第二十五話 木は森の中
土曜日の夕方、自宅の部屋にいた玄弥は珍しく勉強をしていた。山は黄色に照らされ、次第に太陽の光は弱くなっていく。
学校を休んだ分のプリントを担任教師の真子とクラスメイトの恵と護が持ってきてくれた。一週間高校を欠席したのは今回が初めてで、これだけの期間授業に出ていないとなると、普段からしっかり授業に出席していてもわからないものがさらにわからなくなる。
玄弥には最高の幼馴染先生がいるが、なんでも彼女に頼っていては成長しない。そう玄弥に言い聞かせたのは祖父の玄徳だった。中学生の頃はそれなりに勉強ができたから、紗良咲と同じ藤城高校への進学を選んだ。実家から通うことができる高校の中で偏差値がもっとも高く、紗良咲と一緒に登下校できる高校が藤城高校のみだったからだ。
高校一年生の夏頃から、玄弥は勉強についていけなくなった。あの頃はまだ努力する意思はあったから、多少わからないことがあっても教科担当の教師や紗良咲の力を借りて食らいついた。それがいつの間にかわからないことが常態化し、成績は学年で下位へと落ちていった。
その頃に比べればまだ成績は上がった方だ。それも玄徳と聡子が紗良咲に頼んで玄弥の家庭教師をしてもらったからで、なんとか学年中位を保っている。
だから、紗良咲にばかり頼っているわけにはいかない。こういう特殊な状況だからこそ、自分でできることをやっておく必要がある。そうしないと、そのうち紗良咲に愛想を尽かされるかもしれない。
幼馴染として、紗良咲と対等な存在でいたい。学力では到底及ばなくても、人間としては真っ当でいないと。
しかし、思った以上に内容が難しい。
「なんでこうなるんだ? わかんねえなあ……」
わからない問題には印をつけておいて次に会ったとき紗良咲に質問できるようにしておくつもりだったが、これではすべてを解決するまで膨大な時間がかかる。解説を読んで理解できる頭脳がほしい。
玄弥の心が折れかけたところで離れたところに置いてあったスマホが着信した。勉強中は触らないように手の届かない場所に放置しておいたのだが、電話があると無視をするわけにはいかない。
着信の相手は井浦だった。
「もしもし」
「よう、今話せるか?」
「うん、勉強の気分転換にちょうどいいや」
「勉強? 玄弥が? これ以上おかしなことは勘弁だぞ」
「うるさいな。で、どうしたの?」
冗談を言えるだけ余裕がある井浦の電話口からは、賑やかな音が聞こえてくる。大勢の人の話し声と行き交う車、通行人の足音。上社ではない都会にいることはわかった。
「坂口について調べた。本当は紗良咲ちゃんに伝えるべきなんだろうが、これ以上巻き込みたくないって言ってたからな。玄弥に話すことにした」
「ありがと、助かる。何がわかったの?」
「殺された花山叶恵と坂口は単なる生徒と塾講師の関係ではなかったらしい。坂口に傷害の前科があるって話、覚えてるよな?」
「ああ、うん」
「あれな、高校生だった花山が飲屋街でチンピラに絡まれてたところを、通りかかった坂口が助けたんだとよ。そんなところに花山がいたことを学校に知られたら問題になるからって坂口が加害者として酔っ払いとトラブルになったことにしたそうだ」
当該事件の報告書に花山の名前はなかったそうだが、井浦は直接トラブルになった相手を当たったのだそうだ。当事者は今では更生してまともに働いており、当時のことは反省しているという。
「じゃあ、被害者になった人たちがそもそもの原因で傷害事件になったってことか。むしろいい人じゃんか、教え子守るために自分が悪者になったんでしょ」
「が、その後花山に気に入られたのか、弱みを握って近寄ったのか、特別な関係になったらしい。花山を知る人間からの情報だ」
「大人の関係、的なやつ?」
「簡単に言えばそうだな。坂口もまだ若かったし、そんな話は珍しくない」
塾講師として、教育者として、生徒と特別な関係になることは許されない。そういった話は隠しているだけでどこにでもありそうなものだが、公になった瞬間職を失うどころか、相手が未成年である以上下手をすれば犯罪と見なされる。
「ふたりはトラブルになって、口封じのために坂口がその子を殺したとか?」
「本当のことはわからない。これが八代の犯行なのか、そうじゃないのか、もう知りようがない。ただ、この事件だけ被害者のスマホが見つからないことから、無差別殺人じゃなくて個人的な怨恨が原因で起こった殺人の可能性もある、ということだ」
「そんな調べてすぐにわかるようなことなのに、なんで五年前に坂口は疑われなかったの?」
「おそらく連続殺人のせいだ。物的証拠が何も出なかったせいで、一連の事件と同一犯によるものだと決めつけられて捜査が不十分だった。刑事として情けない」
五年前に花山叶恵を殺害したのが坂口だとしたら、彼に夢幻のような存在を見たことと辻褄が合う。坂口はその殺意は八代に向けられたと言っていたが、純粋に彼が持っていた本来の性だったのかもしれない。
だけど、どうすれば坂口が犯人かどうかを証明することができるだろうか。そうなってくれば、薫の殺害についても八代が犯人だとは限らない。坂口に薫を殺害する理由があるとは思えないが、調べれば過去に接点があるかもしれない。
「井浦さん、坂口と薫さんに接点があるか調べられる?」
「同じことを考えてた。まだ捜査は進んでいないが、もう少し調べてまた連絡する」
通話を終えた後、すでに玄弥の思考は勉強とはまったく異なる場所にいた。坂口は怪しいと考えて警戒していたが、まさか五年前の殺人を犯した可能性があるとは。
紗良咲の頭脳を借りれば、この情報をもとに新たな発見ができるかもしれない。しかし、これ以上彼女を危険に晒すことはできない。ここからは玄弥と井浦だけで事実を追い求めるしかないのだ。
井浦と電話をしていた時間は自覚より遥かに長く、すでに外は暗くなった。
廊下から聡子が夕飯に呼ぶ声が聞こえる。玄弥はテーブルに広がったプリントを折り畳んで一箇所にまとめると、「わかった」と返事をして戸を開けた。
廊下に出るとダイニングから醤油の香りがふらふらと寄り道をしながら玄弥のもとまで到達した。頭を使って疲れた後のご飯は格別なものだ。今は腹ごしらえをして、気持ちを切り替えよう。
この上社に再び平和を取り戻す。
それが父からこの目を受け継いだ俺に課せられた使命だ。
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