第二十七話 語りかける夢
これは誰の記憶だ?
玄弥は夢の中にいることを自覚した。
これまで悪夢として見てきた夢は、父親の記憶だった。祖父の玄徳に言い聞かされたせいか、真っ黒に塗りつぶされた人の形をした怪物によって父が殺害される場面を数えきれないほどに見てきた。
しかし、今回のそれはいつもと違う。緑豊かな上社ではあるが、現代に玄弥たちが住んでいるこの場所とは大きく違い、結玄寺があるはずの場所は草木が繁るただの空き地。家屋も地震があれば簡単に崩れそうなほど簡単な造りをしたものばかり。
その土地に住むひとりの青年が玄弥の視界に現れた。年齢は玄弥と同じくらい、服装は着物のようだが汚れていてまともに洗濯はしていないようだ。
舗装されていない土の道を草履で歩く彼は、懐に刃物を隠していた。そして、突然住人を追いかけ、奇声をあげながら次々と人を刺していく。逃げ惑う者たちは女子供関係なくその青年によって殺されていく。
玄弥は必死に「逃げろ」と声をあげるが、夢の中でその声が誰かを救うことはなかった。
上社の上空を覆う黒い渦。それは玄弥がこの場所で実際に目にしたそれと同じものだった。
土は血で真っ赤に染まり、亡骸が山のように積み上がっていく。目を背けたくなる惨状でも夢の中にいる玄弥は目を閉じることも別の方向に視線を逃すことも許されない。
満足して刃物の血を舐める青年の前に現れたのは、ひとりの僧侶だった。彼は黒い袈裟に身を包んで長い数珠を右手に携えていた。
世界は溶けるようにその形を失い、次に形成された景色は池の畔だった。そこは玄弥が八代に連れ去られた場所で、夢幻が封印されたと言われる池。
僧侶は青年が持っていた刃物を奪い取って、彼の身体を何度も刺した。そして、玄弥が池に落ちたように、青年の身体は大量の赤い絵の具を水に溶かしながら沈んでいった。
そこから早送りのように月日が流れて春夏秋冬が何度も繰り返され、ある男性が結玄寺から姿を現した。夜の明かりもない暗い世界に出てきたその男性は、不思議にもはっきりと認識することができた。
彼は袈裟を着ているが先ほどの僧侶とはまた違う人物で、裏山に入って山道を進み、ある場所で立ち止まった。玄弥には見覚えがある場所、父である淳が遺体で発見され、薫の遺体が埋められていたあの場所だった。
「私はここで待っている」
声が玄弥の脳に直接流れ込むような不思議な感覚だったが、それは一度も聞いたことのない男性の声だった。
──目が覚めると、玄弥の視界には自室の天井が映った。
身体を起こして辺りを見渡しても室内はまだ暗く、おそらく玄徳でさえまだ起きていない深夜だろう。充電中のスマホをタップすると、午前三時四十分と表示された。
普段なら深夜に目が覚めても再び眠りについて朝が訪ねるまで待つものだが、今回はそういう気分になれなかった。それは、夢の中で玄弥に語りかけた何者かが裏山で待っていると理由なく確信していたから。
正体もわからない誰かが玄弥に大切な何かを伝えようとしている。警戒すべきだが、この機会を逃すともう会えないかもしれない。そう感じた玄弥は、厚めの上着を一枚羽織って、肌寒く暗い世界へと踏み出した。
スマホのライトを頼りに裏山の山道を進む。先ほどまで夢に見ていた景色を早歩きで進んでいると、最初は寒いと感じていた身体は次第に温められた。呼吸は荒くなり、心拍数が上昇しながらも、玄弥の速度が緩むことはない。
辿り着いたその場所は、数日前に薫が眠っていたことを忘れさせるかのように枯葉で覆われてもとの姿を取り戻していた。スマホのライトで周囲を照らしてみても、誰かがいる気配はない。
夢は所詮夢だったのだろうか。
玄弥は「誰かいる?」と姿を見せない何者かに話しかけてみた。紗良咲がいる場所でこんなことをすれば、また説教を受けることになるだろうが、彼女は今頃自宅で眠っているだろう。
疲れた玄弥は落胆して結玄寺へと戻ろうとした。
一歩足を踏み出したとき、視界の隅に人の姿があった。しかし、一瞬でその姿は闇の中へと溶けてしまった。
よほど疲れているのだろうか。とうとう脳が幻覚を作り出し始めた。玄弥の願いを無理に叶えようとするのか、それは都合がいいものばかりだ。
「来てくれると信じていた」
「え?」
突然声が聞こえて振り返ったが、人の姿はない。咄嗟に振り返ったものの、その声は後ろから聞こえたわけではなかった。夢の中と同じように脳内に直接語りかけてくるような、まるで広い建物の中で反響しているような音だ。
玄弥はまだ夢の中にいるのではないかと疑ったが、身体に伝わる冷たい風は本物だった。
「誰だ?」
「私は友人を支配した夢幻を倒そうとした。だが、それは叶わなかった」
「姿を見せろ!」
「私はもうこの世にはいない。魂だけがここに残っている。伝えたいことはひとつだけだ。夢幻を止めてほしい。大切な人を守るんだ」
聞いたことのない男性の声。だけど、どこか懐かしい声。
玄弥の両目に溜まった涙は、蓄えられる容量を超えて溢れ出した。それは頬を伝って枯葉に雨を降らす。
この土地を浄化するように。
「父さんなんだろ? 出てきてくれよ。俺は父さんのことを何も覚えてない。会いたい、一度でいいから……頼むよ。せっかく父さんの目を受け継いだのに、こんなときに使えないんじゃ意味がないだろ」
「その目は守るべき人のために使いなさい。私はいつでも玄弥を見守っている。だから、生きなさい」
太陽が次第に山の向こうから顔を覗かせ始めた。その光は何よりも強く、暗闇の中にいた上社を照らす。
「父さん? 父さん!」
もう、彼の声は聞こえなかった。
玄弥は嗚咽しながら涙を拭い、天を仰いだ。空はオレンジから青へと色を変えていき、強い光が木々の間を抜けて玄弥を撃ち抜いたとき、彼を強い頭痛が襲った。それと同時に、玄弥はまた夢の中へ舞い戻った。
紗良咲が泣いている。暗闇の中で夢幻が彼女を見つめて笑った。
「行け!」
頭痛が治ったと同時に父の力強い声が玄弥の背中を押した。
もうライトは必要ない。陽が玄弥の進む道を強い光で明るく照らしている。玄弥は走りながらスマホを操作した。揺れる視界の中でその画面を確認すると、自分が向かうべき場所がわかった。
紗良咲を危険に巻き込まないために嘘をついたが、頭のいい彼女はきっとその嘘に気づいた。臆病な紗良咲がひとりで無茶をすることはないと思っていたが、その見立ては甘かったようだ。
紗良咲がいない世界に価値はない。
玄弥は下り坂を全力で駆け抜け、結玄寺の前を通り過ぎた。
上空を見上げると、巨大な黒い渦が玄弥を見下していた。これから起ころうとしていることは、玄弥がもっとも恐れていること。
父さん、力を貸してくれ。
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