黒渦
第一話 幼馴染
午前六時、
あまり意識していなかったが、最近身長が伸びてこれまで見上げていた祖父と目線が同じ高さになった。こんな田舎にいれば若者が少なく近隣は年配ばかり。玄弥より背が高い人はほとんどいなくなった。
少し前まで蒸し暑かった気候も朝晩は涼しく感じられるほどになった。高校の制服はまだワイシャツだが、あと数週間もすればジャケットを着て通学することになるだろう。
朝日を浴びた結玄寺は古くもその輝きを失ってはいなかった。
玄弥は毎日歩いて通る道をいつもと変わらず、繰り返される風景を眺めながら進んだ。見渡す限りに田畑と山、その間に間隔を空けて民家が並ぶ田舎の景色は悪くない。この年頃なら都会の喧騒を羨む者が多いだろうが、彼は生まれ育ったこの土地に愛着を持っていた。
通学路にある大きな一軒家。屋根は瓦が並んでいて、周囲の民家と比べても明らかに広い敷地と大きな建物が目立つこの場所で、玄弥は
紗良咲は黒髪ロングヘアで容姿端麗、何より生まれ持った頭脳で成績は常にトップ。両親は仕事で上社におらず、祖父母と一緒に暮らしている。如月家といえば藤城市で名の通った由緒ある家柄であり、紗良咲の祖父は市長としてその名を広く知られている。そんな家に生まれた彼女は、どこに出しても恥ずかしくないほどの容姿と才能を持っている。
幼馴染の玄弥は紗良咲と一緒にいることで自分の存在がちっぽけで虚しくなることが何度もあった。だが、それを彼女に話したことはない。誰よりも優しく繊細な紗良咲にそんなことを話してしまったら、きっと玄弥に同情して自分を責める。
「おはよ、玄ちゃん」
「お、おう」
「どうしたの?」
「なんでもない」
そんなことを考えていた玄弥は、紗良咲が家から出てきたことに気づくのが遅れた。驚いてなんとも情けない小動物のような跳ね方をしてしまったところで咳払いをして誤魔化しておく。
最近この付近では物騒な事件が多い。特に藤城市内で起こっている殺人事件は若い女性を狙ったものが多く、一連の事件は同一犯によるものである可能性が高いと警察は公表しながらも犯人の特定には至っていない。心配性の祖父母、孫の心配をするのはどんな祖父母でも当たり前なのだが、紗良咲は必ず玄弥と一緒に登下校するように言い聞かされている。そして、玄弥は紗良咲の祖父から直々に彼女のことを任された。
上社は前述の通り田舎であり、藤城市の中心から離れている。玄弥と紗良咲は毎日バスと電車で片道二時間の道のりを通っている。同じ市内なのに、間に山があるせいで交通機関が遠回りしているためだ。
朝早く家を出て、部活をしていなくても帰りは暗くなってからになる。この上社にいる未成年は玄弥と紗良咲のふたりだけになった。ふたりは幼い頃からの仲で、何をするのでもずっと一緒だった。もうこの年齢になれば腐れ縁だ。
「明日までの数学の宿題もうやった?」
紗良咲は毎日この質問を玄弥に投げかける。理由はひとつ。玄弥は基本宿題をしないから。彼女はリマインダーの役割をしてくれているのだ。
「まだ。全然わかんねえもん」
「教えよっか?」
「遠慮しとく。どうせわからん」
「やってたらいつかわかるよ」
「天才に凡人の気持ちはわかんねえの」
「私だって勉強してるからわかるようになったの」
紗良咲は瞬間記憶ができるらしく、一度目にしたものは写真のように脳内に保管できるという。暗記科目は教科書をペラペラ捲るだけでテストはほぼ満点を取る。数学などの思考能力が必要な科目であっても模範解答を暗記してしまえば定期テストは基本満点。模試ではそれが通用しないのだが、それでも公式をすべて一瞬で覚えてしまう紗良咲はその時点で他の生徒より二歩も三歩も先に進んでいる。
紗良咲が最近受験した模試は県内トップの成績だったそうだ。玄弥は無論受験すらしていない。強制ではないし、どうせ受けたところで結果は見えている。
玄弥と紗良咲はバス停に到着し、五分ほどで到着したバスに乗り込んだ。上社にバスが通っているのは、市長である紗良咲の祖父が上社に住んでいるから。こんなに不便な土地であっても生活がなんとか維持できているのは彼のおかげ。だからこの土地で如月家は信仰に近い尊敬を得ている。
バスの最後尾からひとつ前の前方から見て左側、ふたつ並んだ座席がふたりの特等席。紗良咲が窓側で玄弥は通路側。運転手は毎日顔を合わせる人。この早朝のバスに乗るのはこのふたりだけ。
紗良咲はバッグから数学の問題集を取り出して宿題のページを開いては、玄弥に解き方の説明を始めた。
「ここはこの公式を使って、xにこの値を代入して……」
「なるほどな」
玄弥はわかったふりをして紗良咲の渾身の説明を聞き流した。こんなものわからなくても生きていく上で困ることはない。別に数学で食っていくつもりはないし、日本にいれば英語を話す機会もない。どうして勉強なんてものをしなければならないのか。
「ねえ、さっきから聞き流してるでしょ?」
「さすが幼馴染、よくわかったな」
「もう。真剣にやらないと留年するよ」
「三年になれるほどには頑張る」
紗良咲はわざとらしく頬を膨らませて問題集を閉じた。
これはチャンスだと玄弥は新たな話題を紗良咲に提示する。
「高校生にしかできないことは勉強以外にもあるだろ?」
「例えば?」
「恋愛」
「れ、恋愛かー。私には縁がないかな」
わかりやすく動揺した紗良咲に玄弥はさらに追い討ちをかけてみた。
「紗良咲はさ、好きなやつとかいんの?」
「……いない。玄ちゃんは?」
「内緒」
「え、いるの? 誰? クラスの子?」
「さあな」
「え、誰?」
「内緒」
「玄ちゃんから聞いてきたのに」
そんなこと言わなくてもわかってくれよ。毎日一緒にいて、他の誰よりも俺のこと知ってるはずだろ。
でも紗良咲に好きなやつはいない。
安心した反面、がっかりもした。
玄弥は紗良咲に肩を揺すられながら、彼女が座る席とは反対側を見た。なんの変哲もない上社の景色が流れ、バスは今日も駅に向かって進む。
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