第二十話 夢の器
ここは、夢の中か?
もう見慣れた光景だ。目の前でほとんど記憶にない父が夢幻に殺される。後味が悪いことに違いないが、昔ほどに動揺することはなくなった。
だが、今回のそれはいつもと違った。
宮司淳はひとり裏山の木々に囲まれた斜面で目を瞑っている。
彼は母の聡子と結婚して宮司家の婿になった。玄徳との血の繋がりはないが、いずれ結玄寺を継ぐことになっていた。
「お前さえいなければ」
その声と共に父は背中を刃物で刺されて倒れた。その身体は斜面を転がっていき、ある場所で止まった。そこは、先日薫の遺体が埋められていた場所だった。
あのとき井浦は言った。ここは淳の遺体が発見された場所だと。
淳を襲ったのは夢幻。そう言い聞かされたせいか、この夢で淳を襲ったのはいつも真っ黒な人影だった。それは夢幻というものがどういうものかわからなかった玄弥の潜在能力が作り上げた姿。しかし、その正体はようやく姿を見せた。
八代正嗣。十七年前、今より若かったかつての彼が冷酷な眼差しを遥か下の方に転がっていった淳の身体に向ける。
わずかに息があった淳は薄らと目を開けて、八代を見ながら言った。
「やはり、勝てなかったか……」
──目を覚ました玄弥は、地面に身体を横たえていた。
木々の中にいる彼は真っ暗な闇の世界にいて、僅かな月明かりのみが視界を形成する。彼の両手と両足は結束バンドで縛られていて、身動きが取れない状態になっていた。
「気がついたか」
夢の中で聞いた声が、玄弥に語りかけた。大きな木の根に腰を下ろし、不気味に微笑む男は手に持っていた酒の小瓶を投げ捨てて立ち上がった。その身体を黒い禍々しいものが踊り狂って歓喜を表現しているように見える。
「お前が父さんを殺したのか?」
「そうだな、どうせならすべて教えてやろう。もうこの器も捨ててしまうから問題ないだろう」
「器?」
「きっかけは十七年前。この八代という男が歪んだ欲望に駆られたことからすべてが始まった」
八代が話しているのに、その表現はまるで他人のことを語っているようだ。何が起こっているのか、玄弥の脳では到底理解が及ばなかった。同じ状況に紗良咲がいたとしても、彼女の頭脳でさえ理解することは不可能だろう。
八代が話を始めると葉が風に吹かれて騒いだ。その音が余計に玄弥の不安を煽り、彼の心拍数を上昇させていく。
「八代はある女を自分のものにしたいと願ったのだ。それが愛情なのか、歪んだ欲なのかはわからない。大半の人間は、実際に行動を起こすことはない。だが、この男は一線を越えた」
八代が話しているのは十七年前にあった真子の誘拐未遂事件だ。失敗に終わったとはいえ、八代がしたことは許されない。
「八代の狂気は我を呼び、とうとうこいつは器のみを残して消え去った。それは我々の願いでもあった。だが、八代の狂気に寄せられた者が他にもいた。それが、お前の父だ」
「父さんが何をしたって言うんだ!」
「ようやく器を手に入れたこの姿をその目に映したのだ。そして、八代の身体を取り戻そうとしたのだ。故に消した。積年の願い、たったひとりの男に潰されるわけにはいかなかった」
まさか、父さんには夢幻が見えたというのか。しかし、器とはなんのことで、父さんは何をしようとした?
その答えがわからなければ、この事件は終わらない。早くこの危機的状況を脱したいところだが、突破口はそう簡単に見つかりそうにない。少しでも話を伸ばして事実を聞き出し、この場から逃れる術を探すしかない。
「薫さんを殺したのもお前なのか? 連続殺人も全部お前の仕業なのか?」
「この器で十分楽しませてもらったが、そろそろ終わりが近い。そうだ。すべては我がやったこと。事実に辿り着いて満足か?」
八代は大きく口を開けて醜く歯を見せた。月の弱い光を反射した両目は充血して、それらは赤い涙を流す。生身の人間がこれほどまでに悍ましい姿を魅せられるものだろうか。
八代がこれからしようとしていることは明白だ。なぜ自らの罪をすべて告白したのか。それは、それをすべて知った玄弥が二度と誰にもこの事実を口外できないようにすること。
父と同じ道を歩むことになる。
この事件に関わってから、危険な状況に遭うかもしれないことは覚悟していた。いや、実際はどこか平和ボケした思考が現実を直視することから玄弥を遠ざけていたのかもしれない。
「俺が死んでもお前は必ず捕まる」
「残念だがそれはない。この器を処分すれば、我はまた自由だ」
八代は一歩ずつ悦びを噛み締めるかの如く、横たわる玄弥の身体に手を伸ばし、シャツの襟を掴んで無理やり立たせた。その力は人間のものでない、もっと恐ろしく怪物のような強力なものだ。
シャツに首が圧迫されながら立ち上がった玄弥は、ようやく自分が置かれている状況を理解した。
八代は玄弥のシャツの襟を掴んだまま、半分落ちそうになる身体を引っ張って支える。
「我はこの場所で封印された。憎き結玄はもうこの世におらぬが、我は滅しない。器がある限り何度もこの地に現れる」
「夢幻……」
今も結玄寺に貯蔵される伝承。上社が夢幻之郷と呼ばれた時代、この地にいた僧侶の結玄が夢幻を封印した。玄弥が見下ろす池の底に。
ただの言い伝えだと本気で信じる者はいなかったが、少なくともこの池に近づく者はいなかった。それが上社に住む者の暗黙の了解だったからだ。
伝承は単なる伝承。そんな存在が今ここにいて、玄弥を消そうとしている。
「最後にひとつだけ聞いておこう。あの女は我の正体を知っておるのか?」
「女?」
「如月紗良咲のことだ」
「紗良咲は何も知らない」
「常にお前と共にいたはずだ。何も知らないはずがない」
八代はさらに玄弥を崖から押し出し、襟を掴むその手を離せば玄弥は池に沈むことになる。
だが、今にも命を失いそうな状況の玄弥は自身よりも紗良咲を案じた。このままでは彼女に危険が迫る。
そうか、こんなことならこの気持ちを紗良咲に伝えておけばよかった。かつて命を落とした父も同じ想いだったことだろう。大切な人を置いてこの世を去ること以上の無念があるだろうか。
「紗良咲は臆病なんだ。俺がいなければ何もできない。学校に行くことも。だから、俺が消えればすべてを諦める」
「そうか。ならば、お前を消した後に楽しませてもらうとしよう」
「やめろ! 紗良咲には手を出すな!」
八代が襟を放すと玄弥の身体は重力に任せて落下した。両手両足を縛られたまま黒い水面に叩きつけられ、玄弥はゆっくりと底へ落ちていく。秋の夜水は冷たく急激に体温を奪い、呼吸ができない状態で視界を奪われた。
どうか、紗良咲は無事でいてくれ。
意識を失う瞬間、玄弥の脳内で紗良咲が笑った。
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