この日、神里たちは神殿の奥で作業をしていた。


 山で採取して乾燥させた薬草を粉にしたり、丸薬にする。使った分は定期的にこうして補充していた。二人に作り方を覚えさせるためでもある。


 その時に千郷と青一郎のことを弟子二人から報告を受けた。


 以前、千郷に聞いたときはそんな人はいないと返ってきたが、やはり歳相応に恋をしていたのだろう。心に秘めた恋をゆっくりとあたためていた彼女を想像していたら、口の端がゆるんだ。彼女の親代わりの一人としては、娘の成長が嬉しい。


 意外な二人……とは思わなかった。二人が幼い頃から仲がいいのは誰よりも知っているつもりだ。


 神里は千郷が赤子の時に捨てられているのを見つけた第一発見者だ。


 赤子だというのに雰囲気が他の者とは違う。神の子が修業のために人間界におとされたのかと思った。


「……もうすぐあのコの誕生日だな」


「ちーちゃんの、ですか? でもちーちゃんは村に来る前のことは覚えていないんですよね?」


「私が勝手に決めたんだ。千郷がこの村に来た日。もう18になるのか……」






 村の前に捨てられていた千郷。まだ産まれたばかりのようで、目が開いていなかった。


 捨てられた割には随分丁寧にくるまれていたのが印象的だった。彼女が入っていた大きな籠には、ふんわりとした綿がぎゅうぎゅうに敷き詰められている。木綿を何重にもしたおくるみに包まれ、千郷は空中に向かって手を伸ばしたり振り回していた。


「赤ん坊が捨てられたのは久しぶりだな……」


 当時は神里の名前を世襲し、先代の神里の大往生を見届けたばかりだった。


 赤ん坊を抱きあげるとしっかりとした重さにホッとした。ここには子どもが何度も捨て置かれたが、全員が全員しっかりと育つわけではない。


 もちろん、村の者たちはどんな子でも大切に育てようとする。しかし、瀕死の子どもを救うことはできない。神里の医術をもってしても。


「お前もこの村で生きていくか?」


 答えられないはずの赤子に問い、紅葉のような手に指でふれた。まだ視力の弱い赤子は手探りで神里の指を追うと、小さな手でしっかりと握りしめた。


「おうおう……立派な力だ。お前は……そうだな。千郷、と名付けよう。千の里を自由に行き来できるほどの力を持ち、誰かのために使えるように……」


 神里は赤子────千郷と額を合わせ、目を閉じた。


 彼女は誰かと結婚することはせず、生涯神に仕えることを誓った身。自分の赤子を抱くことはないだろう。


(私が神里の名を世襲してから初めての捨て子……お前は私にとって初めての娘だ)


 千郷は神里が見抜いた通り、同年代の少年少女に抜きん出た才能を発揮した。文字の読み書き、算式を身に着けるのが速かった。


 神秘的な黒髪と紫の瞳を持つ千郷を、見習い巫女にすることはしなかった。むしろしてはならないと思った。


 神里は彼女よりもずっと歳上だが、自分の元で働かせて何かを教えるのは無礼だと感じた。彼女が歴代の神里とは比べものにならないほど、尊い人に思えた。






「白夜。お前は千郷と結婚したかったか?」


「えぇぇぇっ!?」


 薬包紙に薬の名前を書き込んでいた白夜が派手に飛び上がった。真っ赤な顔になり、真っ黒な墨が飛び散る。


 神里は静かに最後の粉末を薬包紙に乗せ、綺麗に折りたたんだ。


「何をしている……後で掃除するんだぞ」


「はぁい……」


「それで。どうなんだ?」


「言わなきゃいけないんですかぁ……?」


 情けない声と表情で筆を置いた白夜に吹き出しそうになった。


 神里は折りたたんだ薬包紙を木箱の中に入れた。隣の木箱を見ると折り目が適当で大きさがバラバラな薬包紙が入っている。これは朱里がやった分だ。


 彼女はめんどくさがりな上に不器用なのでこういう作業は苦手だ。おまけに字も綺麗ではない。兄の朱月の字はさらに壊滅的だ。


 あとでこっそりやり直しておくか。いつもよりはいい出来な方だが。神里はため息をつくのをやめて神殿の方へ向いた。


「うむ。時の女神様がそうおっしゃっている」


「本当ですか……誰にも内緒ですよ?」


「はいはい大丈夫だって!」


「お前が一番信用ならないんだよ朱里……」


 木箱を隅に追いやった朱里が身を乗り出した。白夜は口をひん曲げて腕を組んでいる。


 姉がいる彼にとって歳上の女性が言うことは絶対らしい。彼は赤くなった頬をかきながら視線をそらした。


「……僕はずっと千郷さんが好きだったから、その気はなかった、と言ったら嘘になります……。誰よりも綺麗で優しくておしとやかで。春のようにおだやかな性格で……いつまでもそばにいてお互いに支え合えたら、と夢見ていました。でも、夢を見るだけじゃダメですね。気持ちを直接伝えなければ意味ない」


 まだ何か思うことがあるのだろう。話すにつれほほえみを浮かべた白夜は、口元を優しくゆるめたまま視線を落とした。儚げな表情で、瞳に憂いをたたえている。


 普段は朱里よりしっかりしていて村人から頼られる覡だが、歳相応の顔も持っている。それが神里には嬉しかった。常に背伸びしていたら疲れてしまう。彼らしさが消えてしまう。


 神里は続きの言葉を待とうと、小さくうなずいた。


 しかし、朱里は違ったらしい。


「……白夜って詩人なの? びっくりしちゃった」


「だから言いたくなかったんだよお前の前では!」


 朱里のわざとらしく感心した姿に、白夜は頭を抱えて突っ伏した。神里が調合した粉末を片していなかったら舞い上がっていただろう。白夜の掃除が増えるところだった。


 突然感情が暴発するのも彼らしさだ。これを引き出せるのは主に朱里だけだが。


 白夜の大きい声に臆することなく、朱里は顔をニンマリさせた。


「や~いいこと聞いた。今日の晩ご飯のいいネタになりそう!」


「ほら見ろすぐ人に話す!」


「だーいじょうぶだって兄様は口堅いし」


「そういう問題じゃないだろ!」


 これだけ怒鳴る元気があるなら失恋の痛みはすぐに癒えるだろう。というかもう白夜は平気かもしれない。青一郎には敵わないと割り切り、覡の仕事に支障をきたすこともないだろう。











「私は黄玉です。こちらから青玉、紅玉、黒玉、白玉です」


「そなたたちは……?」


「姫様のお世話を我々におまかせください!」


「……はぁ」


 千郷を引き取ってから数日。彼女のことを知っているらしい幼子が五人、現れた。彼らは五歳くらいの幼子の姿をしていた。


 そして特徴的なのが名前と同じ色の髪と瞳。神里も若紫という名前をつけられるほどきれいな紫の瞳を持っているが、彼女たちのはそれ以上だった。


 幼子たちが現れたその日も千郷に、子を産んだばかりの村の女が乳を飲ませていた。


 千郷は主に神里の家で過ごし、日中は他の村人が順番で預かる。神里が神事を滞りなく執り行うためであり、千郷に人に慣れてもらうためでもある。


「そなたたちは千郷のことを知っているのか?」


「はい、私たちの姫様です」


 どこから来たのか、千郷を含め彼女たちは何者なのかを聞いたがはぐらかされた。とにかくこの村にいさせてほしい、千郷の身の回りを任せてほしい、と繰り返すばかり。


 この五人のまとめ役は黄玉らしい。一番前に出て、幼いのに大人のように神里と話している。


 眠たそうな顔で地面を見つめているのが青玉。地面に転がりそうになっている青玉を支えているのが紅玉。勇ましく太い木の枝を持っているのが黒玉。きれいな姿勢で黒玉のそばに立っているのが白玉。


 彼女たちはその日の内に村の空き家を掃除して暮らし始めた。


 青玉が人数分の布団を仕立て、黒玉と白玉が食料を採取し、紅玉が料理道具を調達した。黄玉は彼女たち────女の童に指示を出しながら千郷の面倒を見る。


 彼女たちは幼子とは思えないほどよく働いた。自分たちで草鞋を編んだり、生活用品を作ったり。時には着物を仕立てることもあった。それらを時々町へ売りに行き、売上で千郷や自分たちが好きな物を買った。


 千郷も突然現れた女の童に警戒心を持つことなく、すぐに懐いた。村人に人見知りをすることはなかったが、女の童たちをまるで親のように思っているようだった。


 村人たちははじめ、変わった者がやってきたと興味津々だったが時が経つにつれ、違和感を覚えた。


 女の童たちはいつまで経っても姿が変わらない。歳をとっていないようだった。千郷はすくすくと成長し、やがて女の童たちよりも歳上の姿になった。


 だがここは昔からワケありの者たちが集う村。彼女たちが不思議なのは来たばかりの頃からだ、今さら疑問を持つことではない。


 しかも最近、忍びの里から命からがら逃げてきたという兄妹が村にやってきた。本物の忍びなんて神里でも見たことがない。







「神里様、我々を受け入れてくださってありがとうございました」


「どうした。藪から棒に」


 ある月夜、黄玉が神里の元を訪ねてきた。湯浴みを終えたばかりの神里は快く迎え入れ、甘いフランの実を切って出した。


 二人で縁側に腰掛け、フランをつまんだ。


「我々はこの村が大好きです。住むことができて本当によかった」


「ここにやってきた者は皆そう言うよ」


 神里は村人が作ったメコンの酒を盃に注いだ。この盃も村人が作ったものだ。


 黄玉にはサタでできた湯呑みを渡し、シバミの果汁にユガを入れたものを注いだ。


 お互いにそれを軽く目線に上げると、一口あおった。


 神里は盃に月を映し、ゆらゆらと酒を揺らした。


 月明りをよく通す透明度。今年のもいい出来だ。水のような吞みやすさでついつい吞み過ぎてしまいそうだ。


「居心地がいいならずっといるといい。お前たちは私の娘のようなものだ」


「神里様の……? そうおっしゃって頂けるなんてうれしいです」


 湯呑みを両手で握って神里を見上げる黄玉が愛おしい。ここにはいない千郷も、他の女の童も。


 神里は彼女の頭をなで、ほほえんだ。神事の時に見せる真剣な表情とは打って変わって、女らしい一面をのぞかせるほほえみであった。











「俺も行くよ?」


「いえっ、兄様は女の童たちとゆっくりなさってください」


「でも夜だし……」


「すぐそこですから」


 千郷は晩ご飯の片づけを終えると、布巾で手を拭いた。


 青一郎が護衛と称してこの家に住み始めて早一週間。あれ以来隣村からの襲撃はなく、千郷たちは穏やかに過ごしていた。


 彼が千郷たちの家にずっといることは、村人たちの間ですぐ広まった。あの幼なじみたちがとうとう結ばれたか、と。


 しかし千郷はまだ、彼からの告白に返事をしていない。


 想いなんてとっくにバレている。伝えてしまった方が幸せになれる。


 しかし、彼との結婚生活を想像するたびにあの悪夢が邪魔をする。お前は想い人と幸せにはさせないぞ、と。


 最近はこのことばかり考えていたせいで顔に出てしまったらしい。百里が話を聞こうかと申し出てくれた。


 姉御肌な彼女なら相談しやすい。千郷は着物をもらったお礼を持って行く、と一人で家を出た。内容が内容なので青一郎には知られたくなかった。


「こんばんは、お邪魔します」


「待っていたわ千郷ちゃん!」


「晩ご飯は食べたか? 食後の果物をあげよう」


 晩御飯の片づけを終えたらしい百里。彼女は千郷が来たことに気がつくと嬉しそうに駆け寄ってきた。縁側では玄武が小刀を使って器用にフランの実をくし切りにして皮を剥いている。


「百里さん、この間は新しい染め物をありがとうございました。青一郎兄様から頂いたかんざしとよく合って、他の方たちにも褒められました」


「あらそう! それは染め上げた甲斐があったわ! ……さ、いつまでも土間にいないで縁側にどうぞ。今お茶を淹れるから」


 百里は話しながら手の動きを止めない。甕から柄杓で水をすくうと土瓶に注ぎ、囲炉裏で火にかけた。


 二人は新居に住み始めたばかりだ。


 この家は村の男たちが集まって建てた。もちろん玄吾も、木材を運んだり切ったりと剛力さを発揮した。


 家の一角には、百里が染めた布がいくつも天井から吊るされていた。


 朝焼けの色、真夏の空の色、萌え出たばかりの若芽の色、熟れた果実の色。美しい色合いのそれらは千郷が通りかかると、ゆらゆらと動いた。


「素敵なお家ですね。百里さんが染めた布がたくさん飾られていて……お店みたいです」


 千郷の言葉に、お茶を持ってきた百里が満面の笑みを浮かべた。


「そうでしょう? こういう設計にしてもらうように頼んだの。その内、店を開こうと思って」


「お店ですか……! それはとても楽しみです」


「ありがと。千郷ちゃんにはお客さん第一号になってほしいわ」


 幼い頃から妹のように可愛がってくれる百里。そんな彼女が幸せになったのが嬉しい。


 そしてうらやましかった。


「……千郷。どうした、あまり元気がないようだな」


「あ……いえ。お二人はどうやって恋仲になったんだろう、と思いまして」


「恋仲……」


 玄吾はつぶやいて百里のことを見て、彼女のことを抱き寄せた。


 村の女たちの中では長身な百里。しかし、もっと大柄な玄吾の腕の中だと華奢に見える。


「百里は誰よりも気が強くて勇ましい。だが、人に気配りができて面倒見がいい。我はそんなところが好きになった。そこからはすぐよ」


 二人は本当にある日突然、一緒にいる時間が増えた気がする。幼い千郷でもなんとなく分かった。


 人前でくっつくのが恥ずかしいのか、百里は腕の中で文句を言っている。しかし顔はまんざらでもなさそうだ。


 本当に仲がいい二人。結ばれるべくして結ばれた、というのはこの二人のためにある言葉だろうと思った。


 百里は玄吾の腕の中から出ると、千郷の横に座って顔をのぞきこんだ。


「千郷ちゃんは青一郎とどうなの? 随分噂になってるけど……あいつは肝心なことを言わないのよ」


 玄吾はフランの実に串を差し、千郷の方に押し出した。一連の行動が静かだ。音を立てないようにして千郷の言葉を聞き逃さないようにしている。


 千郷は唇をきゅっと結ぶと、一度だけうなずいた。この二人になら話せる。


「先日、兄様に想いを伝えられました。私も……兄様が好きです」


「まぁ! やっぱり! そうなったらいいなとはずっと思っていたのよ! とうとう千郷ちゃんが本当に妹になるのね!!」


「その割には浮かない顔をしているな。千郷は妻にとって妹だ、といつも聞いている。それなら我の妹も同然だ。この兄に話してみろ」


 玄吾は分厚い胸板を音が鳴りそうな勢いで叩いた。


 なんともたくましい兄だ。千郷は思わず笑みをこぼしたが、声の元気は失われていく。


「兄様と結ばれる夢を見たんです。そしたら急に胸から血が流れて……その血は止まらなくて、兄様は目覚めませんでした……だから、ここで私が想いを正直に伝えてしまったら兄様が……兄様の身に何か起こるんじゃないかって……!」


「千郷ちゃん……」


 涙がこぼれるのと同時に声が跳ね上がってしまった。


 そんな千郷を百里がそっと抱きしめた。子どものように泣くのは随分久しぶりだ。涙も嗚咽も止められない。


 泣くつもりなんてなかった。この二人の前だから、じゃない。自分一人の時だって。泣くほどのことではないと思っていた。自分が我慢すればいいだけの話だから。


 でも、せっかく好きな人が伝えてくれた想い。それをなかったことにはできない。舞い上がるほど嬉しかったから。


 自分が板挟みになる気持ちは、知らず知らずのうちにこんなにも自身を苦しめていた。


「そんなにも青一郎のことを好いてくれていたのね……ありがとう」


 百里が腕の力を強める。


 彼女はいつだって優しかった。だからこうして頼れる。


「青一郎もね、千郷ちゃんへの態度は他の人に向けるのとかなり違うわ」


「我々鍛錬組もそうだと思ってるぞ。いつも千郷のことを一番に考えておった。好意を抱いているのを我々の前で口にすることはなかったが、バレバレだったからな」


「兄様が……」


 青一郎の視線が優しかったのは、彼が優しいからだと思っていた。


 千郷は涙を拭くとしゃんと座り、二人に向き直った。


「ありがとうございます……兄様の想いを改めて知ることができました。それだけでこの先、生きていけると思います」


「そんな、千郷ちゃんっ……!」


「待て千郷。悪夢なんかにくよくよするな。誰から見てもお似合いな二人が別々の道を辿るなんて、そんな不幸なことがあっていいものか。青一郎もヤワな男ではない。お前が心配している方が本当になってしまうぞ。神里様がよくおっしゃってるだろう」


「引き寄せの法則……ですね」


「そうだ。あんなことは起きないと信じて、青一郎の気持ちに答えてしまった方がいいと思うぞ」


 玄吾は大きくうなずきながら、千郷の頭に大きな手を乗せた。


 彼は転んだ子どもが泣きそうになっていると、こうやって慰める。


 小さな子どものように思われたのが少し恥ずかしい。だが、大きな手があたたかくて嬉しかった。


 嗚咽がおさまってくると、百里が明るい声で千郷の真横に並んだ。


「千郷ちゃんは、青一郎のどこを好きになったの?」


 誰にも話したことがない、青一郎の好きなところ。


 ワクワクとした顔で百里が詰め寄ってくる。笑わせて明るくさせようとしてくるのが分かった。そんな彼女にだったら、内に秘めた想いをさらけだせる。もちろん、玄吾の前でも。


 千郷は涙を拭うと照れ笑いを浮かべた。こすった目元が腫れて痛かったが。


「優しくて、よく気にかけてくれて……職人としてかんざし作りに熱心なところです」


 かんざしを作る時に手元を見つめる真剣な目も、千郷のことを見つめる優しい瞳も。


 いつだって彼はかっこいい。それ以上に中身も好きだ。


 はにかむと、百里がニヤニヤしながら背中をさすった。


「まぁ~こんなとこでノロけてないで早く本人に言っちゃいなさい!」


「そうと決まれば早く青一郎の元に送り届けなければな」






 月明りに照らされる中、百里に見送られた。


 玄吾と歩いていたら青一郎が向こうから走ってくるのが見えた。


「兄様……」


「そろそろかと思って」


「そうかそうか」


 玄吾はニヤニヤと青一郎を肘でつつく。千郷の隣を受け渡すと、彼は颯爽と背を向けて歩き出した。


「さ、帰ろうか」


「兄様。一緒に来てほしいところがあるんです」


 青一郎の言葉を遮り、千郷は家とは正反対の方向へ歩を進めた。


 想いを伝えるならあそこがいい。時の女神のご神体の前で。自分の決意表明のためにも。


 月明りも星明りもなく真っ暗だが、難なくたどり着くことができた。毎朝お祈りに来ているからだろう。


「急にどうしたんだ? 千郷」


 千郷は彼と向き合うと、晴れやかに笑った。


「私も……兄様のことが好き、です」


「千郷……!」


 青一郎は目を見開くと、千郷のことを強く抱きしめた。愛おしくてたまらない、と体中で言っているような。


 腰を抱いたまま、青一郎は顔を上げた。月明りでよく見える彼の顔は紅潮していた。


「本当なんだよな」


 二人は照れくさそうに笑い合う。


 千郷の心のわだかまりがなくなったようだ。なにより、彼とこうしてふれあえるのが嬉しい。


 青一郎は千郷の髪をすくうと、額をつきあわせて目を細めた。


「このままどこかへ千郷を連れ去ってしまいたい……」


「え!?」


 割と本気な声でつぶやく青一郎に驚いた。


「お前と一緒に外の世界を見たい。ここに住み続けてたまに町へ行くのもいいけど、俺たちのことを誰も知らないところに住んでみたい。いろんな町を見てみたい」


 外界に憧れを抱く青一郎の瞳は無邪気だ。空の星よりも彼の瞳の方が輝いている気がした。


「……では、行きましょう。すぐに、とは言えませんが必ず」


 千郷は青一郎の頬に指を滑らせた。相思相愛になったのなら、これくらいは許されるはず。


「私も外の世界を知りたい。あなたと」


「千郷……」


 彼は千郷の細い指に自らのを絡めると目をとじた。


 近くにいるからこそ分かる綺麗な目元。長いまつげが伏せられている。こんなに間近で見る日が来るとは思わなかった。


「千郷」


「はい」


「……名前で呼んでくれないか」


「せいいちろ……さん」


「まだぎこちないな! 早く慣れて……その綺麗な声でたくさん呼んでくれ」

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