第二十四話 恋心と決意

 小学生だった頃、玄弥はまだ子供だった。そんなことは当たり前で誰でも小学生の頃はまだまだ子供だが、彼は精神的に幼かった。おそらく軽い気持ちで口にした言葉は紗良咲を怖がらせた。


 それは「夜道に幽霊が立っている」というものだった。


 小学生だった頃、紗良咲はすでに大人だった。容姿はまだまだ幼かったが、考え方が大人びていたし、非常に頭がよかった。でも、玄弥が冗談で言った言葉がとても恐ろしくて、泣いてしまった。


 そのせいで、彼は玄徳に数時間に及ぶ説教を受け、清正からも紗良咲を守ってやってほしいと約束させられた。それからの玄弥はとても頼もしい存在になった。紗良咲が怖がっていたら「大丈夫だ」と傍にいて励ましてくれた。


 そんな玄弥を友人以上の存在として意識するようになったのは中学生の頃だった。彼はふたりの祖父からの教えを守り、あれ以来紗良咲を怖がらせる冗談は決して言わなかったし、常に彼女の気持ちを考えて行動するようになった。


 彼のその数年間の成長が紗良咲にとっては大きな魅力に映った。いつしか玄弥はどんなときでも紗良咲が困っていれば助けてくれるヒーローのような存在になった。


 だけど、いつまでも助けられるだけではいけない。


 玄弥はもうすべて終わったと言ったが、何かを隠している。どれだけ繕っても長い付き合いの中で彼の性格はよく知っている。あれが紗良咲を巻き込まないための優しい嘘だということは。


 玄弥はあの夜、父親を殺害したのは八代だったことを知った。その八代は自ら死を選択した。一連の殺人も八代が真犯人だと考えられているが、警察が自宅を調べたところ久馬薫がそこにいた証拠は何も見つからなかった。犯行現場が異なるのか、それとも彼女を殺害したのは別の誰かなのか。


 証拠がなければ事件は未解決のまま迷宮入りすることになる。



 「わざわざ来てもらってすみません」



 土曜日の午前十時、紗良咲は体調が回復したため自宅に戻り、ある人を出迎えた。亡くなった八代の直属の部下である富永乃愛。


 紗良咲は彼女から聞きたいことがあったので、時間を作ってもらおうと連絡をした。すると、紗良咲が事件に巻き込まれたことを知った乃愛は、見舞い兼ねて如月家を訪ねることになった。


 玄弥からはひとりで出歩くことは避けるように言われている。つまり、まだ危険は去っていないということだ。


 差し入れの飲み物を持参した乃愛を自室に通して、ふたりはテーブルを挟んで座布団に座り向かい合った。



 「体調はもう大丈夫? 大変だったね」


 「もう平気です」


 「よかった。まさか八代さんが玄弥くんを殺そうとするなんて。私といるときはいつも穏やかな人でいい上司だと思ってた」


 「私も驚きました。挨拶をしたときも優しそうな印象だったので」


 「で、私に訊きたいことって?」



 乃愛は持ってきた飲み物をテーブルに並べると紗良咲にひとつ選ばせてから、自分もひとつを取ってキャップを開けた。



 「亡くなった久馬さんの姿を見たという話についてです」


 「あー、あれか。もう玄弥くんにも訊かれたんだけどな」


 「玄ちゃんから乃愛さんと話したことは聞きました。でも、私は本当のことを知りたいんです」


 「本当のこと?」


 「はい。乃愛さんは霊感を持っていますか?」



 紗良咲の真剣な眼差しに冗談で言っているわけではないことを悟った乃愛は、ペットボトルを口につけて喉を鳴らした。



 「霊感は、ないかな」


 「久馬さんを見たときの詳しい状況を教えてください」


 「あんまり記憶にないんだよね。遠くからだったし」


 「でも、井浦さんには久馬さんを見たと話していますよね。曖昧な記憶を事実のように警察に話すことはリスクがあります。誤った情報で捜査を混乱させることになりかねませんから。乃愛さんがそんな迂闊なことをする人だとは思えないんです」



 乃愛は再び飲み物を喉に流し込んで、すぐにキャップを閉めた。彼女の動揺が紗良咲に伝わってくる。


 彼女は間違いなく何かを隠している。



 「わかった。本当のことを話す。だけど、内緒にしてね」


 「誰に対して、ですか?」


 「坂口さん」



 その名前が乃愛の口から語られることは想定していた。いや、確信はなかったが、紗良咲の脳内に残るある写真きおくが、彼女の背中を押したのだ。



 「坂口さんに何を言われたんですか?」


 「裏山で久馬さんを見たと証言してほしいって。実際に見たのは坂口さんだけど、上社に移住したばかりの人間が話しても信頼されないかもしれないから。私もまだここに来て一年も経ってないけど、市役所に勤める人間なら裏山に入っても不思議じゃないし」



 確かに地域振興を目的に仕事をする乃愛であれば、外部へのアピールのために上社内を探索していても怪しまれることはない。その結果、偶然薫を見たとしても。


 だが、それでは矛盾が生じる。



 「目撃証言が出たとき、久馬さんはすでに亡くなっていたんです。警察から聞いたんですけど、久馬さんは行方不明になった直後に殺害されていたようなんです。だから、亡くなった後の彼女を見たのであればそれは幽霊だということになります」


 「だから、霊感があるか訊いたのね」



 紗良咲は頷いた。



 「じゃあ、坂口さんは幽霊を見たってこと?」


 「わかりません。本当に見たのであれば、そういうことになります」



 玄弥の話では、坂口の目にも夢幻が映るらしい。であれば、裏山で薫を見たことには納得がいく。


 しかし、彼はなぜ裏山に入ったのだろうか。結玄寺は上社の最奥地にあり、その奥の裏山には特に何もない。散歩好きの彼が偶然入ってみたと言われれば否定はできないが、どうにも疑問が拭えない。


 彼が犯人だとしたら、説明がつく。その代わり、彼が薫を殺害した動機が見えない。坂口は上社に移住してきたばかりで、薫は学業のために偶然上社に訪ねた大学生。過去に接点がないとは限らないが、そこまで強い怨恨があるなら井浦が捜査で突き止めそうなものだ。


 直接坂口に話を訊きたいところではあるが、そうすれば乃愛との約束を破ることになる。そして、紗良咲自身も危険と隣り合わせのリスクを背負うことになる。どうにかして他の方法から事実へアプローチをかける手段はないものだろうか。



 「紗良咲ちゃんは、玄弥くんのことが本当に好きなのね」


 「え?」



 思考の世界に迷い込んだ紗良咲を乃愛の言葉が現実世界へと連れ戻した。



 「今久馬さんのことを調べてるのも玄弥くんのためなんでしょ?」


 「私が本当のことを知りたいだけですよ」


 「嘘。付き合いはまだ短いけど、紗良咲ちゃんの性格はよく知ってるつもり。私の前では本当のこと言ってよ。私もそうしたんだから」



 紗良咲は肯定の言葉なしに、小さく頷いた。


 私のために傷ついたあの手を見たとき、守られてばかりでいることが惨めになった。助けに走ったはずが、結局助けられた。


 そして、巻き込みたくないから玄弥は紗良咲を安心させるための嘘をついた。


 今度は私が返す番だ。

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