第六話 嵐の前の
「田口先生今日喜んでたね」
「あれだろ、普段悪い不良が優しさを見せるとギャップで褒められるやつ」
そう、普段宿題をして来ない玄弥が宿題をしてきたことでギャップが生まれた。だから、今日はたぐっちゃんはいつもよりご機嫌だったし、授業中に玄弥を指名することはなかった。
「それが当たり前になってほしいんでしょ」
「当たり前になったらギャップがなくなるだろ」
「そもそもギャップを求めるわけじゃないから」
紗良咲は常に正論で玄弥をねじ伏せる。頭がいい幼馴染を持つと口喧嘩で勝ち目がないから大変だ。優しい紗良咲がそこまで玄弥を言葉で殴ることはないけれど、常々の言葉に重みがある。
学校を終えてバス停に到着した玄弥と紗良咲はまたいつもの道を歩む。休憩時間は恵と護と四人で適当な話をして時間を過ごし、毎日が同じことの繰り返し。でも、そのひとつひとつがまったく同じということではなく、無数に思い出が増えていく。それが学校生活というもの。
「玄ちゃん、ちょっとだけ家に行っていい?」
「なんで?」
「いや、最近元徳さんと聡子さんに会ってないし、たまには顔を見せたいなって」
「別にいいけど、ちゃんと清正さんに伝えとけよ。心配しすぎて倒れるぞ」
「わかってる」
歩きながら紗良咲は清正に電話をかけた。もちろんすでに暗いので、彼女が帰宅するときには玄弥が自宅まで送ることになる。それはすでに暗黙の了解で今更確認することでもない。
通話を終え、紗良咲は祖父の了承を得たとスマホを鞄に入れた。結局結玄寺まで行くには如月家の前を通る必要があるので一度は帰宅するようなものなのだが、その日は家の前を素通りして結玄寺に向かった。
結玄寺の門が目に入ったとき、玄弥は背中に迫るような気持ち悪い気配を感じて振り返った。突然立ち止まった彼を紗良咲は不思議そうに見る。
「どうしたの?」
「いや、気のせいか」
「やめてよ、怖いから」
「ごめん、なんでもない」
紗良咲にこんな悪戯を仕掛けることは二度としないと誓ったことを彼女も知っているので、玄弥がこの反応を見せたことは怖かっただろう。冗談だと誤魔化してもそれは男の約束を破ったことになる。
玄弥は庭を通って自宅の玄関を開けた。そのすぐ後ろには紗良咲がおり、玄弥は彼女を先に通してその後に入った。
「ただいま」
「お邪魔します」
紗良咲の声が廊下の奥に届くと、すぐに聡子が玄関まで滑って来た。紗良咲は言うまでもなく美人で礼儀正しく育ちのいい少女。玄徳も聡子も紗良咲のことを気に入っている。
「紗良咲ちゃん、久しぶりね」
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
「ええ、紗良咲ちゃんはもっと美人になって、我が息子ながら玄弥と一緒にいても似合わないわね」
「そんなことないですよ。いつも頼りにしてます」
玄徳も聡子も冗談で紗良咲に玄弥は勿体ないと笑うが、彼女に片想いをしている玄弥にとって、それは内心気持ちのいいものではなかった。だが、そんなことで毎回傷つくような繊細な心はこの歳になってようやく捨てられた。
「せっかくだからご飯食べて行く?」
「いいんですか? 聡子さんの料理おいしいから嬉しいです」
「本当にお世辞が上手ね」
玄弥の気持ちなど知らず、聡子は紗良咲を連れて廊下を進んで行く。ひとつ溜め息をついて玄弥は靴を脱ぐと、真っ直ぐ自分の部屋に向かった。
ダイニングには薫がいたようで、紗良咲が自己紹介をする声が玄弥の耳に届いた。玄弥は鞄を部屋に置くと廊下を進み、ダイニングに入る。薫は「お帰りなさい」と玄弥に声をかけ、その言葉に「ただいま」と返した。紗良咲はその様子を見て少しだけ不機嫌な表情になったが、すぐに綺麗な笑顔に戻った。
玄徳が寺の職務を終えて帰宅し、ダイニングには五人が集まった。これまでずっと三人で囲んでいた食卓が、ふたり増えるだけで数倍賑やかに感じた。
「そういえば今日上社を散歩していたら引っ越して来たっていう若い男の人に挨拶されました。坂口さんって言ってました」
薫は午前中に結玄寺の資料を読み終えて、その後は実際にこの辺りを見るために歩き回ったらしい。高齢化が進んだ過疎地域では若い人は滅多に会うことがない。こういう場所に若い人が移住して来ることは活性化に繋がると市長である清正が度々話していた。
「その人赤いセダンの車乗ってました? 三十代くらいかな。朝バス停の前で知らない人が乗った車を見かけて。紗良咲と誰だろって話してたんです」
「そう、赤い車。空き家を安く借りられる制度が藤城市にあるみたいで、リモートワークだからどこにいても仕事はできるって言ってた。近いうちに周辺の家に挨拶行くそうですよ」
この上社の誰かを訪ねた客だと思っていたが、あの人はこの地区に移住して来た人だったようだ。どうしてわざわざ上社を選んだのだろうと疑問はあるが、きっと清正は喜んでいるだろう。
「上社から若者が去ってから高齢化が続いているからな。ひとりでも若い人が増えるのはいいことだ」
玄徳も人との繋がりを大切にするよう玄弥が幼い頃よく話していた。人間関係が希薄になりつつある現代社会において、田舎のいい点はそれなのかもしれない。
「この上社に若い人は玄弥くんと紗良咲さん以外にいるんですか?」
「支所に今年配属された若い娘さんがおったな。はて、名前はなんだったか……」
「
「そんな名前だったかな。最近の子の名前は難しいものだ」
紗良咲は一度目にしたものは忘れない。人の名前も文字を見ればずっと覚えていられる。人の顔や身に付けるものも思い出そうとすれば写真のように画像が浮かんで、辞書を開くように思い出したいことを探すことができる。本当に羨ましい限りだ。
乃愛は今年の春に短大を卒業して公務員になり、この上社に配属になった。若者がほとんどいないこの上社で最初は嫌がっていたそうだが、玄弥と紗良咲と知り合ってからは歳の近い人間がいることで辞めたいと言うことはなくなった。本心まではわからないが。
「久馬さん、明日は何を調べられる予定かな?」
「文献は一通り目を通したので、上社の人たちから話を聞こうかと。暗くなるまでには戻ります」
玄徳は若い女性を預かる身として責任がある。薫がどのように行動しているかは把握しておかないと万が一があれば困る。薫は当然のように「戻ります」と口にしてから慌てて自分の本心を見せた。
「なんだかもう自分の家みたいに感じてしまって。居候の身分ですみません」
「そんなことはいいのよ。久馬さんのおかげで食事も楽しいわ」
この上社に来てからまだ二日の薫だが、すでに宮司家の一員として重要な存在になった。
そんな薫の身に危険が迫っていることを、このときはまだ誰も知らなかった。
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