第十二話 如月家

 月曜日、下校中の玄弥と紗良咲はいつもより口数が少なかった。上社のバス停に到着して自宅への道を進むふたり。すでに日は暮れて辺りは暗いが、幼い頃から毎日通ったこの道は目が見えなくても踏み外すことはない。


 真子が十七年前に誘拐されそうになった事実を知って、元気に教壇に立つ彼女を見ていると無性に悲しくなった。


 玄弥は昨日家族と紗良咲と井浦、五人での食卓の後、数学の宿題のことを完全に忘れてしまった。本日までだった宿題は結局提出できず、真子から注意を受けた。説教をしている彼女の顔をまともに見ることもできなかった。


 「体調でも悪いの?」と心配される羽目になったが、玄弥は適当に誤魔化して真子との時間をやり過ごした。


 上社で起こった誘拐未遂事件、その後まもなくして何者かに殺害された父。ふたつの事件は関連があるかもしれない。警察が捜査をしてもそのふたつの事件は未解決のままだが、今日まで上社は平和を保ってきた。


 そして、時間が経過して今回の薫が失踪した件。十七年という月日はそれらが関係していると思わせるには、あまりに長すぎる年月だ。


 真子に当時のことを訊きたい衝動に駆られたが、彼女にとってそれは思い出しくない負の記憶。幸福を掴んだ真子に対しての仕打ちとしては残酷なものだ。玄弥は直接彼女に訊ねることは避けた。


 なんとか話題を提供しようと歩きながら紗良咲は口を開いた。



 「今日、うちで八代さんの歓迎会やるみたい」


 「そうか」


 「寄っていく?」


 「今日はいい。そんな気分でもないし」


 「そうだよね」



 やっと絞り出した紗良咲の努力も簡単に終わりを告げた。普段なら紗良咲を気遣って玄弥がいろいろと話をするのだが、どうしてもそれだけの元気が湧かない。


 無言のまま歩き続けると、後ろの方からヘッドライトが背中を照らした。白く眩しいライトに振り返ると、それは道路の端に寄ったふたりのそばで止まった。



 「今帰り?」



 赤いトヨタカムリを運転するのは坂口。彼は穏やかな口調と表情で窓を開けてふたりに話しかけた。本当に彼が危険な人物なのかはわからないが、警戒をしておくに越したことはない。



 「はい」


 「乗って……は行かないよな。気をつけて」


 「ありがとうございます」



 坂口は窓を閉めるとゆっくりとアクセルを踏んで自宅の方向へと走り去った。赤色のテールランプは小さくなって、見えなくなった。


 暗かったが、彼に夢幻の姿は見えなかった。夢幻を見たときに必ず聞こえる悲鳴のような雑音も聞こえず、彼の家を訪ねたときに見て以来、彼には何も感じない。


 気のせいだったのだろうか。確かに見たはずなのに。先入観が見せた幻だったのなら、それでいい。あれだけ人の良さそうな坂口が悪人だったなんて知れば、今ではむしろ驚愕する。過去に傷害事件を起こしたという事実は消えないが、その背景を何も知らないで彼が一方的に悪いと決めつけることはできない。


 ふたりは暗闇の中を歩く。気分が落ち込んでいるせいかいつも見ているはずの光景の中に普段と違う何者かが紛れ込んでいるような錯覚に襲われた。


 非日常に感じさせる道のりも如月家が見えてからはやはりいつもと違うことなどないと玄弥を現実に引き戻した。むしろその方が有難い。


 なのに……。



 ぎゃあああぁぁぁ!



 突然玄弥の耳に届いた悲鳴は暗闇の中で木霊した。あの日上空に見た黒い渦は玄弥と紗良咲を囲むようにふたりの周りをぐるぐると回り、そのまま飲み込まれてどこかに連れ去られそうなほどに素早く回転する。



 「紗良咲!」



 玄弥は反射的に紗良咲の肩を抱いて彼女の身体を引き寄せた。突然のことに紗良咲は「どうしたの?」と驚いているようだが、玄弥はそれどころではなかった。


 嫌な感覚は如月家の中から発せられ、それが今玄弥と紗良咲に襲いかかっている。家の中では八代の歓迎会が開かれていて、市長の清正をはじめ支所の職員や上社の住人が十名以上集まっているはずだ。


 玄弥は一刻も早くこの場所から逃れようと紗良咲の手を引いて結玄寺の方向に走り出した。後ろは振り返らず、追ってくるかもしれない得体の知れない何かから逃げる。


 如月家から離れて結玄寺の前まで来ると、悲鳴が聞こえることはなく黒い渦もどこかに消えていた。夢幻を封じるために建立されたこの寺は強い力があると聞かされて育ったが、どうやらそれは本当みたいだ。


 立ち止まって俯いたまま大きく深呼吸をする玄弥を紗良咲は下から覗き込んだ。



 「玄ちゃん、急にどうしたの? 大丈夫?」



 どう言い訳したらいい? 紗良咲を怖がらせないためにどう説明する?


 玄弥の脳が全力で稼働するも妙案は出てこない。なんでもない、と言うにはあまりに動揺しすぎた。


 そのとき、玄弥のスマホに着信があった。



 「ごめん、電話だ」



 このタイミングでの電話は助かる。不思議そうに玄弥を見る紗良咲に断りを入れてから、彼は電話に出た。


 その相手が誰かは見ることなく耳を傾けると、井浦の声がした。



 「久馬さんの目撃証言が出た」



 その言葉に心臓が握られたように苦しくなった玄弥は「それで?」と訊ねた。



 「上社支所の富永乃愛さんからの情報だが」


 「どこで見たって言ってた?」



 乃愛は上社支所に今年着任した二十歳の新人職員だ。地域振興課の彼女は上社を盛り上げるための企画を任されていると聞く。


 しかし、見たかはどうでもいい。重要なのは見たのか、だ。薫はまだ生きてどこかにいる。その事実が今すぐでも行動に出たいと玄弥を突き動かした。



 「結玄寺の裏山に続く道だ」


 「それって……」


 「昨日玄弥も言ってたよな。あの場所に誰かいるって。お前が見たのも彼女だったんじゃないのか」


 「だとしたら、なんで帰って来ないんだよ? 裏山なんてうちからすぐそこだろ」


 「さあな、とにかくまた明日警察の捜索が入る。一度は探したんだがな。結果はまた報告する」



 そこで通話は終了した。


 玄弥は紗良咲に井浦から聞いた話を伝えた。捜査が進展したことに喜びを見せる玄弥だが、対照的に紗良咲は不安そうだった。



 「おかしいよね。こんなに近くにいるのに隠れてるなんて。それに、警察だって裏山は最初に捜索してたのに」



 警察の捜索は結玄寺付近から始まった。すでに裏山は捜索済み。それは玄弥も知っていたが、上社は自然が豊かゆえに山の中は広い。探しきれていない場所はあるかもしれない。



 「とりあえず、明日井浦さんに結果は聞く」


 「それより、もう大丈夫なの? すごく辛そうだったけど。前も同じようなことあったし、病院で診てもらった方がいいんじゃない?」


 「別に体調が悪いわけじゃない。ただちょっと……」


 「ちょっと、なんなの?」



 そうだ、前回も今回も同じ場所であの光景を見た。


 まさか如月家に何かあるのいうのか。


 紗良咲の問いかけも耳に届かず、玄弥は走って来た暗闇の先を見つめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る