第三十話 地獄の業火
坂口の自宅で監禁された紗良咲を救うために夢幻と対峙した玄弥だったが、坂口という器を持った夢幻はこの建物に火を放って逃げた。
炎は勢いを増す一方で、何重にも巻かれたガムテープで椅子に拘束された紗良咲を救い出そうとするも、椅子の足は床に打ちつけられた釘で固定されている。どれだけ引っ張っても椅子は動かず、ガムテープを千切ろうとしても重なったそれらは簡単に破れることはなかった。
紗良咲の身体に玄弥が着ていた上着をかけ、この身体を盾にして彼女を守ることしかできない。玄弥の背中には今にも灼熱の猛火が届きそうなほど、暑さは次第に激痛へと変わっていく。
俺にできることは、紗良咲のそばにいることだけ。このまま命焼かれるとしても、最後まで一緒にいよう。
結局彼女を巻き込んでしまった。夢幻の狙いは俺だったのに。
「玄弥! 無事か!」
廊下を靴のままで駆ける足音がして、室内に現れたのは井浦だった。
「井浦さん! なんでここに……」
「とにかくここを出るぞ!」
井浦は紗良咲の状況を観察すると、椅子を力の限り揺さぶった。玄弥も同じように椅子を掴んで全体重を預ける。ひとりではできなくても、ふたりならこの状況を打破できるかもしれない。
床が軋む音を立てて椅子は僅かに動くが、それでもこの場から離れることはできなかった。
「駄目か」
ふたりいても何も変わらなかった。
井浦は諦めずに部屋の中を見渡す。窓が割れたことで外の光が入ってきて、一刻も早く消し去りたい炎が室内を明るく照らしている。
「井浦くん! これを!」
その声と共に姿を見せた玄徳が、井浦に小さなものを投げた。井浦はそれを受け取ると、走って部屋を飛び出して行った。
井浦と入れ替わりで玄徳が部屋に入り、紗良咲が座らされている椅子の足を縄で巻いて、外れないように何度も結んだ。それは建物の外にまで繋がっており、優に十メートルは超える長さのようだ。
「少々手荒いが、他に方法はない。玄弥、何があっても紗良咲ちゃんを守りなさい」
「わかった」
何をするつもりかはわからないが、玄徳が手荒いというからには危険な方法でしか紗良咲を救えないということだ。玄弥は椅子ごと紗良咲の身体に両腕を回し、絶対に離さない覚悟で強く抱き締めた。
廊下の向こう、玄関のさらに先から車のエンジン音が聞こえる。
井浦がこれからしようとしていることは理解した。玄徳が言うように危険な方法であることは確かだ。
しかし、これだけ強固に固定された椅子を動かすのであれば、人力を超える強力なものを使う必要がある。
井浦は「行くぞ」と言葉で伝えなくても玄弥にわかるように、ギアを切り替える前にアクセルを強く踏み込んだ。さすがカムリはいい音を出す。車好きには非常に魅力的な唸りだが、これから襲いかかる衝撃に耐えられるだろうか。
外に避難するはずの玄徳も玄弥と同じく紗良咲の身体を支えようと椅子を掴む。
「俺ひとりで大丈夫だから、じいちゃんは外で待ってて!」
「未来ある若者のために壊れるなら本望だ」
「歳考えろよ。怪我したら命に関わるだろ」
「私の命はまだこれからだ。お前が立派に育つまで親としての務めを果たさねば、淳くんに合わせる顔がないだろう」
玄徳は一度決めると誰が何を言おうと梃子でも動かない。今は言い争っている時間もない。
「来るぞ! 耐えろ!」
外の様子を見ていた玄徳が合図を送った。
ギアをドライブに入れてアクセルを踏み込んだカムリが発進し、弛んでいたロープは廊下に沿って張り、一トンを超える力が椅子の足にかかる。
井浦がうまく加減をしているためか、瞬間の衝撃は想像より大きくなかった。すぐそこまで迫っている火、時間の猶予はない。
大きなエンジン音と共に次に襲った衝撃に、玄弥と玄徳の力を持ってしても体勢を保つことはできなかった。
椅子の足が床に刺さった釘ごとへし折られ、玄弥は紗良咲を抱えたまま床に背中を強打し、玄徳は反動で壁に放り出された。
もう痛みに怯むことはない。
玄弥は急いで身体を起こすと、玄徳と力を合わせて紗良咲を持ち上げて廊下を駆け抜けた。玄関まで到達すると井浦が待っており、建物から距離を取る。
「紗良咲! 大丈夫か?」
玄弥は椅子に拘束されたままの紗良咲を地面に寝かすと、身体を揺すって声をかけた。
周辺の住人は何やら大事になっていることに気づいて現場に集まってきた。井浦が紗良咲の身体に巻きついたガムテープを切るために鋏を持ってきてほしいと伝えると、数人が慌てて自宅へと戻った。
紗良咲が目を覚さないことに焦る玄弥は井浦の腕を掴んだ。
「井浦さん! 紗良咲を病院へ! 早く!」
「玄弥、落ち着け」
「落ち着いていられるかよ! 紗良咲に何かあったら俺は……」
「大丈夫だ。よく見ろ」
玄弥の視界には、目を開けた紗良咲の姿があった。
住人が持ってきた鋏でガムテープを切り、紗良咲はようやく椅子から解放された。玄弥は力一杯に紗良咲の身体を抱き締めると、彼女は「痛いよ、玄ちゃん」と苦しそうに笑う。
玄弥は胡座をかいて地面に座り、紗良咲を脚の上に載せて彼女の背中を左手で抱えた。
「よかった。紗良咲が生きてて、本当によかった」
「また助けられちゃった。ごめんね」
「死んでたら許さなかった」
「私は生きてるから、許して」
玄弥が大きく安堵の息を吐くと、一台の車両が砂煙を上げながら停車する。運転席にいたのは井浦の部下である山下だった。ドアを開けて井浦のもとへと駆け寄った彼は「坂口を確保しました」と報告した。
玄弥たちが脱出してから数分、坂口が住んでいた家屋のすべてを炎が包んだ。近隣に家屋がないため延焼の恐れはない。
井浦は悔しそうに火炎が踊る様子を見つめる。それは、坂口が犯した悪事の証拠を消し去る厄災の悪魔そのものだった。坂口が薫を殺害したのであれば、おそらくこの建物の中。玄弥たちを救うことを最優先に行動した井浦は、燃え盛る室内で血痕のような染みを見た。
今となってはそれがただの汚れだったのか、もしくはただの見間違えだったのかすらもわからない。
「山下、ここを頼めるか。俺は病院まで送って行く」
「わかりました」
玄徳は壁にぶつけたときに腰を痛めたらしく、車に乗り込むことすら辛そうだ。助手席に乗った玄徳は座席を後ろに下げて可能な限り楽な姿勢をとった。
玄弥は紗良咲を支えながら後部座席に乗り込み、運転席に井浦が座って車両は上社を出た。
ルームミラーには勢いを弱めることがない炎と空へと立ち上る黒煙が映った。
その姿は、まだ夢幻之郷に厄災を与え足りないと不満を露わしている悪魔。
夢幻との戦いはまだ終わらない。厄災の悪魔は、器が壊れればまた別の器に乗り換えて復活する。
今更になって玄弥は背中に負った火傷と床に強打した打撲の痛みを自覚した。
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