第22話 引き止めるもの

 ――僕は別に君に自分から明日を閉じるようなことはするなって言わない。でも、1ヶ月だけは待ってほしい。その1ヶ月の間に、僕は君にあげられるものはできるだけあげる。楽しいも、嬉しいも……。だけどもし、その1ヶ月で君の気持ちが変わらなかったんだとしたら、自由にしていい。そう、約束してほしい。


 まるで魔法の言葉かのように、私の耳の中にその言葉が急に流れてきた。本当に自然とだった。


 カフェで沢山の料理を食べたあの時に、汐斗くんと私はその約束をしたんだ。1ヶ月は待ってほしいと。その後なら、自由にしていいからとにかく1ヶ月は待ってほしいと。だから、私は今、明日を閉じたらこの約束を破ったことになるんだ。汐斗くんを本当の意味で裏切ることになるんだ。どんな刑罰になるか分からない。ただ言えるのは、私にとって一番の罪を犯したことになるんだ。


 その言葉が、私の足をピタリと止める。邪魔するものなんてなにもないはずなのに、自分だけの世界にいるはずなのに、なんで私は何かに足を止められてしまったんだろう。自分で止めたみたいじゃないように感じる。自分の体は進みたい方向に進むはずなのに、これ以上進まない。


 ――自分の進みたい方向に進む?


 なんとなく、分かった気がする。私は、心の中ではまだ、明日を閉じようとは思っていないんだ。汐斗くんとも約束したし、必ずしも生きていて悪いことばかりではないし、私を認めてくれる人だってこの世界には沢山いるんだから。見えてるところにも、見えてないところにもいるんだから。


 私の人生はまだあるべきものなんだから。


 私は、自分の世界に進むために、ゆっくりと落ちないように後ろに下がった。


 ――今はまだ、しちゃだめなんだ。


 私は心を落ち着かせるために大きく深呼吸した。私は自分がいなきゃいけない――前の世界だけを見つめる。


 なんとか、踏みとどまることができた――汐斗くんの言葉のお陰で。2回も汐斗くんは私を助けてくれた。汐斗くんって一体何なんだろうか。


 私にとって、どんな存在なんだろうか。


 でも、私にとってなくてはならない存在……それだけは確かだ。


 私はそのまま心を空っぽにして、自転車を漕いで家に戻った。その後も、心は透明だったけれど、いつも通り過ごした。勉強をして、ご飯を作って、また、勉強をして……。


 自分の体がまるで風船みたいに思える。何なんだろうか、私は。


 今日は切りがいいところまでいったので、汐斗くんと電話する予定の5分前に終わらせた。スマホを開くと、どうやら唯衣花からラインが来ているみたいだった。私はそのラインを開く。


『今日はお見舞いに来てくれてありがとう。あの後も寝たら、いつも通りよくなったよ。体調はもうバッチリ! だけど、お母さんから念のため土日は寝てなさいって言われちゃったから、大人しく寝てるけど、元気になったよって報告だけしたくてラインしたよ。あのりんごのおかげかな(笑)』


 ラインにしては少し長い文章がそこには書かれていた。体調はどうやらよくなったらしいので私は少しだけ口角が下がった。りんごにそんな大きな効果ないだろう。少し大げさだなと思いながら、お大事にとくまさんが言っているスタンプを送信した。でも、よくなってよかった。本当に心配だったから。


 そして、次に汐斗くんに電話する。でも、少し今日は汐斗くんと電話するのが怖かった。いつもよりかけるまで時間がかかった。


『もしもし、今日も何も変わりないか?』


 今日もいつも通り、この言葉から入る。私はあのことを言うべきかどうかを少し悩んだ。


「うん、まあ公園も行ったし色々あったから少し疲れちゃったかな。あと、唯衣花が倒れちゃったのが心配だったけど、今来たラインによると、体調はよくなったらしいよ」


 私はあのことは報告せずに、そのことだけを報告した。


『おっ、唯衣花よくなったのか。僕も心配してたからよかったよ。まあ、公園行ったりして疲れたのはお互い様だな』


「えっ、汐斗くんでも疲れるんだ」


『そりゃ、人間だからな。っていうか、変な偏見、やめてくれよー』


「あー、ごめんごめん」


 ほんの数時間前までの姿はああいうものだったのに、今は自然な笑顔が漏れてしまう。汐斗くんが楽しいを与えてくれている。いつも、電話するときはそうだ。1ヶ月で沢山っていう約束をしてくれたから……。


『そんなこと言ったら、心葉は動物とかにめっちゃ好かれそうだな』


「えー、そんなことないよー」


 確かに、唯衣花にもそんな偏見を持たれたことがあるが、私が前に動物園の触れ合いできる場所でうさぎと触れ合おうとしたが、私がなでると、嫌だったのかすぐに逃げてしまった。


『そうかー。で、今日はなんか言っときたいことはないか? 苦しかったこととか?』


 また、いつもの言葉が来た。ここで言わなきゃいけないんだろうか。もし、言ったら怒られるのではないか、見捨てられるのではないか……私のことを次こそ本当に嫌いになってしまうのではないか。そういうことを考えてしまって、言うべきか悩んでしまい、少しの間、お互い無言の時間が流れる。この世界が、一瞬、なくなった。


『別に小さなことでもいいんだぞ。吐き出せば、楽になるってこともあるから……もしあるんだとしたら、遠慮なく言って。もちろん、最後まで聞くから』


 この、私が作った沈黙で、私の心境がどういうものなのか、少しだけ悟られてしまったみたいだ。汐斗くんのことだからここで私が大丈夫、何もないと言ったら汐斗くんは無理には問いかけてはこないんだろうけど、いつか聞いてくる可能性は高い。だったら、汐斗くんがこう言ってくれてるんだし、吐き出したほうが楽になるのではないか。また、自分で明日を閉じようと思ってしまうかもしれないし。でも、本当にどんなことでも言っていいんだろうか。これは人を傷つけることにならないんだろうか。


「あるんだけど、それはもしかしたら汐斗くんを傷つけることになっちゃうかもしれないよ……」


 私の声がさっきまでとは違い、震えている。親友でも言っていいことと言っちゃだめなことがあるように、これは言ってもいいことに当てはまるんだろうか。明日の扉を開きたい――そんな君に。


『別にいいぞ。僕が傷つくだけで、心葉が自分を少しでも取り戻せるのなら。僕の負う傷より、複雑な気持ちを持つ心葉の傷のほうが大きいはずだから。安心して言ってみろよ』


 なんだか、その言葉に安心してしまった。少しだけ、そんな言葉が言える汐斗くんにやきもちを焼いてしまった。ずるいじゃないか、汐斗くん。


 そういう言葉を私に言ってくれたから、私の心をさっきまで縛っていた紐を少し解いて、汐斗くんに自分のことを何の偽りもなく、正直に話すことにした。


「あのさ、今日さ、小テストでいつも通り勉強したのに、低い点数を取っちゃったんだよ。その原因は公園行ったりして疲れてるだとか、いくつかあると思う。けど、最近勉強時間は同じでも楽しみすぎたりとか、他のことをやってるからそれが頭の中に入っちゃったから、きっと覚える為に使ってた脳の部分が小さくなって……。それで、やっぱ楽しむことをしてはいけない自分が嫌になって、また、自分から明日を閉じようとしちゃったんだよ。でも、なんとか汐斗くんの約束だったり、皆のことを思い出してとどまることはできた。とはいえ、汐斗くん、ごめんなさい。また、明日を閉じようとしちゃって……」


 涙が出そうだけれども抑えた。今日は何度も涙が出てきそうになってしまう。でも、今泣いたら、汐斗くんの方がこんなことを知って泣きたいはずなのに、私が泣いたらおかしい。だけど、この後の言葉が怖い。急に電話を切られるんじゃないかとか、暴言を吐かれるんじゃないかとか、嫌いになってしまうんじゃないかとか……。


「心葉、聞いてくれ」


 でも、汐斗くんの声は、ゆっくり音楽を奏でるかのようなそんな声だった。どんなことを汐斗くんは今から喋るんだろうか。怖かった気持ちが少し、落ち着いた。


『心葉、君は頑張ったな。偉いよ』


 ――えっ? 私が頑張った? 偉い?


 わけがわからない。その心葉って、私のことじゃないんだろうか。それとも、私がこんなことを言ったから、汐斗くんの心を壊してしまったんだろうか。


「どういうこと? 私、自分から――」


「いや、そのことについてはあれかもしれない。でも、心葉は自分で止めた。明日を閉じたい気持ちに勝ったじゃん。それに、僕との約束を守った。頑張ったし、偉いよ。そんな、心葉が――。いや、何でもない。でも、心葉、今日も生きてくれてありがとう」


 たぶん、この世でそんなことを思ってくれるのは汐斗くんぐらいなんだろう。そんな風に思えて、それを言葉にできるなんて。


 ――今日も生きてくれてありがとう。


 そんなことを言うのなら、私だって、今日も汐斗くん、助けてくれてありがとうと言いたい。でも、この状況だから少し言いづらい。


 だけど、汐斗くんはそんな、心葉がの言葉の後、一体何を言おうとしたんだろうか。本当になんでもないことなのか、それとも今言うべきことではなかったのか。


『あのさ、心葉は勇気を絞って、自分のことを告白してくれたじゃん? だから、僕も少しいいかな? あまり心配はしてほしくないけど、心葉には少し言っておきたいかな』


 私の告白に心を動かされたのか、今度は汐斗くんが告白したいことがあると言い出した。あまり心配はしてほしくない――つまり、あれのことだろうか。さっき、汐斗くんは私の話をまるで親のようにちゃんと気持ちを考えて聞いてくれた。だから、私にも聞くという義務がある。なので、私はいいよと言った。


『じゃあ。さっきも言ったけど過度に心配はしないでほしい。最近、僕の体調があまりよくないんだ。吐き気がしたり、時々倒れてしまいそうになったり……。まあ、大丈夫だと思うけど、もしかしたら……そうかも知れないってことは頭のどこかに入れておいてほしい。病院はなんか工事が入ってるらしいから、今すぐには行けないけど、1週間後ぐらいには行くつもりでいる……。ごめんね、なんか心配させちゃって。でも、心葉が言ってくれたのに、自分が言わないのは少しおかしいと思って』


 そうなのか、汐斗くんは自分の体に少し異変が出ている……本人は過度に心配しないでほしいと言っているけど、やっぱり心配だ。でも、本人の意志を尊重しなければいけない。こんなにも優しくしてくれる汐斗くんを病気が襲うなんて酷い。早く、少しでもよくなってほしい。こんな私の願いなんて神様は聞いてくれないんだろうけれど。


「もし、私にできることがあったらいつでも言ってね。力になれるか分からないけど、できるだけ力になるから」


『ありがとう。あのさ、この話は一旦置いておいて、明日休みだし、午後はカフェで一緒に勉強しない? 前と同じカフェで。もちろん、今回は飲み物だけで』


「うん、そうだね。いいよ。一緒に勉強したいな。分からないところ、教えてくれる?」


『うん、いいよ。じゃあ、今日はおやすみ』


「色々ありがとう。うん、おやすみ」


 汐斗くんとの電話が今日も終わる。今日は、夜空に浮かぶぼんやりとした月を見上げた後に、眠りについた。

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