夢幻輪廻

がみ

序章

厄災の悪魔

 空が茜色に染まり夜がその訪れを知らせるとき、木々に囲まれた山中はわずかな光すら遮断して人々から視界を奪う。厄災の悪魔が陰から様子を伺い、その姿を見せるときを心待ちにしていた。


 斜面は足場が悪く、滑らないように踏ん張っておかねば簡単に転んでしまう。これだけの斜面なら一度滑り始めたら遥か下に見える平坦な土地まで止まることはないだろう。


 袈裟けさに草履ではさらに注意しておく必要がある。その男にはこれから大切な仕事がある。いや、仕事というよりは用事という方が適当だろうか。決して金銭を得るための行動ではない。


 しかしながら、彼にとって何よりも大切なこと。


 こういう立場であるからこそ、守らねばならないものがある。そして、さらに守るものが増えた私には、こうする以外に選択肢はなかった。我が息子に誇れる父であるために。


 男がこの土地に来たことは、きっと意味がある。こうして長い月日を経て、まだ因縁が続いているとは不思議なことだ。器は何度でも滅ぶが、その魂は不滅。いつか決着をつけなければならない。


 目を瞑る男に忍び寄る影。



 「お前さえいなければ」



 聞こえた声、それは背後から近づいた何者かが発したものだった。


 背中に走る激痛と、全身を襲う脱力。身体は斜面を転がって、やがてその角度が緩やかになった場所で止まった。骨は砕けて全身に擦過傷ができたのだろうか、酷い痛みで意識で遠のいていく。すでに身体のどの箇所が痛むのかすらわからないほどだ。


 その男が先ほどまで立っていた場所に現れた存在は、こちらを嘲笑っているかのように見下している。


 それは、人の形をした人ならざる者。心にできた僅かな隙間をこじ開けて忍び込むと、内側から身体を支配していく。たった一瞬の気の緩みで、狂気は何倍もの大きさに膨れあがる。


 そして、器を奪われる。



 「やはり、勝てなかったか……」



 意識を失うまでに見た暗闇は、その男が目にした最期の光景となった。


 まだ生まれたばかりの息子、ふたりで生きていこうと契りを交わした妻、こんな私を迎え入れてくれた義理の父母。すべてを置いてこの世を去る愚かな私をどうか恨んでください。


 たったひとつだけ。私がした選択は信念に基づいて下したもの。どうか息子には、立派な父であったと伝えてほしい。そして、彼にも同じように育ってほしい。


 どうかそれだけは、頼みます。この想いを息子に託して私は逝きます。


 事切れた男のそばで笑うのは、厄災の悪魔。真っ黒に塗り潰されたは、無念を背負ってこの場を去った男の魂をよどんだ心で見送った。


 日は沈み、空は満天の星に包まれた。その黒い何かは、闇の中に溶けて静かに消えていく。死を嘲笑する汚れた笑い声と共に。



 

 ──またこの夢か。


 自分が経験したことでもないのに、どうして他人の感情が伝わってくるのか。第三者の視点で見ている状況で、その人物の考えがわかるとは不思議な感覚だ。


 目を覚ました青年は障子の隙間から侵入してきた朝日に目を細め、大きく背伸びをした。清々しいほどに澄んだ空気。


 畳貼りの和室が自分の部屋だが、最近では珍しいという。友人はみな西洋風の一軒家に住み、二階のフローリングの部屋を自室として与えられている。そもそもこんな田舎の寺に生まれたという時点で特殊な環境だといえる。


 夜はベッドで寝るという友人に憧れたことがかつてあったが、今では畳に布団を敷くことにすっかり慣れてしまってマットレスというものはむしろ心地が悪い。


 時間はもう午前五時半、早く準備をしないと六時には家を出ないといけない。悪夢のせいで今日という日が最悪の始まりになった。


 最近はあまり見なかったというのに。



 「起きてる? 遅刻するよ」



 障子の向こうから母の声がした。いつもは五時過ぎに自分から起きるので、まだ寝ているのではと確認のために来たようだ。もう高校生になったといっても、親にとってはいつまでも子供だから、と大切にされている反面で自立させてほしいとも感じる。


 思春期特有の反抗期だろうと自身の心情を冷静に客観視することができている時点で、もう反抗期は終わったのかもしれない。



 「ああ、大丈夫。もう起きる」



 今日もまた一日が始まる。特に変わり映えのしない日々だが、それが時間というものだ。何もないことは退屈である、と同時に幸せなことでもある。


 青年は布団から出て慣れた手つきでそれを畳むと、部屋の隅に置いた。ベッドなら畳む必要はないから、それだけは先述の友人たちを羨ましく思う。


 障子を開けて廊下に出ると、なぜかまだ母が立っていた。その表情はどこか憂いを含むものだった。



 「またあの夢?」


 「もう慣れた。なんともないよ」


 「そう、ならよかった」



 幼い頃はこの夢に苦しめられてよく泣いたものだ。その度に母や祖母が慰めてくれたが、十七歳にもなるとこれしきの悪夢で苦しめられることはない。


 人が死ぬ夢はこの歳になっても平気ではいられない。頻繁に見たせいでそれは映画やドラマのワンシーンのように主観性を失っただけ。それを客観的に見られるようになったことで、まるで他人事のように傍観している気分にさせてくれた。


 さあ、顔を洗って目を覚そう。


 青年は夏が過ぎ去った涼しい朝の廊下を裸足で歩く。少し前までなんとも思わなかったけれど、床はこんなにも冷たくなったのか。


 また季節が移り変わる。


 これから先、何度経験することになるのか。願わくは、ごく普通の平凡な人生を送りたいと考えながら、洗面所の戸を開けた。

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