第十九話 支所の職員
如月家を出て結玄寺までの道のりを歩く玄弥は、これから進む方向に見える黒い渦に警戒した。これが見えたときは、必ずよくないことが起こる。
田舎の上社は夜になると数少ない街灯と民家の灯りのみが目印になる。これほど月と星が綺麗に見える場所が同じ藤城市内にあるなんて、市街地に住む人からすれば想像できないだろう。
暗闇の中に浮かぶ黒い渦。それは他の何よりもくっきりと玄弥の視界に映っている。
「玄弥くん?」
「うわっ! びっくりした」
遠い場所を見て歩いていた玄弥は、突然目の前に現れた人物に驚いて肩を震わせた。その人は「驚かせてごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど」と申し訳なさそうに両手を合わせる。
「いや、こっちこそ。全然気づかなかった」
彼女がなぜこんな時間にこの場所にいるのかわからないが、現れたのは仕事が終わった後であろう富永乃愛だった。
上社支社はここから離れた場所にあり、彼女の住まいはこちらの方向ではない。夜に乃愛とここで出会ったことはこれまで一度もなかった。
「なんでここに?」
「仕事の関係で結玄寺に用があってね。玄徳さんと話そうと思ったんだけど、あんな事件があってそれどころじゃないよね。また今度にした」
「そっか。役所に勤めるのも大変なんすね」
乃愛は短大を卒業して半年ほどしか経っておらず、玄弥との年齢差もわずか四歳。そんな彼女が社会人として働く姿を見ると、近い将来自分もこれだけの責任を負って働くときが来るのだろうと不安になる。
彼女は紗良咲のよき相談相手であり、玄弥とは友人に近い関係だ。あんな事件の後、ひとりで夜道を歩くのも不安だろうし、玄弥は紳士になったつもりである提案をした。
「夜遅いし、家の辺りまで送って行こうか?」
「大丈夫って言いたいところだけど、ちょっと怖いかな。お願いしていい?」
「もちろん」
「紗良咲ちゃんに申し訳ないな」
「なんで?」
「それを聞いてるようじゃ、まだまだ先は長いか。君たちはお互いに鈍いからね」
「ん? どういうこと?」
乃愛は「なんでもない」と微笑んで自宅への道を再び歩き始めた。玄弥が出てきた如月家の前を通過し、さらに歩みを進める。
「そういえば、話ってなんだったの?」
昨日上社支所を訪ねて乃愛から話を聞きたいと伝えたが、その後行方不明になっていた薫が発見されたことで彼女との約束は半ば忘れ去られていた。玄弥はちょうどいい機会だから、ここで聞いておこうと質問を投げかけた。
「うちの裏山で薫さんを見たって警察に言ったよね?」
「うん、言った」
「そのときの話が聞きたくて。乃愛さんはなんで裏山にいたの?」
「うーん……」
なぜ裏山にいたのか。その理由を説明することに乃愛は躊躇した。何かやましいことがあるのだろうか。乃愛のことをよく知っているからこそ、疑いたくない。彼女は潔白であってほしい。
「ちょっと写真を撮りたくて。地域振興のための資料を作るために自然の写真が必要だったの。だから裏山へ」
「薫さんを見たとき、どんな様子だった? 何か気づいたことはなかった? どんなことでもいいから」
「玄弥くん、なんだか刑事みたい。特に変わった様子はなかったよ。遠くの方に人がいて、最初は誰かわからなかったけど、もしかしたら行方不明になっている人なんじゃないかって思って」
「はっきり見たわけじゃないの?」
「上社の人は裏山に入ることなんてそうそうないでしょ? 若い女の人なのはわかったから、そうなんじゃないかなって。すぐに見失ったけどね」
確かに、この上社に若い女性は乃愛と紗良咲を除くとひとりもいない。乃愛が目撃したのが紗良咲であれば、きっと気づくはずだ。そもそも裏山に紗良咲がひとりで立ち入るとは思えない。
ならば、乃愛が見た人物はおそらく薫だったのだろう。
「それはいつの話?」
「いつだったかな。正確には覚えてない。もう家すぐそこだし、ここまででいいよ。ありがとう」
「あ、もうこんなところまで来てたのか。それじゃ、おやすみ」
乃愛は玄弥の質問責めから逃れるように暗い夜道を早歩きで去った。そのすぐ先には民家が数軒あり、その中のひとつに彼女は住んでいる。ここまで来れば安全だろう。
玄弥はまた来た道を引き返した。スマホには紗良咲からメッセージが届いていた。帰ったら連絡をすると伝えてから三十分以上が経過し、心配になったらしい。玄弥はメッセージを開いて「乃愛さんに会って話してた」と聞いた内容を共有しようと入力を開始した。
「こんばんは」
暗闇の先から突然届いた声に玄弥はスマホを落としそうになりながらも、間一髪でそれを捕まえた。
玄弥の進むべき道の真ん中に立つ男は、身体を黒い渦が巻いており、穏やかな笑顔とは対照的に不気味な雰囲気を発している。それらは今にも玄弥に向かって襲いかかって来そうな勢いで、時折男の身体から離れてはまた戻る。
「宮司玄弥くん。やっと会えた。大きくなったね。あの頃はまだ赤ん坊だったのに」
「八代さん、でしたね」
「知ってくれてたのか、嬉しいな。君のお父さんとは仲良くさせてもらっていたんだ」
八代が転勤で上社を離れたのは十五年前で、当時の玄弥はまだ二歳だった。
「話は聞いています。どうしてこんなところに?」
「仕事の帰りだよ。富永さんと一緒に結玄寺にお邪魔してたんだ」
「そうでしたか。遅くまでお疲れ様です」
「まだ高校生だというのに、立派なものだ。卒業したら一緒に働く気はない? 上社支所は人手不足だから」
「考えておきます」
社交辞令で返事をした玄弥は一刻も早くこの場所を離れようと考えていた。これだけの禍々しい夢幻を前にして、冷静でいることは難しい。八代が危険な人物であることは間違いないのだ。
「もう遅いんで、帰ります」
「そうした方がいい。いつまでここにいるかはわからないけど、また上社の住人になったからその挨拶をしておこうと思って声をかけたんだ。今後ともよろしく」
「こちらこそ。それじゃ、失礼します」
玄弥は八代の側を警戒しながら歩いて通り過ぎた。八代はずっと玄弥に向けて穏やかな表情を向けており、しかしその奥には秘めた何かを持っているような、得体の知れない恐ろしい目をしていた。
「そうだ、玄弥くん。あとひとつだけ」
「なんですか?」
八代に呼び止められて振り返った玄弥は八代の身体から飛び出した夢幻に視界を奪われた。暗闇の中、黒い煙のようなものが玄弥の身体を包んでいく。
何も見えない。失明したかのようだ。
「やはり見えるのか。なら、消さないとな」
最後に聞いた八代の声は、落ち着いていて冷酷だった。視界を奪われたまま全身が硬直し、意識と共に玄弥の身体は土へと落ちていった。
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