第十一話 過去の事件
山道を駆け下りて結玄寺が見えてきた。
玄弥は速度を落とさずに全力で自宅の庭先まで走り抜けた。すでに暗闇の中の上社だが、幸い目的の人はすぐに見つかった。そこにいたのは紗良咲と坂口、ふたりの距離は近く、何か話しているようだ。
「紗良咲!」
「あ、玄ちゃん」
「大丈夫か?」
玄弥は向かい合う坂口と紗良咲のの間に身体を滑り込ませて彼女に怪我がないことを確認した。何かされたわけではないらしい。
「電話してたら坂口さんが後ろにいたから驚いちゃって。ごめんね」
「無事ならいい」
本当に心臓が止まるかと思った。こんなときだからこそ、紗良咲の身に何かあったのではないかと余計な想像が膨らんで焦ってしまった。
「驚かせて申し訳ない。そんなつもりではなかったんだ」
「こちらこそ、すみません。すぐ近くに来られるまで気づかなくて」
紗良咲は坂口に頭を下げて謝罪した。
今ここにいる坂口には、夢幻が見えない。昨日彼の家で見たような黒いものはなく、他の人たちとなんら変わらず穏やかな善人に見える。
ようやく井浦が息を切らして庭まで到着した。呼吸が苦しそうで「大丈夫か?」と肩を大きく上下させながらこちらを見る。
「大丈夫、なんでもなかった」
玄弥の言葉に大きくため息をついたように見える井浦だったが、それがため息なのか、荒くなった呼吸のせいなのかはわからない。
「刑事さん。彼らとお知り合いだったんですか?」
「ええ……まあ、昔上社の駐在だったもんでこの子らが小さい頃から知ってるんですよ」
「そういうことですか」
「坂口さんはここで何を?」
井浦の目が鋭く坂口を突き刺す。玄弥といるときの温和な雰囲気は消え、危険な人物と対峙する刑事の雰囲気を纏っている。かつてこの場所で誰に対しても優しく温和だった井浦とはまた異なる顔、そしてそれは、刑事として求められる素養だ。
「散歩ですよ。引っ越してきたばかりでまだまだ知らないことが多いので、休みの日は運動がてら、ね」
「それにしてもこんな夕方の暗い時間だと景色もよく見えないでしょう」
「確かに。もう少し早い時間にすればよかったと後悔しています。他の用事をしていると思いの外時間が経つのは早いものですね。では、そろそろ帰ります」
坂口がお辞儀をして去って行く背中を井浦は眉間に皺を寄せて見つめた。玄弥の話を信じて彼を疑っているようだ。
あんな話を信じてくれる人はおそらく井浦ひとりだけ。紗良咲もきっと玄弥のことは信じてくれるが、怖がりの彼女にそんな話を聞かせるわけにいかない。
「紗良咲ちゃん、本当に何もなかったんだよな? 何か気になることとか」
「暗かったから坂口さんを見て驚いただけ。心配かけてごめんなさい」
「いや、無事ならいいんだ」
紗良咲は玄弥に数学の宿題を教えるために来たのだが、聡子の提案で井浦と紗良咲は夕食を共にすることになった。上社の住人は古くから住んでいる人がほとんどで、井浦のことを知る人は多い。この辺りならどこに行っても井浦は慕われいて、捜査で話を聞く際も捗ったと言う。
玄弥、紗良咲、井浦、聡子と玄徳の五人で食卓を囲む。数日前までこの場には薫がいて、一緒に話をしながら団欒を楽しんだ。その彼女の行方がわからなくなってから四日が経過した。
結玄寺には本日薫の両親が訪ねて来て玄徳が対応していた。警察の捜査は続いているが、有力な情報は得られないまま時間が過ぎていく。
玄弥たちは明日から新たな一週間を過ごすことになるが、薫にとってそんな日常は大きく変わった。
玄徳は取材や捜査への協力などで疲れているようだった。そんな父を手伝う聡子も元気がない。暗い空気の中、玄徳が何かを思い出したようだ。
「そういえば、昔も一回こんなことがあったな。玄弥が生まれた頃だったから、もう十七年前か」
「ああ、誘拐未遂事件がありましたね。未遂に終わって、結局犯人はわからないままでしたが」
玄徳の言葉で当時駐在だった井浦も記憶が蘇ったらしい。
上社で誘拐未遂などという物騒なことがあったとは初耳だ。玄弥や紗良咲が生まれた頃の事件だから彼らが覚えていないのは当然だが、そんなことがあったと話を聞いたことすらなかった。十七年も前の話だと今回の件とは関わりがないだろう。
「誰が誘拐されたの?」
玄弥の質問に玄徳はため息をついて「未遂だと言っておるだろう」と孫の理解力の乏しさに落胆した。
「そんな細かいことはいいだろ。誰が誘拐されそうになったんだよ?」
「真子ちゃんよ。玄弥の担任の」
「え、たぐっちゃん?」
担任教師を愛称で呼んだことを玄徳は叱責しているが、そんなことは気にならず、玄弥と紗良咲はお互いの顔を見合った。
聡子は玄弥を出産したばかりの頃で、その事件をよく覚えていると言う。そして、夫の淳が亡くなったのも同じ頃だった。
その事件の被害者は当時高校生だった、現在は玄弥と紗良咲の担任教師である田口真子。
紗良咲は学校での真子の様子が気になっていた。彼女は行方不明の薫と面識がないが、とても心配している様子だった。上社に住んでいたことが原因かと考えていたが、真子自身が被害に遭いそうだった経験があったことで薫を自身と重ねたのかもしれない。
「藤城高校からの下校中に背後から襲われたんだ。抵抗してなんとか逃れたが、犯人の姿は見ていないと。身体の大きさや力の強さからおそらく男だったと話してたが、それも確証はない。上社に住む誰かだったのか、外部から来た何者かだったのか。何もわからなかった。そうか、あの子は教師になったんだったな」
真子は教師として働き、結婚して家庭を持った。過去のトラウマに苦しめられて人生を狂わされる被害者はたくさんいるが、真子の現状を知った井浦はどこか安堵した様子だった。
聡子はそういえば紗良咲に聞きたいことがあったと問いかけた。
「紗良咲ちゃん。上社支所に異動して来る人がいるって聞いたけど、その人って
「そうです。十五年前まで上社に住んでいたそうで」
「おお、八代くんか。懐かしいな。淳くんと仲がよかったんじゃないか」
「うん。たまに一緒にお酒飲んだりしてた」
その八代という人のことを玄弥は知らない。十五年前であれば玄弥はまだ二歳、ほとんど記憶がない頃だ。父の淳と仲がよかった人なら、一度会って話を聞いてみたいものだ。
玄弥は紗良咲に訊ねた。
「いつこっちに来んの?」
「今日引っ越して来たはずだよ。住む家はおじいちゃんが準備してたから、事前に見に来てたらしいけど。明日から上社支所に出勤だって」
「そうなんだ。父さんの話、聞いてみたいな」
そう話した玄弥を見て、玄徳と聡子は切ない顔を見せた。父の記憶がまったくない息子を不憫に思っているのだろうか。
この歳になると父親がいないからと人生に何か大きい影響があることはない。だけど、自分が血を受け継いだ人がどんな人物だったのか、それは知りたい。
玄弥はお茶碗を左手に持つとご飯を口に掻き込んだ。
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