第四話 伝承
結玄寺は上社の奥に位置しており、小石が敷き詰められた庭を抜けた先に玄弥の実家があった。
つい先ほど上空を覆っていた黒く禍々しい何かはすでに見えなくなっていたが、あんな頭痛を経験したことはこれまでの人生で一度もなかった。途轍もなく大きな災いがこの上社に降りかかる。そんな予感をさせるものだった。
玄弥は扉を開けて靴を脱ぐと、それらを揃えることもなく廊下を駆け抜ける。
「じいちゃん!」
大声を張り上げてさらに廊下を奥まで進むと、普段は使うことのない部屋に灯りがついていた。その部屋は、この上社にまつわる歴史的な書物や結玄寺に受け継がれてきた貴重な物品を保管する場所だ。玄徳が整理でもしているのだろう。
障子を開けると玄徳はおらず、これまで見たことのない若い女性が飛び跳ねて玄弥の顔を見上げた。彼女の前には大昔からこの寺に保管されている文献や巻物が広げられていて、それを調べながらノートに何かを書き記していたようだ。
「あの、お邪魔してます」
「あ、驚かせてすみません」
玄弥の登場に驚いた女性であったが、制服姿の高校生だと判断してこの寺の子供であることにすぐに気づいたらしい。こんな田舎では見たことがないほどの綺麗な出立ちで、髪はロングヘアでブラウンに染められ、服装は都会の若者に見るようなお洒落なものだった。
「これ騒々しいぞ、玄弥。客人の前で恥を晒すな」
騒ぎを聞きつけてこの結玄寺の住職、玄徳が姿を現した。袈裟を身に纏った彼は年齢を重ねた分だけの威厳があり、この上社にある全世帯がこの寺の檀家にあたる。
寺には他にも僧侶がいて、いずれ結玄寺はその中の誰かに継いでもらうことになる。そのため親族である玄弥は自由に将来の道を選択する権利があり、玄徳からは厳しく躾けられたが僧侶になる必要はないと言われている。それはそれで大変なことでもある。
「東京から来た大学生の娘さんがこの上社の歴史について研究をされておるそうでな。資料を調べられておるところだ」
「
「いえ、こちらこそ驚かせてすみませんでした。こんなところですけど、ゆっくりしていってください」
「そういや大声で私を探しておったようだが、何か話でもあるのか?」
「いや、後でいいや」
玄弥は玄徳に先ほど見た光景について話したかったのだが、どうやらそんな状況ではなさそうだ。薫であれば玄弥の話にも興味を持つかもしれないが、突然夢幻がどうやらと話したところで頭がおかしい人間だと思われる。薫が満足して帰るまで待とう。
玄弥は大人しく自室に向かい荷物を置いた。
少し時間が経ってゆっくり心を落ち着かせると、先ほどの禍々しい光景は幻覚だったのではないかと思えた。そうだ、あんなものが現実にあるはずがない。だって一緒にいた紗良咲も清正も気づいていなかった。
俺にだけ見える。そんなことがあるものか。そうだ、ちょっと疲れていただけ。珍しく数学の宿題を終わらせたことでいつもと違う何かが起こっただけ。
「玄弥、ご飯できたよ」
「わかった。すぐ行く」
母の
腹が減った。幼い子供のようにそんな欲望が彼の脳内を支配した。
玄弥は廊下に出てダイニングに向かった。そこには先ほど会った薫が座っていて、彼女の前にはご飯と味噌汁が置かれてある。玄弥と目が合うと恥ずかしそうに薫はこう言った。
「今夜はこちらでお世話になります。明日からはホテルに泊まるようにしますので」
「いいんですよ。そんなこと言わずに気が済むまで泊まって行ってください」
「ああ、遠慮しなくてもいい。この上社に興味を持ってくださっただけで、私は嬉しく思うよ。なあ、玄弥?」
薫は藤城市の郊外にあるホテルに滞在する予定だったが、資料に夢中になってすでに外は暗い。若い女性がひとりで帰るのは危険だと帰ろうとした薫を聡子が引き留めた。
聡子と玄徳はお節介なところがある。ふたりが決めたことなら玄弥が口出しすることもない。彼自身もこの家で世話になる身だ。
「まあ、俺は別に構わないけど」
「美人さんだからとちょっかい出すなよ」
「しねえよ」
玄徳の冗談に薫は愛想笑いをしていた。コンプライアンスが叫ばれるこの時代では玄徳の冗談は素直に笑えるものではない。
今夜の献立は筑前煮。実家が寺だとこういういい意味で質素な料理が多い。その分健康でいられる利点はあるものの、たまには味の濃い若者が好むメニューを食べたくなる。
食事を終えて順番に風呂に入り、薫の入浴中は悪戯をしないようにと玄徳が彼をそばで見張っていた。どこまで信用がないのかと落胆した玄弥だったが、風呂から出た薫は綺麗にメイクをしていた姿よりも魅力的に映った。
夜も遅くなり、朝が早い玄徳は就寝、聡子も寝室に向かった。居間でふたりになった玄弥は薫から大学の話を聞いていた。
卒業後は進学を視野に入れる玄弥にとってその話は新鮮だった。だが、次第に話題は上社の歴史に移り変わった。
「私は上社の伝承にも興味があってね」
「伝承ねえ」
「この場所はかつて夢幻之郷って呼ばれてて、夢幻は不吉の前兆だって呼ばれてた。結玄和尚の話は知ってる?」
「爺ちゃんから何度も聞かされましたからね。上社に現れた夢幻をこの地に封印して、その夢幻が復活しないように結玄寺を建てたって」
「そう。日本にはいろんな場所に伝承や伝説があるけど、なぜか夢幻のことにすごく興味が湧いて。それで私はここに来たの。玄弥くんは夢幻を見たことある?」
「……ないですよ。伝承は伝承。上社の人たちも本当だとは思ってないでしょ」
薫の質問に上空が黒く染まったあの光景が脳裏をよぎった。夢幻はその字の如くゆめまぼろし。現実には存在しない。
「そっかあ、残念。でも、確かに本当にいたら怖いよね」
「見たら絶対逃げる」
「男の子でしょ?」
「男の子でも怪物には勝てない」
ふたりはこの短時間で冗談を言って笑い合う関係になった。
薫は明日も寺の文献を調べるという。しばらくはこの結玄寺に滞在することになりそうだ。
玄弥は明日も学校がある。
もう夜も遅い。ふたりはそれぞれの部屋で就寝した。明日に備えて。
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