第十七話 狭い世界

 「体調はどう?」



 水曜日の午後、坂口とのドライブを終えた玄弥は如月家を訪ねた。昨日薫の遺体が発見されてから紗良咲は体調が優れず休養していた。


 お見舞いというほど重症ではないが、幼馴染として彼女のことは気になる。


 紗良咲の祖母である珠代が玄弥を部屋まで案内してくれた。


 何度も足を運んだこの家で紗良咲の部屋の場所は知っていたけれど、年頃の女性の部屋に勝手に入るわけにはいかない。それくらいの良識は持ち合わせている玄弥は珠代が扉を開けて紗良咲の了承を得てから部屋に入った。


 紗良咲は勉強机に向かって教科書を開いていた。学校を休んでいる分自習をして授業に遅れないようにしているのだろう。同じ環境で育った幼馴染は玄弥とまるで出来が違う。



 「これ、母さんから」



 玄弥は自宅を出るとき聡子から受け取ったゼリーや栄養ドリンクが入ったビニール袋をテーブルに置いた。



 「ありがとう。もう全然平気だよ」


 「ならよかった」



 玄弥は普段通学に使っている鞄を床に置いて、テーブルの傍に腰を下ろした。玄徳からは学校を休んだ分勉強は紗良咲に力を借りて怠らないよう言い渡されている。


 だから勉強道具を持って来たのだが、その前にやっておきたいことがある。



 「今朝、坂口さんと話してきた」


 「坂口さんは信頼して大丈夫なの? 夢幻が見えるんでしょ?」


 「あの人は八代に殺意を持ってるみたいだ。塾講師をやってた頃に教え子が殺されたらしい。連続殺人の被害者のひとりで、坂口さんはすべて八代がやったことだって確信してるみたいだった。俺と同じように夢幻……みたいなもんが見えるんだと」



 紗良咲は少し考えて勉強机に広げてあったノートと教科書をたがい違いに開いていたページがわかるように閉じて端に寄せた。椅子から離れた彼女はテーブルを挟んだ玄弥の反対側に座り、机上にあるノートパソコンを開く。



 「その被害者の名前は? いつの話?」


 「いや、そこまでは聞いてないけど。女子高生ってことしかわからない」


 「それ、井浦さんに調べてもらう方がいいかも」


 「なんで?」



 紗良咲は玄弥の思考が彼女に追いついていないことを理解した上で、自分の脳内を行き交う記憶と思考の世界を歩き回る。器用な彼女はキーボードを素早く叩きあるサイトを開いた。



 「藤城市内で起こった殺人事件のうち解決されていないもののうち、高校生の女の子が被害者なのは三件。その中のひとつが坂口さんの教え子が犠牲になったってこと。井浦さんは坂口さんについて調べてたよね」


 「ああ。傷害事件で前科があるって言ってたな」


 「なら、勤務してた塾もすぐにわかるはず。その塾に通っていた子が、坂口さんの教え子だった子。その傷害事件も気になる」


 「なんで? 坂口さんと八代に関係があるとか?」


 「それがわからないから調べるんだよ」



 仰る通り。わかっていれば調べる必要はない。


 玄弥が井浦に電話をかけると、彼はすぐに応答した。井浦と話したのはほとんどが紗良咲で、坂口の勤務していた塾と殺害された教え子を調べてほしいと伝えた。井浦は紗良咲の知能をよく知っており、捜査に関しては素人のいち女子高生の依頼をすぐに受け入れた。



 「あとは、田口先生の誘拐未遂」


 「十七年前のやつな」


 「今日田口先生から私に連絡が来るから、そのときに聞きたいことがある」


 「でもそれって、たぐっちゃんにとっては辛いことじゃない?」


 「わかってる。私も女だから、男の人に襲われることがどれだけ怖いことかは経験してなくても想像はできる。それでも、事実を知りたい」



 薫が殺害されたこと、玄弥に夢幻が見えると知ったこと、それらが紗良咲に大きな動機を与えたのか。彼女は探偵のように事件の真相を明かそうとしている。悔しいことに彼女の知能を借りなければ玄弥にそんな真似はできない。



 「紗良咲のことは俺が守るから」



 恥ずかしい台詞だと自覚している。ドラマや映画の世界のイケメンが口にする言葉。だけど、これは玄弥の本心。紗良咲の目を見て強い決意を込めたもの。


 紗良咲は少しばかり口角を上げて「知ってるよ。玄ちゃんはいつも守ってくれてるから」と返した。


 急に恥ずかしくなった玄弥は鞄から数学の問題集とノートをテーブルに出して「教えてほしい問題がある」と適当なページを開いて紗良咲に見せた。


 「ここまだ習ってないよ」と笑う紗良咲は、まだ習っていないはずのページを解説してくれた。無論、玄弥はまったく理解できずに話は進む。


 時間は進み午後五時。ふたりは適度に休憩をしながら勉強を続けた。玄弥はここ最近でこれほど机に向かったことはない。常に長時間集中し、それを定期的に行う紗良咲を尊敬する。



 「田口先生から電話だ」



 玄弥の集中力がマイナスに落ちかけたところで紗良咲はスマホの着信に気づいて通話を開始した。スピーカーモードにしたスマホをテーブルに置くと、随分久しぶりに担任教師の声を聞いたように感じられた。



 「如月さん、田口です。いろいろあって大変だったと思うけど、大丈夫?」


 「はい。平気です。ご心配をおかけしてすみません」


 「私は担任だから。心配しかできないからもどかしいけど、力になれることがあったらなんでも言って」


 「ありがとうございます」



 教師は激務だとよく耳にするが、真子は自らの仕事に誇りを持っている。業務としてではなく、ひとりの人間として複数の生徒と向き合う彼女は本当にすごい。



 「何か話があるって倉田さんから聞いたけど」



 紗良咲は事前に親友の恵に頼んだことで真子から連絡をもらったようだ。上社であったことは全国で報道されているし、恵と護は学校に来ない友人を心配してくれていることだろう。



 「こんなこと、本当は聞きたくないんですけど……」



 紗良咲はそう言って沈黙した。必要だといえど、過去を蒸し返すのは心苦しい。それも辛い過去なら尚更。



 「先生が高校生でまだ上社に住んでた頃、誘拐されそうになったことがあったんですよね?」


 「……ええ。そんなこともあったわね」



 真子の声のトーンが先程までと明らかに変わった。暗くなったと言うべきか、落ちたと言うべきか。



 「犯人はわからないまま、男の人だった可能性が高いということしかわかっていないと聞きました。何か、他に覚えていることはありませんか? どんな些細なことでもいいんです」


 「あの頃上社にいた駐在の井浦さんに話した通りよ。それ以上のことは何も。誘拐されそうになったのか、襲われたのか、それもわからない」


 「そうですか。辛いことを思い出させて本当にすみません」


 「ただ、ひとつだけ」


 「何か?」


 「あの後、誘拐されそうになったときのことを詳しく聞いてきた人がいたの」



 当時上社にいた駐在の井浦以外にこの事件で真子と接触した警察官はいないはず。捜査は行われたが、まだ未成年だった真子への聴取はすべてお互いを知る井浦が担当したと聞いた。


 この平和な上社で他に事件に興味を持つ人間などいなかった。



 「それは、誰ですか?」


 「宮司淳さん。宮司くんのお父さんよ」



 黙って話を聞いていた玄弥は思いもよらない展開に脳天を撃ち抜かれたような衝撃に襲われた。

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