継承
第二十二話 弱さと威厳
「随分早いな」
早朝のまだ聡子が眠っている時間、結玄寺本堂にいた玄徳は孫の玄弥が足を踏み入れた音に気づいた。座布団に正座をして祭壇を見ていた彼は、こちらに視線を寄せずに彼の背後にある座布団に「座りなさい」と言った。
玄弥は厳格な祖父の指示に従って座布団に正座する。胡座をかこうものなら何時間説教を受けることか。
「話がある」
玄弥はなお背中しか見せない玄徳に向かって時間がほしいと交渉した。玄弥が幼い頃から父親に代わって厳しく孫を躾け、時に叱り時に褒め、玄弥を正しい道へと導いた人は、どうしても言えなかった秘密を抱えていた。
「紗良咲ちゃんはまだ寝てるのか?」
「寝てる」
「そうか。いろいろあって疲れているだろうから、今はゆっくり休ませてあげなさい」
昨夜、玄弥は八代に殺害されそうになった。誘拐されて両手長足を拘束された状態で池に突き落とされ、底に沈んだ……はずだった。なのに、目が覚めると玄弥は池の畔で倒れていて、傍には意識を失った紗良咲がいた。そして、彼の頭上には木から四肢を垂れている八代がいた。
状況が読み込めないまま、玄弥は紗良咲に声をかけたが反応はなかった。両手両足は結束バンドで締められていて、身体を起こすことすらできなかった。おそらくひとりだったら、そこで諦めていただろう。紗良咲が傍にいてくれたから、なんとか彼女を救わねばと周囲を見渡した。
どういう偶然か、はたまた必然か。木の根元に折りたたみ式のナイフが落ちていた。おそらく八代が持っていたものだろう。玄弥はそこまで芋虫のように身体を捻って移動し、手首の結束バンドを切った。そのときに左手を切ってしまい出血したが、そんな痛みよりも紗良咲が心配だった。
足首の結束バンドも切り、玄弥は彼女を担いで結玄寺までの道を歩いた。帰宅した玄弥と紗良咲を見て聡子は慌てて救急箱を取り出したが、対照的に玄徳は冷静に何かを悟ったようだった。
だから、これからする話は玄徳にとってすでに覚悟の上なのかもしれない。玄弥は包帯が巻かれた痛々しい拳を握った。
「じいちゃん、俺、夢幻が見えるんだ」
「やはり見えるのか。血は争えんな」
「母さんには見えないんだよな?」
「ああ、そうだな」
「じいちゃんも、見えないんだろ?」
玄弥の核心をついた言葉に玄徳は何も言い返さなかった。それは無言の肯定。
玄徳はあれだけ禍々しいものを携えた八代と対面しているのに、玄弥に対して注意をしなかった。厳格な祖父ではあるが、危険があるときは常に玄弥を守ろうとしてきた彼が八代に警戒しないはずがない。上社の空を夢幻が覆ったように見えたときも、玄徳は何もなかったかのように振る舞っていた。
それは、あえてだと思っていた。変に反応しないことで玄弥が余計なことを考えないようにしていたのだと。だが、玄徳が本当に何も知らなかったとしたら、これまでの彼の言動に対する見え方のすべてが反転する。そして、辻褄が合ってしまった。
「でも、父さんには見えた。八代の本性が」
「不思議なものだな。結玄和尚がこの寺を建立し、代々受け継いで守ってきたこの上社の土地に外からやってきた淳くんが、なんの関わりもないはずの淳くんが夢幻を見るなんて。玄弥は淳くんからその才覚を受け継いだ。これも
「父さんは八代に殺された。十七年前、たぐっちゃん……田口真子さんを襲ったのは八代で、それは失敗に終わったけれど、八代は夢幻に支配されてた。それに父さんは気づいて八代を救おうとしたんだ」
玄徳はとうとう心を決めたのか、身体の向きを直して正座のまま玄弥と顔を合わせた。厳しさとは反比例して穏やかな表情を見せる玄徳は、玄弥の記憶にあるいつのときの彼よりも弱々しく映った。
「私は気づいてやれなかった。この目がもし夢幻を捉えていたら。何度もそう願ったが、もう遅い。淳くんはこの世を去ってしまった。事件の真犯人を知ったことで口止めをされたのだとは疑ったが、八代くんが犯人であることは今まで気がついていなかった。愚かなものだ。お前の父は夢幻に殺された。そんな言葉で孫を騙し、自らの罪と向き合うことから逃げた。私の目は節穴だった」
玄徳は両目を潤わせて天井を仰いだ。このままでは弱音だけでなく、祖父としての威厳も吐き出してしまいそうだったから。
「じいちゃんを責めるつもりはないよ。父さんだって、じいちゃんを恨んでなんかない。でも、夢幻はまだこの上社にいる。新しい器を見つけたって言ってた」
「器……。そうか、八代くんが自殺したのは、夢幻の意思なのか。であれば、夢幻は他の人間に移ったということなのか」
「だから、俺は夢幻を止める。父さんができなかったことを、俺がやる」
玄徳が口を開いて次の言葉を発しようとしたとき、本堂の扉が開いて井浦が顔を覗かせた。
「おはようございます。お邪魔でしたか?」
「そんなことはない。夜通しでご苦労なことだ」
玄弥が紗良咲を連れて帰還した後、事情を知った玄徳は井浦に連絡をした。八代が首を吊ったこと、玄弥が誘拐されて殺害されそうになったことを伝えた。
警察はいかなるときでも事件が発生すれば現場に向かう義務がある。深夜だというのに井浦は数名の捜査員を引き連れて上社にやってきた。そして、僅かに空が明るくなったこの時間まで現場検証を行なっていた。
井浦は玄徳に断りを入れてから堂内に足を踏み入れ、座布団に座った。寝不足の瞼はかろうじて開いているようだ。
「玄弥、身体はなんともないか?」
「大丈夫。ちょっと手が痛いくらい」
玄弥は包帯が巻かれた手を振って井浦に元気な姿を見せた。
「何かわかったのかね?」
玄徳の質問に井浦は姿勢を正して「単なる自殺だという見立てが強いです」とため息まじりに答えた。
それは当然だろう。八代は自殺したのだ。
彼を支配した夢幻の意思だと訴えたところで、そんなものは誰も信じてくれない。夢幻という存在を人間の法律で裁くことは到底不可能だ。
「今日中に八代の自宅を調べます。そうすれば、久馬さんの事件について何かわかるかもしれません」
八代がすべては自分がやったことだと話していた。藤城市内の連続殺人、この上社で起こった真子の誘拐未遂、そして薫の死。
すべては八代の仕業。彼が死んだから、すべてが終わった。
住人は安心し、警察も被疑者死亡で一連の事件の幕を閉じる。
しかし、玄弥は違った。夢幻がいる限り、厄災は続く。ここで断ち切らねばならない。そして、それができるのは、玄弥だけだ。
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