第二十六話 蛮勇

 日曜日の朝、まだ日が上りきっていない早朝、紗良咲は坂口の自宅の様子を遠くから観察していた。紗良咲の記憶に残る違和感、その正体を知るために確認したいことがあるのだが、坂口と出会うわけにはいかない。この時間ならまだ彼は眠っているはずだ。


 紗良咲は静まり返った上社の新鮮な空気を吸い込んで、足音を殺しながら坂口の自宅に忍び寄った。


 目的は一軒家の前に停まっている彼の車両。朝日を反射して綺麗に光る赤いセダン、カムリ。田舎で乗るには贅沢な高級車。車のことはあまり詳しくないが、価格からなかなか庶民に手が届くものではなさそうだ。


 坂口が危険な人物であることは玄弥から警告を受けていたし、ひとりでこの場所にいることを知られれば、きっと怒られる。だけど、玄弥ばかりが危険な目に遭って、紗良咲は守られているばかりでいるわけにはいかない。


 心臓の鼓動が加速し続ける中、紗良咲はカムリの前まで辿り着いた。姿勢を低く保って車高の低いセダンよりさらに低く、頭が出ないように気をつけた。


 坂口が自宅から出てくる気配はないし、きっとまだ起きてこない。彼の仕事は教育関係の営業だと玄弥は言っていた。一般的な営業職は日曜日に働くことはあまりないし、リモートで仕事をする彼なら尚更こんな早朝に家を出ることもないはずだ。


 紗良咲が確認したいのはカムリのトランク付近。車両は自宅前にバックで駐車されているため、後方のトランクを見るためには敷地内に入る必要があった。


 薫が行方不明になったことで玄弥と一緒にこの場所を訪ねたとき、綺麗な高級車が泥で汚れていた。上社のような田舎なら舗装されていない土の道路もあるし、都会を走るより幾分汚れやすい。しかし、紗良咲が気になったのはトランク付近についていた泥とは違って見えた何かだった。


 車両が赤色だったことで見えづらいものであったが、脳内に保存された映像を呼び起こすと、それは同系色のものだった。もし、それが血液だったら。


 薫は行方不明になった直後に殺害されていた。坂口が犯人でトランクに遺体を押し込んで裏山の近くまで車両で移動し、薫を運んだとしたら。そのとき薫の血液がトランクの近くに付着したのだとしたら。時系列に齟齬そごはない。


 カムリの側面を見ても、あの日のように泥の汚れはなかった。あれだけ汚れていれば洗車をしても不思議ではない。


 紗良咲はそのまま敷地の中に入って玄関のすぐ近くでトランクの周辺を眺める。しかし、記憶にある同系色の汚れは見当たらなかった。洗車をしたのであればその汚れも泥と同様に流れてしまったのだろう。


 トランクの内側ならばまだ何かが残っているかもしれないが、それを調べられるのは警察のみ。それには捜索令状が必要になり、それを発行するためには坂口が犯人であることが限りなく事実であると証明する決定的な手掛かりが必要になる。


 坂口と薫に何かしらの接点が過去にあったのであれば話は別だが、薫は移住してきた坂口に挨拶をしたという表現をしていた。つまり、そのときが初対面であったということになる。



 「こんな朝早くに何か用?」



 背後から聞こえてきた声に紗良咲は息を呑んだ。振り返ると、玄関の扉を開けて顔を覗かせる坂口がいた。まだ寝起きのようで、髪は寝癖であちこちに跳ねていて、陽の光を受けた目はそのほとんどに瞼が覆い被さっている。


 車両の後ろで隠れるように屈んでいる紗良咲を背後から見ると、実に怪しい行動をしているように見えたはずだ。


 何か理由をつけて逃れなければ。



 「おはようございます。坂口さんが散歩好きだと聞いて、私も最近早朝に散歩しているんです。ウォーキングはダイエットにいいって言うじゃないですか」


 「うーん、それ以上痩せたら骨と皮だけになるんじゃない? ダイエットなんて必要ないと思うけど、女の子ってそういうもんなんだろうね」



 紗良咲は運動が苦手で少食であるため、筋肉がついていない細身の身体をしている。坂口が言うようにそれ以上痩せる必要はない体型だ。言い訳としては赤点レベルだった。



 「車の下に猫ちゃんが逃げ込んじゃって」


 「そうだったんだ。まだ猫いる?」


 「いえ、もう走って行っちゃいました」



 坂口は依然眠そうな目で「ならよかった」と笑う。その笑顔を見ていると、本当に彼が悪人なのだろうかと疑問に思うほどに人懐っこい笑みだった。それでも、人は外見だけで判断できない。いい意味でも悪い意味でも。



 「朝早くにすみません。そろそろ行きますね」


 「あ、ちょっと待って。協力してほしいことがあるんだ。待っててね」



 何かを思い出して紗良咲を引き留めた坂口は扉を閉めて一度自宅に入った。十秒もしないうちに再び彼は顔を出して、一冊の本を持ってきた。



 「うちの会社が出版する予定の問題集なんだけど、よかったら目を通してくれないかな? 紗良咲さんは頭がいいって玄弥くんが自分のことのように自慢するからさ。感想聞かせてもらえたら有難いな。営業としてこの書籍のよさを知りたいんだけど、自分で解くだけじゃ説得材料としては弱くてね」


 「はい、構いませんけど」


 「ごめん、そこまで渡しに行きたいんだけど靴洗ってて外に出れないんだ。取りに来てもらっていい?」



 紗良咲は帰ろうとして敷地を一歩踏み出したところだったので、坂口が玄関先から手を伸ばしても彼女には届かない。できる限り手を伸ばす彼の努力を目の当たりにした紗良咲は警戒心を一旦解いて問題集を受け取りに歩みを進めた。


 紗良咲が問題集に手を触れた瞬間、坂口の身体から溢れ出る不気味な何かが襲いかかってきた。痛みを感じるわけではないが、得体の知れない恐怖に紗良咲の身体は硬直する。


 坂口は紗良咲の問題集を掴んだ手を引っ張って彼女を玄関内へと引きり込んだ。その力に彼女の手から問題集は地面に落ち、視界は暗闇の中へと落ちていく。



 「わざわざ出向いてくれるとは、好都合だった」



 坂口は扉の鍵を閉めた。彼に突き飛ばされた紗良咲は壁に頭をぶつけて床に倒れ、混乱と痛みと恐怖、ありとあらゆる負の感情が彼女の周りを渦巻く。



 「誰?」



 この人は坂口ではない。容姿と声は間違いなく紗良咲が知る彼のものだが、目の前で彼女を見下ろして口角を上げるその人物はまるで別人だった。


 これが本性?


 いや、違う。



 「夢幻……」


 「見えずとも我に気づくか。やはり、お前にも消えてもらわねばならんな」



 まだ終わっていない。八代の死は夢幻の死じゃなかった。


 だから、玄ちゃんは隠そうとしたんだ。私をこれ以上危険に巻き込まないために。玄ちゃんは私を守ろうとした。


 なのに、私がその想いを台無しにした。


 紗良咲は髪を捕まれ、抵抗虚しく廊下を滑りながら暗い部屋へと吸い込まれた。

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