02 下世話な話
佐々木先輩の目が座っている。ちょっとビビった。
菊田に尋ねられたにもかかわらず、あえて先輩に顔を向ける。
「幽霊? あー。そういえば。そんな噂ありました。俺は観たことないんですけど」
こちらの言葉に、先輩が興味深そうに眉を上げる。
「半年前のアレが発端?」
「はい、たぶん。そうなんですけどねえ。俺は全然、そういう霊とか興味ないからピンとこないんですけど」
先輩がいう「アレ」とは、転勤前に俺がいた部署……経理部の男性部長と新入社員女性が屋上のビルから飛び降りた事件のことだ。
妻子ある経理部長は、経理部に配置された清楚な新人に目をつけて口説いていた。お世辞にもイケてるところなどまったくない、糖尿デブの五十二歳。強いて長所を言えば資産家の家系でお金には困らないくらいか。
そんな部長からの業務時間内外問わずのアプローチに、当然のことながら新人女性は困り果てる。社内のコンプラ委員会に通報もしていたらしい。
しかし。どこからも彼女に救いの手が差し伸べられることはなかった。
俺も含めて部署内の全員が、余計なことをしでかして仕事に影響が出ることを恐れた。見て見ぬ振りをしていた。俺に関して言えば、たかだか入社三年目の若造になにができる、ということだ。一応は名が通っている企業なのだ。地を這うような思いをしてありついた仕事を、みすみす手放すような真似が出来るわけがない。
部長に睨まれて閑職に追いやられるならば、まだいい。失職する事態にまで発展しかねないほどのことを、誰がするというのか。
経理部長は社内での立ち位置も絶妙なところにいた。現会長の娘を娶っていた。要は、あの部長に目をつけられたら退職必至ということだった。だから、経理の女子社員でさえも全員が、被害に遭っている女性の相談に乗るでもなく、かばい立てすることもなかった。
新人女性は真面目に仕事に通ってきていた。
そんな彼女の姿を見て、陰口を叩く者も現れた。
――だいたい、隙があるから部長に狙われる。
――イヤなら出社してこなければいいのに。会社に来るからセクハラまがいのことをされるのに。
――周りの影響を考えないで出社してくる、あの子が悪い。
俺は彼女と、ほとんど接点がなかった。部署内であっても遠く離れた位置にデスクが配置されていたし、毎朝の挨拶程度の面識しかない。
それでも日々日々、新人女性の顔色が悪くなっているのはわかった。あとから警察に聴いたところでは、彼女ただひとりが家族の収入源だったらしい。
そんなとき事件が起こった。
昼休み、離席していた経理部長が新人女性社員を屋上へ呼び出して、暴行したという。女性社員は衝動的に飛び降りた。
「ほんでもな? 俺が解せんのは、女ひとりがな。メタボデブの部長を道連れに……ってことやねんな」
佐々木先輩が呂律のまわらない口振りで、だけど。とても気の毒そうな表情をする。
「うーん。一応、俺らはそういうふうに警察から聞きました。っていうか、誰も昼休みに部長と彼女がいないことを不審がっていないことが異常だ、と散々に事情聴取されたんですけど」
「警察は、なんて?」
菊田がきゅうりをキムチに器用に巻きつけながら、尋ねてくる。
「一世一代、最期の力を振り絞って。必死に部長に抱きついてから飛び降りたんじゃないか、って。とても不思議なのは、部長に抵抗したあとがなかったことだと。ま、『思いを遂げた』直後だから精神的に弛緩していたんじゃないかと、俺的には考えてますけど」
「そうなんかぁ……」
先輩が顎をさすりながら、ため息まじりに言う。
「神戸でも社内中、その話題でもちきりやったよ。それからビル内で、深夜残業しているときに経理部長の声がするとか、女の人の悲鳴がするとか」
先輩が話しているあいだ、菊田は日本酒パックから手酌でコップへと注ぎ入れた。美味そうに喉を鳴らしたあと、つぶやく。
「亡くなってもなお、新人さんは経理部長に襲われているんかなあ。可哀想に。誰も相談に乗ってくれんかったってのも、なんていうか。せつないな」
「それ」
俺も日本酒をコップに注ぐ。
「すっごい反省した、俺だけかもしれないけど。でも経理部、特に女子社員がボロボロ辞めていったんだよ。あの無理心中事件から半年の間に」
「後味悪いもんな、自分らがなにしたか思い知らされる心境の極致って感じやしな」
先輩はペットボトルの緑茶に手を伸ばしている。
「科学では説明できんこと、いっぱいあるな。とにかくな、人の道に外れることは、したらあかんよな」
俺と菊田は、ほぼ同時にうなずく。
「でも、こういう話のあとって。車で廃墟に行きたくなってまうなー!」
後輩ふたり、先輩発言にズッコケた。菊田が先輩の肩をべしべしと叩いた。
「さっき『人の道に外れたらアカン』言うたばっかやないの! 他ならん、先輩自身が!」
「わはは。飲酒運転が発覚したら懲戒免職やったっけ、こないだ朝礼で言うてたなあ」
上機嫌で笑う先輩と後輩の、どつき漫才みたいな遣り取り。見ている俺も、罪悪感が少しだけ薄れる。
「ところで、廃墟って?」
俺の言葉に、他の酔っ払いたちの表情がかたくなる。
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