ニーズ過去編

君がいてくれて良かったよ、なんて。

あいつに言われたのはいつだったか。

遠い昔のことのように思える。

脳が、目の前で起こっているこれを理解しまいとしているのがわかる。記憶も思考もあったもんじゃない。




____高く耳障りなアラームが寝起きの脳に突き刺さる。



音量を2段階上げてみたりした昨日の自分を呪いながらスマホの画面を叩く。

まあ、良い。こうして無事に起きられた。

社長からの招集。いつもと違う時間に起きるなら機嫌を悪くしてでも対策しなくてはならない。

とは言えギリギリの時間に起きたことはいつも通りで。朝食なんて久しく食べていない。

就寝時間を早めるのは無理。


最低限の支度だけしてTシャツと白衣を掴んで部屋を出る。

廊下を歩きながら着替えるのにも慣れた。

俺が、というより職員が。


見られこそするが声はかけられなくなった。

そう思った矢先。

「ニーズ・リベルタぁ、どこで着替えてんのよ」


そう言って頭を雑に触られる。

「....知ってるか? 俺の嫌いなもの。朝と年上」

振り返ることも無く言った。相手が呆れているのが分かる。

「みんな目のやり場に困ってるわよ、見せたいの? ....ま、研究員の中で体鍛えてるのなんてあんたぐらいだし、意外と遭遇するの期待されてるかもね」


そんなわけないだろ。

「研究員全員に襲われたって勝てるぞ、あんなもやし集団」

就寝時に着ていたTシャツを畳んで脇に抱える。


「研究員の外出には護衛がつくでしょ、どうしてそんなに必死なのよ」

その言葉に思わず振り返って笑った。護衛、護衛ね。

「あんなのを信用してんのか? あれは見張り。俺らが余計なことしないように見てんだよ」


目が合ったエレノアは不服そうで、こちらの言葉を理解し難いといった様子だ。

「そんなふうに思ってたわけ? 薄情なやつ」

「俺だってな、ロダちゃんみたいに親身になってくれる子ならいくらでもそばに置くわ」

肩を叩かれた。ほんとのことだろうが。

アスみたいなガキの何がいいんだよ。


がちゃがちゃと話しながら歩いているうちに仕事場へと到着した。

ノブを捻るが回らない。開いてない、な。

「あら、珍しい。アスくんより早く来ちゃった」

「あいつ、時間間違えてんじゃねーの」

社員証をかざしロックを解除する。

室内には確かに誰もいない。うっとうしいほどの笑顔も無い。

エレノアは入口を解錠状態に固定し、自分のロッカーへと向かった。


彼女の背中を追って目に入った試験管ケースに眉をひそめる。反射的に。

一昨日完成したての状態とは違い、二晩たって液体の色素は強く濃くなっていた。色こそ鮮やかと言えるものの、それ自体は毒々しい。

「.......なあエル。お前、怪物になってくれって言われたらなれるか 」

ジャンパー型の白衣を羽織ったエレノアは色素の薄い黄色い目を細め俺を振り返った。

「そんなの、嫌。怪物になれる手段を探すのと、自分がそれになるのは全く違う。あたしはそれを使わない」

「だろうな」

俺だってごめんだ。他の奴らだって嫌に決まってる。嫌だろ。


当然の回答に驚くことも無い。

自分のロッカーを覗いてTシャツを放り込んだ。

下敷きになった4枚ほどのレポートを救出する。

これを知ったら尚更だ。


怪物を受け入れるにあたって考えられる副作用について。

これを未だ誰にも見せていないなんて、言い様によっちゃ裏切り者だ。

......言えるわけないだろ、成長能力の著しい低下なんて。

不老と言えば聞こえはいいが、それに釣られるような奴は馬鹿だ。全員馬鹿なら良かったのに。

薄情でもなんでもいい。俺に回ってこなけりゃなんだって。

..........アスが引き受けることになっても。

引け目が無い訳じゃない。まだ16だぞ、ほんとうは今からでも伝えるべきだ。


いや、どう話すんだよ。こんな絶望的なこと。

極小の変化こそあれ髪は伸びないし、治癒能力もボロボロになる。切り傷ひとつで貧血だ。

こんなことを知って尚引き受けると言うやつがいるか?

ギィ、と扉の開く音に冷や汗をかいた。レポートを捻りゴミ箱に突っ込む。多少の塩酸も添えて。

「おいニーズ、死体の処理は燃焼室でやれよな」

「あ、ああ。害の出るもんじゃねーよ」


室内に人が増えていく。

だいたい揃ってきたけどやっぱりあいつ、時間間違えてるな。

迎えに行くか....。

ため息を吐いて足を踏み出したのと同時に、また扉が開いた。

期待とは違って入室したのはドーティス社長。

作業に集中しろとのことでいつもは無視している研究員達も今日ばかりは会釈をする。

社長は全員を見回すと、頷き姿勢を正した。

「全員揃っているようだな。まずは昨日までの職務、ご苦労だった」

待てよ、1番大事なやつが来てないだろ。

「ドーティスさん〜アスくんがまだ」

俺が声に出すのより先に、エレノアが無気力に手をあげて言う。

「ああ、彼の事は気にしなくていい。別の用を頼んでいるんだ」

別の用。


再び扉が開き警備員が4人入ってきた。が、何かおかしい。見回り用の制服じゃない。

あれは....レスレプト駆除隊。

「おい、消毒は____ 」

「奥の君、こっちへ来てくれないか」

警備は俺に目もくれず、社長が指さした男性研究員へと近づいていく。

「え......はい....」

突然現れた警備の圧に身を縮めながらそいつは返事をした。

異様な空気を察しているのだろう、足取りが重い。

それをせっつくかのように後ろを塞ぐ警備が癪にさわる。

「あの、社長....」

「腕を見せてくれないだろうか」

「は....はぁ」


と、控えめにそいつが右腕の白衣を捲った瞬間だった。警備はその腕を強く掴むと手のひらを上にして社長の前へと強く伸ばした。

そして彼の手に握られていた。いつの間にか握られていたその注射器はいとも簡単に研究員の体内へと侵入した。


........は?

すぐには理解できなかった。

うめき声が耳に入ってようやく現実に引き戻される。

体を前方に折り曲げ倒れそうになる研究員の腕を警備が後ろに回し固定する。

関節のことなど微塵も気にしていない。

何が起きてる。

「っ___おい!! 」

よせ、目立つな。関わるな。

だけど。

不幸な研究員に手を伸ばした。


警備の手が俺の体を乱暴に掴む。

ドーティスは無表情で研究員を観察したまま動かない。

なんだこれ。

掴まれているのを利用し重心を傾ける。脚を振り上げヘルメットを蹴った。

俺の事を知らなかったのか、油断していたのか知らないが警備員は体勢を崩しよろけた。

拘束から逃れ研究員の体を支える。

「っおい!! 深呼吸だ....! 拒絶するな。一度定着させちまえば後でどうにでもできる。俺が....治してやるから 」

吐血の量が増えてきた。震えも酷い。こんな状態で投与しても悪化する可能性の方が高い、けどこのままにはしておけない。

「エル! 緊急解毒薬だ....!」

アスの引き出しに1番近いエレノアを振り返る。

目に入る顔はどいつもこいつも怯えきっている。

「え.....あ」

ハッとしたエレノアは真っ青な顔をひきつらせてアスの引き出しを乱暴に引いた。


その一瞬、一瞬でもよそ見をした自分を呪った。

警備の手を振りほどいたそいつは血を吐きながら俺の両肩を強く掴んできた。おい俺かよ。なんでだ。

こいつ力が強すぎる。


「___エル!! 」

「ない....!! ないのよ、どこにも....! 」

振り返ることもできずにエレノアの悲痛な叫びだけが頭に響き渡る。

「そんなわけないだろ、昨日___ 」

「ロッカーにも無い....! どこにも無いの....! 誰か____ 」

泣き出しそうなエレノアの声と、強くなる肩の痛みで気が狂いそうになる。


その瞬間、乾いた発砲音がふたつ響いた。

もう何が起きているのか分からない。

撃たれたのは俺か? 違う。

肩に込められた力がほんの少し弱くなった。

その感覚に目の前で苦しんでいるのは仲間だということも忘れて。

そいつの腹を思い切り蹴り飛ばした。生暖かい液体が頬を汚す。

乱れた呼吸に混ざってドーティスの声が聞こえてくる。

「これは....もうダメだな。次、手前の君」

耳を疑った。

ドーティスは俺を見ていない。後ろ、口元を抑え大量の涙を流す背の低い女性研究員を呼んだ。


「こんなの....っ___こんなの人間のすることじゃないわ....」

警備の手が後ずさる彼女に触れるのと同時に、反対側から別の悲鳴が上がった。

もうやめてくれ。

不幸な研究員が他の研究員へと爪をたてたのが見える。白衣の上から血が滲む。

待てよ、お前の敵はそっちじゃないだろ。

止めてやりたいのに体が動かない。近づきたくない。

エレノアは目に涙を浮かべながら女性研究員から警備を引き剥がそうとしている。

もうやめろ。

「リベルタ君。アスガルド君と親しいのは君だったか、手順も理解しているようだ。君が彼女に打つといい」

..........何......こいつはなにを。

「___っ馬鹿言ってんじゃねえ、そんなに成功させたいなら自分に打てばいいだろ....! 」

怒りに震えながらそう叫んだ。

しかし目の前の男は動揺ひとつ見せず頷いた。もちろん、俺に向かってじゃない。


視線を追って振り返った時には遅かった。

警備の手が俺の頭を、左腕を掴み机へと叩きつける。

油断の2秒後、痛んだ。

打ち付けた額ではなく、首筋が。


「____っ....! 」

血の気が引いた。

そして身体中の血液が沸騰した。

喉の奥から込み上げる異物感に腹が立って、押さえつけていた警備員を振り払った。

そいつは発泡スチロールみたいに飛んで動かなくなった。

..........なんだ......今の。


突然視界が狂った。

目に入る人間の、籠の中で羽を震わせる蝶の色が酷く濃い。

頭痛がする。

エレノアの瞳はそんなに....鮮やかだったか?

涙のせいだろうか。

綺麗だ。

_______あれが欲しい。

この、思考は。


目の端で何かが光った。正直、レスレプトの動体視力がなければ避けられなかったと思う。

割れたフラスコを振り下ろしたのは今も無事な研究員だった。

「お前....」

「わ....悪いな....ニーズ。だけどお前もいつあんなふうになるか....!」

視線を追って吐き気がした。

不幸な研究員の爪は血に染まり、眼球は色が混ざり合い濁っていた。

全て見たことがある色だ。持ち主だった者達は床に倒れ動かない。

ここにはいられない。

やられた。俺が1番避けたかった。嫌悪していた事態。どうしてこうなるんだ。

刺された首筋に手を当てる。滲む血の赤が眩しい。

警備員が麻酔銃を構えたのが見える。舐めるなよ。


先手を打たれる前に、パイプ椅子を掴んでドーティスに投げつけた。軽い。守らざるを得ないよな、お前らは。

椅子を受け止めた警備員を追い打ちで蹴り飛ばす。そいつはガラクタを巻き込んで勢いよく倒れこんだ。

隙を狙ってもう1人殴ろうとした時、肩を、背中を掴まれて勢いよく押された。

「な___っ」

そいつに大した力は無かったはずなのに、俺はいつの間にか半開きになっていた研究室の扉の外に押し出されていた。

「エル!! 」

閉じられた扉を強く叩いた。

ノブが回らない、社員証も読み込まない。あの馬鹿。

今の自分なら蹴り破れる。勢いをつけようとした矢先、大量の足音が階段から聞こえてきた。金属音もする。応援を呼ばれた、もう逃げるしかない。





さすがに息切れしてきた。あそこを曲がれば放送室。防犯映像が作動していれば中の様子くらいは見られるはずだ。

ヒュっ、と。

角を曲がった直後、顔面めがけ容赦なく飛んできた蹴りをぎりぎりで避ける。再び殴りかかってきた相手の手首を掴んで引いた。黒髪が舞う。

「おい! ロダちゃん」

名前を呼ばれた彼女は冷ややかな瞳をハッとさせ、1歩下がろうとしたがそれは叶わなかった。

「リベ....ルタさん....? やだ、私ったら、ごめんなさい。自我があると思わなくて」

自由な方の手を口元に持っていきそう言うが、言葉に反して反省の態度は見られない。

「自我って....」

しかし確かに。俺は今めちゃくちゃ我慢している。

体が、彼女の赤い目に反応しているのがわかる。間違いを犯す訳にはいかない、一刻も早くこの場を去らなければ。

「大変そうですね。助けてあげましょうか」

「......何を 」

そう言うと、ロダは手首を捻り簡単に俺の拘束から開放された。

わざと掴まれてたのかよ、可愛くねぇな。

「腕を出して動かないでください」

最近その行動をとったやつは最悪の事態に陥ったんだけどな。

そう思い身構えるも、彼女が取りだしたものを見て動揺を隠せなかった。

「そ....れは、緊急解毒薬....なんでロダちゃんが」

驚く俺の腕を掴んだ彼女は半ば強引にそれを体内へと流し込んできた。

お前らな、親子揃って雑なんだよ。

背筋に悪寒が走った直後、浮き出ていた鱗があっさりと引いていった。視界も、照明の段階が下がった。即効性に文句無し、だ。

「隠される前にいくつか回収しておいたんです。アスの成果を好き勝手させるもんですか」

ふっと息を吐いて空になった容器を懐へとしまうロダに感嘆のため息を吐く。

「頼もしいな....待て、まだ持ってるのか!? 頼む、渡してくれ 」

「....どうするんです」

「研究室に戻る。これがあればあいつも元に___ 」

「ダメです。カメラで見てましたけど、あの人達はもう手遅れ。あなたができることはありません」

「んなの分かんねえだろ」

1歩踏み出した俺を避けるように、彼女も1歩後ずさった。

「次期社長はお父さんを利用して人員の入れ替えをするつもりです。というより、今その真っ最中。決まっていたことなんです」


「何を、人員?....アスは...あいつはどうなる」

はぐらかされるかと思ったが、彼女は意外にも口を開いた。

「次の室長はアス。助手をひとり、多くてふたり迎えます。研究は終わり。これからは新体制で実践に移ります」

ジジ、と。こちらが質問する前にロダは無線に応答した。「こっちには来てない、上のフロアに逃げるはず無いでしょう。真面目に探して」

ブツっと通信を切った彼女が正面を向き直す。「出ていくなら今のうちです。C側の非常用通路が良いかと」

「待て、俺はまだ___ 」

「理解して納得している時間はありません。早く行ってください」

払いのけるような仕草で俺を急かし肩を竦める。俺は正直彼女の、この世のもの全てに興味がないとでも言いたげな冷めた目を気に入っていた。思い返せば、スパーリングの面倒を見てやったのも、彼女の意識が一瞬でもこちらに向いたのが面白かったのかもしれない。今でさえ揺るがない冷えた視線は、俺が解毒薬を奪い取ろうと、保身に走り立ち去ろうと、起きてしまえばどうでもいいことなのだろう。

「......分かった。俺はもう二度とあんたらに関わらない、後から追うなよ」

「それを決めるのは私では無いので」



___警報が鳴ったのは俺が安全な経路で2階に降りた後だった。


途中何度か下級の警備員とすれ違ったが、何も聞かされていないのか、こちらにはなんの反応も示さなかった。

思考は無限に湧いてきたが、今何一つ覚えていない。

目の前で無線を聞く若い警備員の表情が、段々と恐怖を帯びていくのをただ見つめている。あいつら俺をどんな凶悪犯に仕立てあげたんだ?

無線を下ろし、震えながら拳銃を構えた警備員に歩み寄り、自分の社員証をその銃口へ引っ掛けた。

「......今の俺からそれだけ奪えりゃ上々だろ。それとも......お前も腕の1本か2本折っておくか? 死線をくぐり抜けた感出____ 」

俺を押しのけ駆けていく警備員を鼻で笑う。

非常階段へ出て、凍える風を受けた。もう二度と戻らないし、会わないのだろう。

「あーくそ......カートン、ふたつ置いてきたな」




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