第十話 尋人

 日曜日の夕方、玄弥は自室にいた。まだ外は明るいが、あと一時間もすれば上社は薄暗くなり、街灯が少ない分その暗さは急速にこの郷へと影を落とす。


 土日の休みはあっという間に時間が経過して明日からまた新たな一週間が始まる。紗良咲との約束はこの状況では果たせそうにないし、玄弥にできることは何もなかった。


 昨日坂口と話したときに見た彼を取り巻く黒い渦は夢幻だったのだろうか。もしそうだったとして、坂口が薫に危害を加えていたとしたら。警察が動いてくれるはずだ。


 紗良咲は市長である清正に話をしてくれたらしいから、何かがわかるのも時間の問題だろう。


 そういえば、明日までの数学の宿題があった。前回宿題をして行ったことで担任の真子からは次回も継続するようにと期待されている。あまり気は進まないが、通学用の鞄から数学の問題集を引っ張り出して課題になっているページを開いた。



 「全然わかんねえや」



 意欲はあるものの頭脳が追いついてこない。仕方なく玄弥は紗良咲にチャットを送って解き方を教えてもらうことにした。彼女はすぐに既読をつけて、「ちゃんと宿題やって偉いね」と返事が来た。



 「子供扱いかよ」



 これは普段から宿題をしてこなかった玄弥が悪いのだが、男として見られていないように感じられて不快だった。紗良咲はすぐに「解説打つの大変だから電話で」と続けてチャットを送ってきた。


 玄弥も直接話す方が早いと判断してチャットを閉じると、履歴の一番上にあった紗良咲の名前をタップしようとした。しかし、インターホンの音で指が止まった。


 誰かが来ても聡子がリビングにいるから対応するはず。その予想通り母が廊下を歩く男がして、玄関から男性の声がした。



 「玄弥、ちょっといい?」



 聡子は玄関から玄弥の部屋に向かって話しかける。玄弥に来客が来ることは基本的になくあるとしたら紗良咲くらいのものだが、どうにも彼女ではない。


 玄弥は自室の障子を開けて顔を覗かせて母に返事をした。



 「どうしたの?」


 「井浦さんよ」



 玄弥は慌てて部屋を出て玄関に向かった。普段滅多に会うことがない井浦が訪ねて来た。刑事である彼が来たということは、何かわかったのかもしれない。


 玄弥が玄関先に現れると、井浦は右手を挙げた。



 「よう。ちょっとだけ話せるか?」



 井浦は右手の親指を立てて拳を握ると、背中の方向を指した。家を離れてふたりで話したいことがあるみたいだ。


 玄弥は聡子に少しだけ出て来ると伝えて靴を履くと、井浦と共に玄関を出て庭を抜け、学校に向かう道とは反対へと歩き出した。上社の奥にある結玄寺は、その方向に進むと民家は一軒もなく人が通ることはない。郷を離れて山の中へと続く道があるだけだ。


 他に誰もいない場所まで来たふたりは、話を始める。



 「どうしたの? 俺に話って」


 「紗良咲ちゃんとはうまくいってんのか?」


 「は?」


 「小さい頃からずっと一緒だったろ。付き合ってんのかと思ってよ」



 玄弥はため息をついて歩みを止めた。そんなことをわざわざ聞きに来たのか。確かに聡子の前ではできない話ではあるが、刑事としてではなく昔からの馴染みとして会いに来ただけなのか。



 「付き合ってない。ってか、わざわざそんな話で来たの?」


 「玄弥が十歳の頃に上社を離れてあまり会えなくなったから、その後が気になってよ。ただ、今日は刑事としてここに来た」


 「なんかわかったの?」



 井浦は玄弥の父が死亡した事件に関わった。十七年前、今ふたりが立っている場所からもう少し山の中へと進んだ場所で彼の遺体が発見された。遺体を発見したのは当時交番勤務だった井浦だ。それを知っている玄弥は父が夢幻に殺害される夢を見るようになった。



 「市長から移住してきた坂口について調べてほしいと連絡が入って話を聞いて来たんだ。んで、坂口から玄弥が昨日来たって聞いたんで、何か知ってるんじゃないかと思ってよ。市長を動かしたのもお前なんだろ? 紗良咲ちゃんならお前の頼みはすぐに聞くだろうし」


 「信じてもらえるかわからないけど」


 「ガキの頃からの付き合いだろ。どんな話でも信じてやるよ」



 井浦は昔からそうだった。父の記憶がない玄弥にまるで父の代わりのように接してくれて、彼が上社にいたから今日の玄弥がある。



 「坂口さんには、夢幻が取り憑いてる」


 「……夢幻ってあれか? 言い伝えにある災厄の悪魔ってやつの」


 「俺には見えるんだ。まあ、最近初めて見たんだけど」


 「そうきたか。信じるとは言ったが、なかなか予想外の角度だな」



 井浦の反応はすでに想定していた。どれだけ信頼している相手だとしても、非科学的であり非現実的である話をすぐに受け入れることはできない。



 「坂口には傷害の前科がある。若い頃はなかなかの悪だったみたいだ。あいつは普通の人間とはちょっとだけ違う。外面はいいが、裏に何か隠してる。俺はそんな印象を持った。刑事としてのただの勘だ」


 「やっぱりあの人が薫さんを……。すぐに調べられないの? あの人の家を捜索するとか」


 「確証がない。俺のただの勘と、夢幻が見えたというだけじゃ礼状請求は通らない」


 「そっか。そりゃそうだよな」



 そのとき、玄弥は山の方向に違和感を覚えた。ある一点を見つめていると、そこに人が立っているようだ。誰かはわからない。距離があるので大人なのか子供なのか、性別も判断できないが、それは確かに人の形をしている。



 「井浦さん、あそこに誰かいる」


 「ん? 誰も見えんが」



 井浦は目を凝らして玄弥が指す場所を注視するも、彼が言っているような人は見えない。歳のせいで視力が落ちていることが原因かもしれない。



 「あれ、いなくなった。確かに見えた……気がしたんだけど」


 「疲れてんだろ。あんまり思い悩むな。久馬さんのことは俺たちに任せて、お前は自分の人生を歩め」



 なんだったんだ。ただ疲れていたから幻覚が見えた? そんなものではなかった。夢幻を見たときと同じような、甲高い叫び声が聞こえてきた感覚だった。実際に聞こえたのかはわからないが、脳裏にこびりついた恐ろしい悲鳴が再生される。


 玄弥は突然着信音を叫ぶスマホに驚いて、それを地面に落としてしまった。表示された名前は紗良咲で、そのときになって電話をしようとしていたことを思い出した。



 「もしもし」


 「玄ちゃん、何かあった? 既読のままでこっちから電話もしたけど、出なかったから心配で」


 「ごめん。井浦さんが来て話してた」


 「井浦さん来てるの? 私も会いたいな。今家?」


 「いや、外」


 「どこにいるの? 今玄ちゃんの家まで来たんだけど……きゃあっ!」


 「どうした? 紗良咲! 返事しろ!」



 紗良咲の悲鳴で通話は終わった。


 玄弥は慌てて来た道を引き返し、山道を駆け下りる。井浦は「どうした!」と叫びながら後ろを走って追って来るも、若い玄弥の脚の回転には到底及ばず、ふたりの距離はみるみる離れた。


 紗良咲、無事でいてくれ。

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