07 現地の話
バタン、と後部座席のドアを閉める。思った以上に音が響いた。電灯はほとんど見当たらない場所だった。道沿いの両端に畑が広がっている。民家の灯りが、はるか遠くに見えた。そして、その向こうには山なのか森林なのか。生い茂っている葉がかたまっていることくらいしか、わからない。
三人が見上げるのは、元ラブホ。二メートルほど先に道路のプレートはあるが、舗装がお世辞にも新しいとはいえない。きわめて粗末な道沿いの廃墟。それが、めざしていたもの。
四角い作りだな、と思った。仮にもホテルというから、もう少し大きめのものかと想像していたが、三階までしかなかった。
黒字にピンク色で縁取られた、電気が通っていない置きライト。ところどころ割れている表面には、料金表示があったのだろう。その下部に、ゴシック体のロゴで「ピンクドールハウス」。
もともとの外壁は純白だったのか。いまは排気ガスを散々に当てられても、手入れをする人が誰もいないためか……真っ黒とまではいかないが屋根のちかくまで灰色にくすんでいる。駐車場から道に向けて掛けられていたであろうゴム製の広幅のれんが、上部から乱暴に引きちぎられている。暗がりの中、よくよく目を凝らせばオレンジ色だったみたい。
建物の周りに、ぽつぽつ植えられた背の低い木々も枯れ放題だった。で、表面ガラスも電球も割れたライトもいくつか、地面から顔をのぞかせている。本来ならば他にもいくつかあったのかもしれない。盗難されたのかもしれない。
こんなところ入れるのか。っつか、ほんとに侵入するつもりなのか。絶対に俺は先輩と同僚の後ろに位置取りしよう。なにかあったら一目散に逃げやすいから。
そんなこと建物を眺めながら、呆然としていると先輩が言った。「すっごい年季、入っとるなぁ」
なんだそれ。
「えっ? 先輩、ここ初めて来たんですか?」
思わず聞いてしまった。
「そうやけど」
むすっとした声色で返事をされる。
「なんや、悪いんか」
「そうじゃなくって。何度か来られたこと、あったのかなって」
「違う、はじめて」
「すみません」
「ええって。ここな、取り壊しもできひんようやな。元々の地主も建物のオーナーも夜逃げしているらしくてな。一番はじめ、昭和のころはカラオケボックスやったらしいわ」
先輩は、こちらが聞いてもいない情報をペラペラ喋る。なにかに取り憑かれたような顔をしている。ギラギラしている眼差しは、決して落ち着いたものではなかった。紅潮しているであろう頬とあいまって、不安も期待も恐怖も混在しているようだ。
菊田はというと唇を真一文字にしていた。まるで紙のような顔いろ。スイッチを入れた懐中電灯を握る指先が、かすかにふるえている。
「行くで」
佐々木先輩が正面木製のドアに向かい、すたすたと歩いていく。なにか金属製のものを持っているようで、キラキラと光っている。俺は、どこか申し訳ない気持ちがあったけれども、菊田の後ろについた。同期の彼は速攻で振り返る。睨まれた。
「前、行けや」
「イヤだよ。なんで同行を断った人間が、真ん中を歩かなきゃならないんだ」
「ふん」
同期は軽く鼻息をあらげて前を向いた。なるべく先輩から離れないように歩く。俺もあまり離れないように、歩いていこうと思った。
先輩が木製のドアノブに手をかける。案外と簡単に開いた。錆びた金属の音がする。「閉めきんなよ」低い声で言われたので「はい」と返した。それで、一旦は外に出る。
建物の周りに枯れっぱなしになっている木を二本ほど引き抜き、何度か折った。それらをまとめてドアの下に置く。外と内のあいだ、ささやかながら出来た隙間が、わずかながら外気を入れる。
急ぎ、光の方向に行こうとする。そのとき、先輩と同期の「うわあっ!」という声がした。どすん、という音もする。
「どうした?」
声の方向へと走る。
先に行った男ふたりは目を大きく見開き、カウンター上を凝視していた。菊田が目線を動かさないまま立ち上がって、自分の尻をはたいている。
「なっ、なんや。あれ」
「う、あ、新しいものっぽいですね」
彼らが見ていたものは、わりと新しめのビスクドール。ガラス製の目玉が、懐中電灯の光を反射して緑に光った。メイド服を着ているようだったが、本来ならば頭に乗せられる白っぽいレースが首元に乱暴に巻かれていた。せっかく着せられた服が上から下までボロボロに破かれている。靴下さえも履かされていない。けれども首から上は、ぴかぴかに磨かれているようで。まるで生きている子どものようだ。
生々しくて不気味な人形から眼を背けた。俺とは真逆の反応を示したのは先輩だったようだ。
「日本の人形とは、違う迫力があんなぁ……」
直後、菊田と先輩の形相が、それぞれ強烈に変わっていた。先輩が口を開くよりも先に、同期が大声で叫ぶ。
「先輩! もう帰りましょうよ!」
「なに言うとんねん、ここまで来たのに」
「ヤバいですって! ここ!」
菊田の全身が、ガタガタと震えている。唇が青い。
「なにがヤバいんや。二階に行くで」
「聞こえへんかったんですか! 女の声!」
「幻聴やわ、そんなん」
菊田の必死の形相とは逆に、佐々木先輩はヘラヘラと薄笑いを浮かべている。「気にしすぎやわ。女か、おまえら」
同期は口から泡を飛ばす勢いで言う。
「気にしすぎちゃう! あっちの方から、ほんまに聴こえててんって! 笑ろてる声が! あっち!」
菊田は大声で言い、懐中電灯を動かした。その先、白い光に照らされた首を吊っている女の身体がブラブラと揺れているのが一瞬だけ視えた。まばたきをしたら、消えてしまったけれども。
女は首を吊っているにもかかわらず、顔は上げて俺たちを見ていた。感情のまったくない眼で。剥いた眼の色は、なぜか濃い緑色をしていた。
「あっ」
俺も思わず声が出た。しかし先輩は「なんもないやんけ」と言い、わずかな光を頼りに歩き出そうとしている。二、三歩すすんだ先輩が振り向いて、凄んでくる。
「おい、電気ないと歩かれへんやんけ」
ゾッとするほど、つめたい声。
しかし、菊田と俺は首を横に振った。
「もう行かん、先輩だけ行けばいい」
同期が言うと、詰め寄ってきた。右手のレンチを振り上げる。菊田が、それを素早く払う。カラン、という音と、先輩の歯ぎしりする音が入り混じる。
「なにしてくれてんねん!」
暗がりの中でも佐々木先輩の憤怒の形相が明確にわかる。今にも殴られそうになるが、その相手はひらりと体をかわした。
拳を空振りした先輩は、床へと転ぶ。菊田は苛立つ感情を抑えもせずに、吐き捨てる。
「これ以上は、付き合いたないわ。俺らは帰る」
同期は持っていた懐中電灯を、先輩の側へ置いた。そして、黙ったまま先輩のパンツのポケットをまさぐった。先輩は菊田のなすがままを感情のない顔で眺めている。
車のキーが菊田のてのひらに収められる。
それから俺と菊田は同時に振り向き、出口に向かう。ひとことも、言わなかった。
先輩のいる方向から聴こえるものは何もなかった。俺たちは道に出て、無言のままで先輩の車に乗り込む。菊田が運転席にまわった。俺は、後部座席がいい。
エンジンをかけて走り出してから、しばらくして。菊田が言った。
「明日、警察に捜索願を出してくれるか? 疲れたわ。ごめんな」
「了解」
お互いが自室のドアを閉めるまで、それ以上なにも言葉は交わさなかった。
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