礼するよと言って少しどこかに消えて行って――私たちを置いて行ってしまった。私はお医者さんが首をかしげた意図が分からず、さっきよりも不安という文字が頭の周りでぐるぐると回転している。いつもはそんな様子を見せない汐斗くんも少し不安なのか、足を揺らしていて落ち着きがない様子だった。私も同じだ。自分のことみたいに心配だ。私の体調はいいはずなのに、心拍数がいつもより断然早い。元々嫌いな病院の空気がまとわりつく。
2、3分経ったところでお医者さんが何か1枚、紙を持ってきた。それが血液検査の結果だろうか。
「えっとですね。こちらが先程の血液検査の結果です」
その紙をデスクに置いて、私たちに見せてきた。でも、こういうようなのを見たのは、私は初めてなのでただ数値が嫌なほど沢山書いてあるものにしか見えない。だから、どこの数値がどういう値ならいいのかまたはよくないのかというのは、私には全くと言っていいほど分からない。
でも、汐斗くんは声を少し震わせながら、
「本当ですか……」
とだけ呟いた。
でも、その意図が私には分からない。だけど、この状態で汐斗くんにどういう意味なのかを聞くこともできない。何も考えることの出来ない放心状態のように思えたから。この状況では声をかけていいのか分からなかった――怖かったから。
すると、汐斗くんの顔を見たお医者さんが説明を始めた。
「……そうです。この紙に書いてある数値の通り八山さんの病気の原因となっている細菌の値が前回の検査より、かなり低くなりました」
お医者さんはあるところの数値を手で差しながら、汐斗くんに対してそう説明した。ということは、つまり――
「なので、完全に完治したわけではないですが、完治の方向に向かっているということだと思います」
つまりそれは、汐斗くんの病気が治ってきているということ。そのことを、今、このお医者さんは確実に私たちに言った。もしかしたら、明日を見る君が、明日を見られないという考えてはいけない最悪の事態も想定したけれど、どうやら逆だったみたいだ。汐斗くんが一番最初に私に病気を告白した時に言っていた『現代の技術は進歩してるから治るかもしれない』という言葉が今、現実になった。
「本当ですか!?」
汐斗くんは驚きを隠せない様子だった。私も自分のことのようにすごく嬉しい。人生で一番嬉しい瞬間が今なのかもしれない。でも、汐斗くん以上に喜んじゃだめだと思って、表には出さず、心の中で喜んだ。汐斗くんの病気が完治しそうなことと、汐斗くんが普段見せないような喜びに満ちたような表情を見せてくれたこと、どちらも嬉しい。許されるのならずっと見ていたい顔だった。
「うん、ここまでよく頑張ったよ。色々苦しいときもあったと思うし、辛い治療にも耐え抜いた。その結果だよ。もちろんまだ少しの間は様子見は必要だけど。数ヶ月経てば完治すると思うよ。おめでとう。もう、大丈夫だよ」
「そうですか。……じゃあ、この体調は?」
そうだ、汐斗くんの体調がよくないから来たということをさっきの喜びで少し忘れかけていた。でも、お医者さんの表情はまだ明るいままだった。
「あー、これはねー。この病気には関係なさそうだし、薬の副作用でもなさそうだから、たぶんただの風邪かな。症状聞いてる感じそんな感じだし。でも、一応それについても風邪薬ぐらいは出しときますね」
お医者さんはサラリとそう言った後に、再びキーボードを打っていく。それから、お医者さんはお薬の説明を軽くしてから、私たちはその診察室を後にした。まだ病院に行く必要も少しの間はあるみたいだけど、再発の可能性も現時点では低いという。
私たちは今は会計を待っている途中だ。患者さんが少し多い印象を受けるので、会計が終わるのはもう少し時間がかかるだろう。なのでその間に、私はお祝いの意味も込めてというわけではないけれど、病院にあったコンビニで温かい飲み物を買ってきた。それを1本、椅子に座って待っている汐斗くんに渡す。
「汐斗くん、よかったね。私もすごく嬉しい」
「あー、飲み物ありがとう。ちょっと信じられない気持ちだけど、本当にお医者さんに感謝しかないな。もちろん、心葉にもだよ。ありがとう」
「いや、私は何もできてないと思うよ。むしろ、汐斗くんにいつも迷惑かけっぱなしだよ」
汐斗くんはそう言ってくれているけど、私は汐斗くんの病気を治してなんかないし、心の不安定な私を気遣わなくてはいけなかったり、それに私が色々相談したり……むしろ悪化させてないか少し心配だった。何も力になんてなれていない。
「いや、そんなことないけど。でも、まあこの話はいいや。完治に向かってるっていうのは事実だし」
そう、それは事実だ。
あの日は――明日を閉じたい私と、明日の見たい彼……だった。
でも、今は書き換えられて、少し複雑だけれど、――明日を閉じてしまうかもしれないけど少しずつ開いていきたいと思っている私と、明日の扉を開くことができるようになった彼。こんなところだろうか。
お互いが変われた。でも、汐斗くんは私より変わることができているんだと思う。だから、私もそんな風に変わりたい。
だけど、汐斗くんが変われたのが嬉しすぎて今は汐斗くんのことしか考えることができない。
まるで夢の中にいるようだ。
そんな世界にいるからか、少しだけ雫が瞳から垂れてきてしまった。
嬉しいよりも、よかった……その気持ちが勝ってしまったのだろうか。
「ん? どうした? 心葉もどこか痛いのか?」
「いや、違うの。あのさ、正直に言うと、私はもし汐斗くんを失ってしまったら、どうすればいいんだろうってあの日からずっとずっと思ってた。汐斗くんを失うのが、自分を失うより何倍も怖かった。怖くて怖くてたまらなかった。でも、それは汐斗くんの前では隠してた。人の心配するなら自分の心配しろとか怒られると思ったし、必要以上に心配されるのが、逆に汐斗くんを苦しめてしまうと思ったから。でも、今だから言うね。だからさ、怒られちゃうかもしれないけど、汐斗くんが明日の扉をちゃんと開けられるようになったことが、私は、仮に自分が明日を確実に開こうと思える……そんな日が来たときよりも何倍も何倍も嬉しい。だから、ありがとう。汐斗くん」
私は病院ということを少し気にしながらも控えめに汐斗くんにハグをした。そしたら、汐斗くんも何も嫌がる顔をすることなくハグをしてきてくれた。私はただただ安心したかった。汐斗くんが近くにいることをこの手で確かめたかった。温かくなってくる。汐斗くんの体温を静かに私は奪ってるんじゃないだろうか。
それから、汐斗くんが口を開いた。でも、汐斗くんが今から言うことは、聞かなかったとしてもだいたい分かる。汐斗くんの過ごしていけば何を言うかなんて簡単に分かってしまう。
「あのさ、心葉。僕の心配するなら、自分の心配しろ。僕は、明日を開きたいと思えるようになった心葉を見たいんだから。そのために、今日まで頑張っていろんな治療を耐えてきたんだから」
ほら、やっぱり。私が考えていたように優しく怒られてしまった。でも、後半の言葉は私は考えていなかった。そんな私を汐斗くんに見せられる時が来るのか私には百パーセントの自信はない。でも、汐斗くんが頑張ったのなら、私も頑張りたい……そう思うし、それが私にとってある意味、義務なんだと思う。お互いに頑張らないといけないのだから。たとえ正反対の2人であっても。正反対じゃない部分もあるんだから。
流石に長時間病院内で小さくしているとはいえ、ハグしてるのはおかしいかなと思ったので、すぐにそれはやめた。それをやめた途端に、待ち構えていたかのように会計から呼ばれ、汐斗くんはお会計を済ませてきた。でも、一瞬だけだけど、その温かさで私の心を少し動かしてくれたような気がした。
お会計が終わると、近くの薬局で薬を受け取り、車で待っている汐斗くんの家族にもさっきのを報告したが、お姉さんもお母さんもどう表現していいのか分からないぐらい喜んでいた。家族として、ずっとずっとこの瞬間を待ち望んでいたんだろう。
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