第九話 渦の声
午前十時、玄弥は上社の緑を抜けて目的の家へと歩みを進めた。山を見ればそろそろ紅葉の時期だが、まだまだ気温は下がりそうにない。季節は秋に違いないものの、ここ数年は残暑の期間が非常に長く感じられるようになった。
結玄寺から徒歩で五分ほどの場所にある一軒家は、周辺の集落からは少し外れた場所にある。長い間空き家だったことで気に留めたことはなかったが、その家に新たな住民が入居した。
名前は坂口
このような田舎に住みたいという人が最近増えていると聞く。ずっとこの土地で育った玄弥は上社という場所を気に入っているとはいえ、やはり市街に比べると生活の制限は多い。大人になって車を持っていれば、また考え方は変わるのだろうか。
玄弥は彼が移住してきた日にバス停前を通りかかった坂口の車を見ただけで彼の顔は覚えていない。まだ早朝だったのに、あんな時間に引越をする人は珍しいのではないだろうか。玄弥自身は引越したことがないからその事情はわからない。
昨日玄弥が学校にいる時間に坂口が結玄寺まで挨拶に来たそうだ。聡子の話では爽やかな好青年で礼儀正しく、上社の家に一軒ずつ回って挨拶をしているらしい。すでに彼と顔を合わせた住民はこぞっていい人が来たと彼の評判はいい。
だが、それが表向きの顔だったら。
聡子には散歩に出るとだけ言って家を出てきた。坂口に会うことは井浦も知らない。紗良咲は今頃自宅にいるはずだ。彼女を危険に巻き込むことは避けなければならない。
玄弥は件の一軒家に到着した。駐車場、ただの空き地にはあの日見た赤色のセダンが停まっている。タイヤには泥がついていて、こんな田舎で高級車を所有すると洗車が大変そうだ。坂口は在宅らしい。
玄関先のインターホンを鳴らそうとした玄弥の指の動きが止まった。背後に何かの気配を感じ、振り返った先に紗良咲がいた。休日の彼女は清廉な容姿によく似合う服装をしている。だが、その表情は裏腹に穏やかではなかった。
不服そうに玄弥を睨むその瞳に怖さはないが、彼女の怒りはよく伝わる。
「なんでここに?」
「それはこっちの台詞だよ。警察に任せるって言ったよね?」
「いや、それはその……。ちょっと気が変わったというか」
「どうしてもって言うなら私も一緒に連れて行って。私なら見たものは全部覚えられる。何かの役に立つかもよ?」
こうなったら誤魔化しようがない。この状況を一旦乗り越えたとしても、紗良咲は頭脳明晰、厄介なことに玄弥の性格や行動は誰よりもよく知っている。下手な駆け引きは無意味だ。
ふと紗良咲はカムリを見て、「あれ?」と言った。
「どうした?」
「いや、ちょっと汚れが気になって」
「田舎だからな。泥が跳ねるんだろ」
「うーん、まあいいや」
何かが気になる紗良咲だったが、玄弥は話を聞くためにインターホンを押したのでそちらに集中した。すぐに扉が開いて青年が顔を覗かせ、玄弥と紗良咲を見て「ああ、君たちか」と言った。
「朝からすみません。祖父から挨拶に行くように言われまして。結玄寺の……」
「和尚さんから話は聞いてるよ。お孫さんの宮司玄弥くん。で、そちらは如月市長のお孫さんで彼女さんの紗良咲さん」
「彼女ではないですけど、如月紗良咲です」
否定した紗良咲に坂口は笑って「これは失礼」と頭を下げた。第一印象は決して悪人とは感じられない好青年。しかしながら、悪い人間ほど外側を繕うのは上手い。油断して不意打ちされることはないように警戒しておく必要がある。
「で、何か用かな?」
どういう口実で来たのか頭が真っ白になった玄弥に助け舟を出すのは紗良咲の務め。彼女は笑顔で坂口の質問に答えた。
「大したことではないんですけど、ご挨拶に伺いました。田舎なもので住民同士の繋がりが強いんです。移住してきた方とも良好な関係を築けるようにと祖父から言われまして」
「それはご丁寧に。家に入ってお茶でも出せたらいいんだけど、荷物がまだ片付いてないからごめんね」
「いえ、お気遣いなく。今日は挨拶だけできれば、と思っただけですので」
「まあまあ、もう少しお話をしよう。君たちだって手土産なしでは帰れないだろ? 行方不明の女の子のことを聞きに来たんじゃないのか?」
核心をついた坂口の言葉に玄弥は身構えた。彼の雰囲気がこれまでの柔らかいものから固く尖った鋭い刃物に変わったからだ。
「そう構えないで。俺も心配なんだよ。もし誘拐でもされていたら、今頃怖い思いをしてるだろうし」
扉を半開きしていた坂口が完全にそれを開いて彼の身体を外に出す。
玄弥は初めて見た悍ましいそれに瞳孔が開いた。坂口の身体を取り巻くように黒い渦が舞う。それは人が両腕を巻き付けるように彼の身体を包んで、複数人が叫んでいるような不快な音が玄弥の耳を襲う。煙のような細かい線が連なって玄弥を威嚇するようにこちらに手を伸ばしてくる。パーツが判別できない顔がこちらを嘲笑っているかのようだ。
これが夢幻なのか?
だとしたら、この男は……。
「この後用があるので失礼します。話せてよかったです」
「いや、こちらこそ話せてよかったよ。今後ともよろしく」
玄弥は紗良咲を守ろうと無意識に背中で彼女の身体を押して坂口から距離を取った。坂口が扉を閉めると玄弥を襲った不快な音は消え去った。
玄弥は紗良咲の手を握って慌てて坂口の家から離れ、もし彼が覗いていたとしてもふたりの姿が確認できない距離まで離れた。
「玄ちゃん、何かあった?」
「なんでもない。けど、あの人は危険だと思う。近づかないようにしよう」
「そう? いい人そうだったけど」
「とにかく近づくな。いいな?」
「そこまで言うなら、わかった」
静かに、尚且つ真剣に話す玄弥は珍しく、だからこそ紗良咲は彼がふざけているわけではないと判断した。
坂口の身体に取り憑いたあれは、上社の空に渦巻いていたものと同じだった。
災いの前兆として現れる夢幻。かつて結玄和尚がこの地に封じたと言い伝えられる厄災の悪魔。
この上社で何かが起こっている。
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