第二十九話 壊れない意志

 結玄寺は、名の通り結玄和尚がこの上社に建立した寺院。


 しかし、住職である玄徳はその血を受け継いだ直系の子孫ではない。遠い昔に結玄和尚の血は途絶え、この寺院は宮司家が受け継いできた。それは玄徳もすでに理解していた事実であり、夢幻を封じたとされる結玄和尚の子孫についての史実は見つかっていない。


 長い時を経て、夢幻之郷に現れた淳という男性は夢幻を映す目を持っていた。彼が結玄寺の娘である聡子と恋に落ち、結婚して婿養子に入ったことは単なる偶然だった。


 いや、果たして偶然だったのだろうか。彼こそが、結玄和尚の血を継ぐ子孫だったのだ。


 一度途絶えた結玄の血は、一度上社を離れた彼の血は、再びこの地に舞い戻った。そして、その血は息子である玄弥に受け継がれた。


 だから、淳は殺害された。八代によって殺害された淳は、夢幻の意思によって消されたのだ。玄徳が玄弥に言い聞かせたことは偽りではなかった。


 夢幻はかつてこの土地に生きた人間だった。その男はこの土地の住人を無差別に殺害した。


 その男を止めるため結玄によって起こされた殺人は、夢幻の魂を封印した伝説として後世に語り継がれた。八代が淳を殺害した理由は、真子に対する誘拐未遂の口封じだと考えられていたが、本当は長い歴史を超えた夢幻による復讐だったのではないか。


 夢幻を捕える目を持つ人間は邪魔になる。であれば、次の標的は淳の息子であり彼と同じ目を持った玄弥だ。


 坂口の自宅前に到着した玄弥は、建物を覆うほどの黒い渦に飛び込んだ。裏山から立ち止まることなく走り続けた玄弥の心肺機能は悲鳴を上げているが、この中にいるはずの紗良咲を一刻も早く救いたい。


 玄弥は躊躇うことなくインターホンを鳴らした。この中にいるのは坂口の姿をした夢幻。油断すればこの命は簡単に奪われる。それでも、紗良咲が危険な状況で警戒している時間などなかった。


 扉が開いて玄関に立つ坂口は、すでにもとの彼ではなかった。両目は正気を失ったように剥き出しており、その歯は今にも玄弥を食い千切りそうに僅かな隙間から息が漏れる。



 「中で女が待っておる。入れ」



 玄弥は坂口の身体を押し退けて廊下を駆け抜けると、奥の部屋に入った。外界の光は一切入ってこない空間で、スマホのライトをつけて辺りを見渡す。


 視界に入った紗良咲は椅子に拘束されて頭をがっくり下ろしていた。額から出血し、彼女の顔に生気は感じられない。



 「紗良咲! 起きろ!」



 スマホを床に落として眩しいライトが天井を照らした。彼女の身体を何度揺すっても自発的に動く気配はない。頬を触ると体温は感じられたものの、この涼しい早朝ではすぐにその温度も奪われる。


 口を塞がれたガムテープを剥がそうとするも、何重にも巻かれたそれは彼女の綺麗な髪まで巻き込んでいて、簡単に取れそうにない。



 「残念だが、遅かった。あとは、貴様だけだ。忌まわしき結玄の血よ」



 強い光が下から坂口の姿を照らす。


 坂口は五年前に殺人を犯したのかもしれないが、ここまで荒々しく狂気を剥き出しにする人間ではなかった。夢幻が彼のごく小さな狂気をここまでに育てたのだろう。


 右手にナイフを持ち、坂口は玄弥に襲いかかった。


 壁に大きく動く影が映され、玄弥はその右手首を掴んで激しく抵抗する。その力を受けて壁に背中を打ちつけるも、玄弥は持てる力を振り絞って坂口の鳩尾みぞおちに右足で蹴りを入れた。


 床にナイフが落ちて、坂口は腹を押さえてのたうち回る。厄災の悪魔の呻き声は金属を叩きつけたような鋭い音で、玄弥の鼓膜を貫いた。


 玄弥はナイフを拾って、立ち上がろうとする坂口に構えた。彼はもう武器を持っていない。形勢はこちらが有利だが、それでも狂気に満ちた表情は玄弥を震え上がらせた。



 「我はお前の父を殺した。そして、その女も……」


 「紗良咲はまだ生きてる!」



 玄弥は紗良咲に視線を向けた。動いていないが、僅かに肩が動いて呼吸する姿が確認できる。彼女は確かに生きている。


 必ず助け出す。



 「ならば、これで終わりにしてやろう」



 坂口は暗闇から何かを拾うとそれを振り上げて紗良咲に向かって歩き出した。


 これ以上紗良咲が傷つけられるところは見たくない。


 約束したんだ。俺が守るって。



 「やめろ!」



 玄弥はナイフを構えて坂口に向かって突進する。


 これが腹に刺されば坂口を殺してしまうかもしれない。それでも、紗良咲を守ることが何よりも大切なことだ。



 「駄目!」



 突然室内に轟いた紗良咲の声。


 玄弥はそのまま坂口に突っ込んだ。勢いを止めずにふたりの身体は窓ガラスを突き破って、建物の外に飛び出す。血のついたナイフが地面を転がり、坂口は大の字に倒れた。


 玄弥はその場で身体を起こし、暗闇に慣れた目を細めて眩い日差しに耐えた。


 坂口は横になったまま動く気配がない。その身体はいまだに漆黒の渦を宿しており、いつ襲いかかってくるかわからない。


 玄弥は慌てて割れた窓から建物の中に戻り、紗良咲の身体を揺らした。先ほど確かに彼女の声が聞こえたはずなのに、ガムテープが口を塞いだままだった。これでは話すことなどできない。



 「紗良咲! 頼む、起きてくれ!」



 足音に振り返ると、坂口が白目を剥いて室内に足を踏み入れていた。普通の人間なら痛みで身体が動かないほどの傷だろうが、夢幻が強制的に器を動かしているのかもしれない。しかし、すでにそれは限界に近いらしい。



 「貴様、なぜ我を殺さなかった?」


 「器を替えるためには、壊さないといけない。だから、お前は八代の器を捨てるために自殺した。そして、坂口の器を捨てるためにも死ぬつもりだった。お前の狙いは、俺の身体なんだろ。殺人を犯した俺はいい器になるからな。でも、俺はお前の思い通りにはならない」



 この話は玄徳から聞いていた。


 ただ器を替えたいなら八代の身体を捨てればいい。その後彼が警察に逮捕されようが夢幻にはなんら影響がない。だが、わざわざ自殺を選んで八代の身体を破壊したのは、乗り換えるためにはそれを必要があるからだ。



 「実に腹立たしい。結玄によって我が器は壊され、この魂は自由に器を替えることすら許されぬ。ならばもうよい。器など他にいくらでもある。貴様はここで死んでもらおう。その女と一緒にな」



 坂口は壁際にあるポリタンクの中身を床に撒いた。そして、ポケットから取り出したライターに火をつけて、床に投げた。その液体の刺激臭はガソリン。一瞬にして巨大な炎が室内を飲み込んだ。


 坂口という器を操る夢幻は、割れた窓から再び外の世界へと出た。


 玄弥は意識を取り戻さない紗良咲を担ぐために椅子ごと持ち上げようとしたが、こうなることまで想定していたのか椅子の足が床に釘で留めらている。


 池で殺されかけたとき、臆病な紗良咲が夜の闇を走って助けに来てくれた。絶対に彼女を置いて逃げることはしない。


 どうすればいい?


 玄弥は襲いかかる熱から紗良咲を守るため、上着を彼女にかけた。

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