夢幻
第十六話 見えるもの
水曜日の早朝、玄弥は寝ようとしても悪夢にうなされ、ほとんど眠れずにいた。それもこれまで見ていた父の最期とは違い、薫の最期だった。場所は父が殺害された場所と同じで、黒い人の形をした夢幻が薫を痛めつけて地面に埋める。
父が殺害された事件もいまだに解決されておらず、この上社で起こった十七年前の出来事は人々の記憶から薄れつつある。
まだ物心のついていなかった幼い玄弥は成長してからその話を聞いたが、玄徳は一貫して父を殺害したのは夢幻だと言い続けた。そんなはずがないことはわかっていても、今も父の命を奪った何者かがどこかで生きていると思うと
今回の薫の事件を同じように風化させることは許されない。玄弥にできることは限られていても、絶対に犯人を見つけ出して罪を償わせたい。
昨日の紗良咲の様子だと玄弥と同じくあまり眠れていないはずだ。彼女は体調が悪かったようで、今日も学校は欠席することにした。繊細な紗良咲は精神的なことから体調に影響を受けることがこれまでも何度かあった。
玄弥もこの件が片付くまで登校する気はない。学校の関係者も報道を見て上社で薫の遺体が発見されたことは知っているだろうし、校内にふたりだけの上社から通う生徒が安全のために欠席することは理解してくれる。
紗良咲には家から出ずに安静にしておくように伝えた。だが、玄弥にはすることがある。ほとんど休息はないが、それでも脳は覚醒している。アドレナリンが過剰に分泌されている気分だ。
午前九時、玄弥は私服に着替えて家を出た。学校を休むことを伝えると、玄徳と聡子は納得してくれた。本来であれば自宅で勉強でもしているべきなのだろうが、昨日の約束を果たさなければならない。
玄弥が向かった先は、敵か味方かが判明していない人物の家。警戒はしておくべきだが、先に進むためには彼が何者かを明白にしておく必要がある。
その家に到着すると、彼は玄関先で玄弥を待っていた。昨日井浦と共に薫の遺体を見た彼は、平気なのだろうか。大人であっても一般人が殺害された遺体を掘り起こすことはまずない。玄弥の疑問をよそに、彼は涼しい顔をしている。
「場所を移そう」
坂口は赤色のトヨタカムリの運転席に乗り込むと、玄弥は助手席の扉を開けた。どこに連れて行かれるかわからない不安はあるが、無駄に歯向かって刺激することは避けるべきだろう。
「どこに行くんですか?」
「特に目的はない。ドライブでもしながら話そうと思ったんだ。君はもう気づいているんだろう? 今回の事件の犯人は八代だと」
あまりにも軽い雑談のように話す坂口に、言葉では表せない気持ち悪さがあった。彼はエンジンをかけるとギアをドライブに入れた。
カムリは玄弥と紗良咲が毎日利用するバス停を通り過ぎ、上社から出て藤城市街に向かう。バスからの景色はいつも横の姿しか見せないが、フロントガラスから見える前方の景色はまるで別の場所にいるようだった。
この空間は運転手である坂口が支配している。そのリスクを受け入れてでも、この機会に彼に聞いておきたいことがあった。
「坂口さんは何者なんですか? どうして上社に来たんですか?」
「俺はただの会社員で、上社に来たのは長閑な田舎で暮らしてみたかったから」
「なら、どうして八代が犯人だと言い切れるんですか?」
「俺には玄弥くんが見ているものと同じ……なのかはわからないが、それに近いものが見える。この地域なら、それは夢幻として知られているんだったかな」
坂口にも夢幻が見えている。思い返せば、昨日裏山で玄弥が薫の姿を見つけたのは、坂口の不自然な視線がきっかけだった。坂口にも薫の姿が見えていたというのか。
「昨日も薫さんが見えていたんですか?」
「そこまではっきりとは見えていなかった。でも、誰かがいるのはわかった。どうやら君は俺より鮮明に見えているようだな」
「どうして俺が見えるって気づいたんですか?」
「うーん、なかなか質問が多いな。初めて君と会ったとき、紗良咲さんとふたりで俺の家に来たとき、君は俺に夢幻を見たはずだ。表情でわかった。あのときの俺は、殺意を持っていたと思う」
殺意という言葉に玄弥は呼吸が止まりそうになった。このまま誰もいない場所に連れて行かれて殺されてしまうのではないかと考えてしまった。
だから、玄弥は恐る恐る訊ねた。
「それは、誰に向けての殺意を?」
「八代だ」
「八代?」
「俺は今教育関係の企業で営業職をしている。商談はリモートで行うことが多いからどこに住んでいても仕事はできる。その前は塾講師をしていた。ある高校生の女の子が勉強で悩んでいて、相談に乗っていたんだ。ものすごく努力家で、ようやく志望校を狙えるところまで学力を上げた」
ある高校生の話を始めた坂口がハンドルを握るに力を込めたように見えた。そして、彼の身体からわずかに黒い煙のようなものが湧き上がってきた。彼は今、殺意を持っているということなのか。
「もうすぐ受験という大切な時期に、彼女は亡くなった。藤城市内で連続で起こった殺人事件の被害者のひとりになってしまった。許せなかった。その生徒とは講師と生徒の関係以上のものはなかったが、それまでの努力を見てきた俺には、命だけじゃなくすべてを奪った犯人が許せなかった」
「それで調べたんですか? ひとりで」
「俺は警察じゃない。捜査なんてできないし、何より殺された生徒とは特別深い仲でもなかった。現実は厳しいが、時間が経つと負の感情もだんだん薄れていった」
そんなものだ。所詮人との関係なんて特別深いものでなければ時間と共に記憶も繋がりも薄れて消えていく。そしてまた新しい出会いをして常に交友関係は変わる。坂口の言っていることはまだ高校生の玄弥にだって理解できた。
「あるとき用があって藤城市役所に行ったとき、ふと目に入った八代が異様な姿に見えた。昔から霊感に近いものはあったから見えることに対して驚きはしなかった。ただ、それが生きている人に、あれだけの数を見たことがなかった。だから俺は八代を追って上社に来た。まさかこんなに早く犯行に出るとは思っていなかった」
坂口は目を細めて一瞬だけ俯いた。すぐに視線は前方に戻ったが、薫が犠牲になったことを後悔しているのだろう。だから、彼女の遺体と向き合う覚悟で井浦とあの場所に残った。
坂口に見えるものと玄弥に見えるものが同じかは比べようがないものの、彼の話からすると共通点があることは違いない。玄弥にとって、八代に見えたあの黒い人のような流体は実におぞましいものだった。
話している間にカムリは市街地に入り、藤城高校の付近までやってきた。いつもは長時間をかけて通う道のりを、車はなんと便利なことか、時間があっという間に感じた。
「紗良咲さんは君が守るんだ」
「え?」
「八代は若い女性ばかりを狙っている。上社にいる若い女性は紗良咲さんと支所にいる乃愛さんだけだ。乃愛さんは俺が目を光らせておくが、八代にとって乃愛さんを狙うことはリスクが高い。同じ職場の人間に手を出せば警察から目をつけられやすい。だとすれば、紗良咲さんの方が危険な状況にある」
会話を終えてカムリは来た道を引き返す。上社の空は、今にも雨を降らせそうな真っ黒な雲に覆われていた。
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