第二話 臆病者
「はい、今日の授業はここまで」
四限目の授業が終わり、教室内にチャイムが鳴り響いた。ここから五十分は昼休憩で昼食と残りの時間を自由に過ごすことが許される。
生徒たちは教科書とノートを片付け、ある者は友達と教室を出て行き、ある者はクラス内の友達のもとへと移動して持参した弁当や店で買って来た昼食を広げる。
玄弥は午前の授業をなんとか乗り越えた達成感に大きく背伸びをした。空腹も限界が近づき、すぐにでも弁当を食べたいところだったが、そんな彼の前に数学担当でありクラス担任である
彼女は三十四歳の若い教師で生徒からの信頼が厚い。彼女が特に玄弥を気にかけるのは彼が宿題をして来ない、数学を理解できていない手のかかる生徒であることが大きな要因であったが、それ以外にも理由があった。
彼女もまた上社で育ったから。高校卒業までは上社で暮らし、玄弥と同じく藤城高校に毎日遠距離の通学をしていた。
現在は結婚して藤城高校の近くに一軒家を購入して暮らしている。彼女が大学進学のために上社を離れた頃、玄弥と紗良咲はまだ生まれて間もなかった。真子がたまに帰省したときもまだ幼かったためか、彼女のことは覚えていなかった。彼女が上社出身だと知ったのはこの高校で教師と生徒として再会を果たしてから。
「明日までの宿題は終わった?」
「今日やる予定」
「そう言って前回もやって来なかったでしょ」
「たぐっちゃん、勘弁してよ。俺もう腹ペコペコなのよ」
「明日宿題やって来なかったら、特別補習だからね」
「わかったよ、やって来るから」
玄弥はその場をやり過ごすための言葉を並べて担任教師の妨害をなんとか阻止した。
真子が去った直後、何やら嬉しそうに笑みを浮かべながら幼馴染の天才が玄弥の元へと静かに近づいた。彼女が努力していないなんて思っていないけれど、それでも瞬間記憶ができる優れた頭脳は羨ましい。
「今日帰り教えてあげようか?」
そう訊ねる紗良咲は玄弥に勉強を教えることが生き甲斐のようだ。
本当は帰りの道のりまで勉強のことなんて考えたくないが、帰宅してからひとりで頭を抱えるよりかはいい。
玄弥は両手を合わせながら「お願いします」と仏に感謝した。彼女は任せなさいと言わんばかりに胸を張って「いいよ」と笑う。
「おふたりさん、いつも仲いいねー」
玄弥と紗良咲が話しているところに割って入ってきた女子生徒が玄弥の隣の席に座った。ボブスタイルの髪にボーイッシュな印象のその女子生徒は
恵が弁当を机の上に広げると、その後ろの席に男子生徒が座った。彼はコンビニで買ってきたサンドイッチとサラダチキン、ペットボトルのカフェラテをビニール袋から出した。
短髪で幼い印象の彼は
文武において正反対の恵と護は交際していて、周囲はこのふたりが付き合っていることが意外だと感じている。
玄弥と紗良咲は彼らふたりと特に仲がよく、昼食は毎日必ずこの四人で一緒に食べる。紗良咲も祖母の特製弁当を持ってきて玄弥の後ろの席に座った。
玄弥は隣にいる恵に問いかけた。
「恵は数学の宿題やった?」
「今日やる」
「俺と一緒じゃん」
「私はいつもやってきてるから玄弥と一緒にしないで」
紗良咲は無論のこと、護も頭がいい。いつも宿題やテストに手を焼くのは玄弥と恵。このふたりも勉強ができないわけではないが、紗良咲と護のふたりが特段出来がいいので比較されやすい。
「護はどうせもうやったんだろ?」
「うん、昨日終わらせた」
「だよな」
紗良咲にはこの質問をするだけ無駄。彼女にとって宿題なんて暇つぶしでしないから。
進学を見据えてもっと難しい問題を自主的に解いている彼女は、学校の定期テストはできて当たり前なのだ。玄弥は如月家に生まれなかったことに安堵した。紗良咲でなければプレッシャーで押しつぶされているだろう。
「紗良咲、ちゃんと面倒見てあげなよ? 玄弥が後輩になっちゃう」
「留年なんてしてたまるか」
「玄ちゃんはやればできるから大丈夫だよ」
紗良咲は恋愛小説に出てきそうな清楚な容姿に穏やかな性格をしている。臆病なところがあるが、それすらも男の本能をくすぐる、らしい。
いつも恵が玄弥をからかって紗良咲がフォロー、その一連の流れを微笑みながら見ている護。彼らの間には平和な関係が築かれている。
秋になり、高校生活も半分が終わろうとしている。将来どうするとか、大学はどこにするかとか、まだそんなことまでは考えていない。寺の子供だから寺を継ぐのが当然という人もいるが、そんな決められた道を歩くのはごめんだ。それに、寺を継ぐことはそんなに簡単ではない。修行を通して身につけることはたくさんある。
それどころか、明日までの宿題ですら手こずっている俺に未来なんてあるのか。
母が作った弁当を食べているときに面倒なことを考えるのはやめよう。やれることをコツコツとやっていくしかない。
玄弥は昼食を終えると、早速紗良咲に数学を教えてもらうことにした。彼女は玄弥が頼むとなんでも嬉しそうに助けてくれる。
恵と護は飲み物を買いに購買へ向かった。いつも四人で一緒にいると、交際している彼らの効果で玄弥と紗良咲もそういう関係だと勘違いしている人たちもいる。
「ここは正弦定理を使って……」
目の前で説明をしている紗良咲が魅力的なことは否定しない。この気持ちが両想いだったら、と何度考えただろうか。なのに、いざというときになるといつも誤魔化して臆病になる。臆病者なのは俺も同じか。
「玄ちゃん聞いてる?」
「聞いてる。と、言いたいところだけど」
「聞いてないのね」
「ごめん、ちょっと考え事してた」
「悩みあるなら聞くよ?」
「紗良咲には関係ないこと」
そう言われた紗良咲は不満そうに頬を膨らませた。その悩みを正直に伝えることは、この関係を崩すことになるかもしれない。だから、このままでいい。この関係がもっとも望ましい形なのだ。
今はとにかく、宿題を終えなければ。昼休憩が終わる前に。
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