第二十一話 大切な人を
おかしい。
玄弥が紗良咲の部屋を去ってから一時間以上が経った。彼は帰宅したら連絡すると言っていたのに、こちらから送信したチャットには既読がついただけで返信がない。
紗良咲は自室でスマホを握って玄弥からの連絡を待った。秋の夜風に吹かれて冷えた身体を風呂で温めているならそれでいい。しかし、玄弥の性格なら心配させないようにチャットには必ず返信をするはずだ。
勉強が苦手で他人の気持ちに疎い彼だが、紗良咲には誰よりも優しく接し気を遣う。
紗良咲は居ても立ってもいられなくなり家の固定電話から玄弥の自宅に電話をかけた。電話を取ったのは彼の母の聡子だった。
聡子は「あら、紗良咲ちゃん珍しいわね」と、普段は玄弥と直接連絡を取り合う紗良咲が固定電話を使うことを不思議に思っているようだ。
「もう玄ちゃん帰ってますか?」
「まだ帰ってないけど。紗良咲ちゃんと一緒じゃなかったの?」
「一時間ほど前に帰りました。家に着いたら連絡するって言ってたのに、チャットにも返事がなくて」
「ちょっと待って。知らないうちに部屋に入ったのかもしれないから見てくるわね」
聡子は電話を保留にして、玄弥の部屋を確認しに行った。高校生ともなれば毎回必ずしも帰宅して母に声をかけることはないかもしれない。気づかないうちに部屋に入っただけなら、心配のしすぎで終わる話だ。
だが、紗良咲が望んだものとは違う結果が待っていた。
「やっぱりいないみたい。でも大丈夫よ。紗良咲ちゃんがいないのなら心配だけど、玄弥は男の子だから。私からも連絡してみる。紗良咲ちゃんが心配してたって怒っておくわね」
「わかりました。お願いします」
たとえ男であっても物騒な事件があった上社で夜に息子の行方がわからないとなると、どんな親でも不安になるだろう。聡子は紗良咲を心配させないようにとあえて気丈に振る舞ったのだ。
きっと今頃玄弥に連絡をしているはず。帰り道に誰かと会って、話に花が咲いただけ。楽しい時間はあっという間に過ぎるものだ。結玄寺の近くで玄弥が笑っている姿が想像できた。
落ち着け。
紗良咲は物事を悪く考える癖がある。楽観的な玄弥とは正反対の性格なのだが、彼がいるから日常が明るく輝いた。玄弥ならこんなとき、「大丈夫だろ」と笑っているに違いない。
紗良咲はテーブルに置いていたスマホに手を伸ばした。それと同時に画面が光って着信があった。表示されたのは相手の名前で、それは玄弥からの着信だった。聡子から連絡があって、すぐに心配させたことを謝罪するために電話をくれた。容姿は大人になっても、男の子は子供のままだ。
「もしもし?」
紗良咲は少しばかりお灸を据えてやろうといつもより意図的に語気を強くした。
「……」
玄弥は何も喋らない。紗良咲が本気で怒っていると思って、話しづらいのだろうか。
「別に怒ってないよ。心配だっただけ」
「……」
「玄ちゃん? 聞こえてる?」
十秒以上、玄弥は何も言葉を発しなかった。
「ねえ、大丈夫? 何かあった?」
「……すけ……」
「何? よく聞こえない」
古い時代の無線通信のようにノイズが走り、玄弥の声とは似つかない男性の声が遠くから聞こえてくる。
「たす……けて」
「どうしたの!? 今どこにいるの!?」
確かに聞こえた。声は玄弥のものと少し違うが、彼は助けを求めている。
紗良咲はスピーカーモードに切り替えて音量を最大にし、スマホに耳を近づけて彼の声をよく聴こうと試みた。
「ゴボゴボ」
「きゃあっ!」
海の底に沈んだような泡の音が紗良咲の鼓膜を揺らし、恐ろしくなった彼女は反射的にスマホから手を放した。床に転がったそれはさらにゴボゴボと泡の音を立て、男の声で「助けて」と繰り返し喋り続ける。
怖い。
でも、玄弥に何かがあったんだ。
行かなきゃ。
紗良咲はスマホを手に取って部屋を飛び出した。秋の夜は冷えるので、目に留まった上着を羽織ると玄関で靴を履き、暗闇の中へとその身を投げ込む。
こんなときでも脳は冷静に、かつ論理的に出来事の真意を掴もうとする。それは紗良咲だからこそできることだった。
助けを求める声、水中の泡の音。それらふたつが彼女に与えた可能性は、ひとつの場所へと彼女の脚を進ませる。この上社でもっとも住人が近寄らず、伝承の中でもっとも印象が強く残る場所。
普段ならひとりでこんな時間に外を出歩くことはないし、こんな恐ろしい場所に飛び込むなんて到底できない。だけど、今は私じゃないと大切な彼を救うことはできない。
木々の間を抜けた先にある池。そこは遠い昔、この上社に災いをもたらした夢幻を結玄和尚が封印したと言われる池。きっと電話で聞こえた音はこの池を示しているはずだ。
月明かりが木々の間を抜けてある一点を照らす。そこにあったのは、見覚えのあるスマホだった。紗良咲はそれを拾って暗闇の中で眼を凝らし、それが玄弥のものであることを確認した。
そして、崖の淵から池を見渡す。スマホのライトをつけて小さな池をくまなく照らしていく。
「玄ちゃん!」
見えた。玄弥は池の水深が浅い場所でかろうじて顔を水面から出している状態で眠っている。紗良咲は慎重に坂を下り、冷たい水に構うことなく池の中に足を踏み入れた。
玄弥の大きく重い身体を引きずって陸地に上がると、彼は両手両足を結束バンドで縛られていた。
誰がこんな酷いことを。
「玄ちゃん、起きて! お願い、目を覚まして!」
玄弥の身体を揺らしてみたが、反応がない。
紗良咲は高校で受講した人命救助の訓練を思い出して玄弥の口元に耳を近づけた。彼の口から呼吸音は聞こえなかった。胸に耳を押し当てると、心臓は動いているようだ。
紗良咲は玄弥のうなじを右手に乗せて首を反らせ、左手で顎を押さえて彼の口を大きく開ける。大きく息を吸い込むと、肺に含まれた空気を玄弥の口へ流し込んだ。玄弥の胸が大きく膨らんだことを確認し、さらにもう一度同じように空気を玄弥の口から肺へ送る。
「玄ちゃん!」
頬を強く叩き、何度も人工呼吸を繰り返して名前を呼んだ。
嫌、死なないで。
玄ちゃんがいないと私は……。
呼吸をしない玄弥に焦る紗良咲は、背後に気配を悟った。振り返ってはいけない。本能が彼女に訴えかけるが、身体は意に反して動く。
池のそばにそびえ立つ一本の大きな木から、男がぶら下がっていた。太いロープがピンと伸び、輪になったそれは人の首をへし折って僅かに揺れる。力なく四肢をだらしなく落とし、人形のような肉体が頭上で紗良咲を見つめていた。
紗良咲は呼吸をすることすら忘れ、玄弥の傍でゆっくりとその頭を落とした。
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