第五話 小さな変化

 珍しくアラームが鳴る前に目が覚めた。あの夢を見ることもなく、満足感のある睡眠だった。何か夢を見たのかもしれないが、悪夢やよほど印象的な夢でない限り目が覚めると忘れている。でも、それは幸せなことなのかもしれない。


 玄弥は自室の障子を開け、まだ薄暗い外の世界を眺めた。あと数分で陽が昇り、この上社は眩しい緑に包まれるだろう。


 廊下を進んで洗面所に辿り着くと、玄弥は半分寝ている脳を叩き起こすために冷水で顔を洗った。


 台所からは包丁がまな板を叩く音が一定のリズムで聞こえてくる。母の聡子はいつも玄弥より早く起き、朝食と弁当を用意してくれる。祖父の玄徳は四時前には起きて掃除をすることが日課だ。一日を綺麗に始めると心が清らかになるという。


 玄弥がダイニングに足を踏み入れると、聡子はこちらを背中を見せたまま「珍しく早起きね」と言った。


 薫はまだ眠っているようだ。大学は高校のようにすべての授業に出席することはなく、選択した授業によって自分の自由な時間を確保することができると昨夜薫から聞いた。高校生の頃より睡眠時間が長くなる人も多いらしい。


 玄弥は高校を卒業したら大学の近くに部屋を借りて自立する予定でいるが、どこで何をするかはまったく決めていない。


 結局玄弥が家を出るまでに薫は起きてこなかった。今日は昨日調べきれなかった文献の残りを確認するらしい。あんな書物、と言っては失礼だけど、何が面白いのか玄弥には理解できない。


 玄弥が玄関の戸を開けて庭に出ると、玄徳がちょうど通りかかった。



 「じいちゃん、行ってくるわ」


 「おう、気をつけてな」



 そのときの玄弥はすでに昨日見たことについて玄徳に話すつもりはなかった。あれが幻覚だとしたら病気かもしれないが、日常生活に支障がなければ今のところ問題はない。


 いつもの道、長閑な風景、上社のような田舎には危険などないように思える。実際、顔を合わせる人は昔からよく知っている住人ばかりで、外部から人が移住してくることはほぼない。


 田畑に囲まれた一本道を進むと、如月家が次第にその大きさを増していく。敷地の前まで到着すると紗良咲の祖母、珠代たまよが門のすぐ裏側にいた。


 彼女が清正と結婚してこの上社に嫁いだのも玄弥が生まれる遥か昔の話。とても上品で穏やかな人であるが、清正と紗良咲に対しては厳しい一面がある。それも清正が孫を甘やかすことが原因だ。



 「あら玄弥くん、おはよう」


 「おはようございます」


 「いつも悪いわね。もうすぐ紗良咲出てくると思うから。今日は宿題ちゃんとやったそうね」


 「うん、やった。ってかそんなことまで珠代さんに話さなくていいのに」



 珠代が静かに笑って玄関の方を見ると、準備を終えた紗良咲が出てきた。



 「玄ちゃん、おはよ。ごめんね、待った?」


 「いや、今来たとこ」



 玄弥と紗良咲は珠代に「いってきます」と伝えて今日も一歩を踏み出した。紗良咲は歩くペースがゆっくりなので、玄弥が彼女に合わせるうちに彼自身もひとりのときでさえゆっくり歩くようになった。



 「あれから体調大丈夫だった?」


 「ああ、なんともなかった。あれなんだったんだろな」


 「ちょっとでもおかしいと思ったら病院行かないと駄目だよ」


 「わかってる」



 バス停に到着してバスを待っていると、一台の車が通りかかった。この上社では見たことがない大きな赤色のセダンタイプの車で、詳しくない玄弥と紗良咲に車種はわからなかった。


 運転している人はまだ若い男性だった。彼もバス停に座るふたりを一瞥して目が合ったが、すぐに前方に視線を戻して玄弥たちが歩いてきた方向へと進んでいった。



 「どこかの家のお客さんかな」


 「かもな。まだ若い人だったし」



 紗良咲は気になることがあれば調べないと気が済まない性格で、通った車のメーカーと特徴からスマホで検索をかけた結果を玄弥に見せた。



 「トヨタのカムリっていう車みたい」


 「へー、結構高いな」



 バスが到着して、玄弥と紗良咲はいつもの特等席に座った。変わり映えのない日々のためか、少しでも日常と違うところがあれば気になる。あの人は誰だったのだろうか。



 「そうだ、上社支所に新しく異動してくる人がいるんだって」


 「へえ、珍しいな」



 藤城市役所上社支所は市役所の分所で、住民登録などの手続きができる。高齢化が進むこの田舎のために遠い藤城市の中枢まで行かなくても最低限のサービスが提供されるようになっている。


 紗良咲の祖父である清正は市長であるため、誰よりも早く情報が紗良咲に入る。もちろん内密にすべきことは紗良咲の耳にも入らないよう徹底されるので、情報漏洩はこれまで一度もない。



 「じゃ、さっきの人が?」


 「ううん、課長職でベテランだって言ってたからあの人は若すぎると思う。昔上社にいた人で私たちが生まれたすぐ後に異動で出て行ったみたい」


 「じゃあ上社は十七年ぶりか」



 だとしたら、玄徳や聡子は知っている人なのだろう。記憶にない父も、その人と会ったことがあるはずだ。玄弥は顔も名前も知らないその人のことを羨ましく思った。


 いつもと違うことといえば、結玄寺にいる薫もそうだ。後でこじれないよう今のうちに紗良咲に話しておこう。



 「そういや、昨日からうちに上社の歴史を調べにきた大学生がいて、しばらくうちにいることになったみたい」


 「珍しいね、上社の調査なんて」


 「だよな。伝承とかも調べてるって」


 「その人は男の人?」


 「いや、女の人。都会の大学生って感じの」


 「可愛い?」


 「うーん、まあ可愛いかな」


 「そっか」


 「何?」


 「なんでもない」



 突然窓の外を眺めて無口になった紗良咲。玄弥はよくわからず反対側の窓から外の景色を見る。同じ場所を走っているのに、左と右で見える景色は異なる。


 日常の中に潜む小さな変化は、いずれ大きな渦となって郷に襲いかかることをまだそのときのふたりは知らなかった。

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