ピンクドールハウス
優美香
01 部屋呑みの話
「ここらあたり、あんまし治安よくないんですか? ってか寂れてるんですか? ぱっと見た印象だけ、なんですけど。あんまり生気を感じられないっていうか、自分は」
佐々木先輩が「ふん」と鼻息を軽く荒げる。
「青木よ? 俺らなら、かまへんけどな? 他の人に言わんほうがええぞ」
同期の菊田が上目遣いに、先輩と俺を見比べている。菊田を見遣ると、彼は素早く目を逸らした。
「すみません、ここに転勤になったばかりで何もわかっていなくて」
かたちばかり頭を下げると、先輩は唇の端だけをゆるめて笑った。菊田も先輩に合わせるように、大袈裟に相好を崩して俺に酒を勧める。
「今日は呑もうや。おととい、引っ越してきたばっかりやろ? 環境が変わると、いろんなことが気になっちゃうのはわかるけど。な?」
「うん」
菊田にグラスを向けると、瓶ビールを注いでくれる。入寮直後の、ささやかな飲み会の部屋も惣菜やビールの提供も、すべて佐々木先輩の提供だ。せっかくもてなしてくれるホストの気分を害するようなこと、野暮だよね。
「すみません」
もう一度、言葉に出した。佐々木先輩が目尻を下げる。
「かめへんかめへん。そりゃあ、この寮が建ってるところが悪いわ。一応は大阪や神戸に通勤する人たち向けのベッドタウンなんやけどな。都会育ちの青木には、びっくりやろなって思うもん俺も」
「そう、そうなんですよ……駅から遠いし、よけいに」
先輩と同期が声を揃えて笑い声を上げた。
「あはは、そうやわなあ。東京から比べたら、ひっそりしてるかもしれんなあ」
「でも青木? 駅まで歩くのも健康にいいよ?」
「うん、わかる。それは、俺も。運動不足解消とまではいかないけど、そう思う」
俺は菊田に頷く。佐々木先輩は、こちらの皿にサーモンのサラダを取り分けてくれる。
「あっ、すみません。なんか俺ばっかり、してもらって」
先輩が、がははと大きく唇を拡げて笑った。
「ほんでもな。仕事帰りは特に、舗装されてる道路以外は歩ったらアカンで。俺でも怖いからな。これだけ覚えとき」
「はあ」
うなずくと、菊田も先輩に同調するように頭を縦にぶんぶん振った。俺は思わず言ってしまう。
「そこまでリアクションしなくても」
「いやいや、ホンマのことやから。このところ『オヤジ狩り』っていうの? またポツポツ発生しているのが、ここらへんやから。制服の高校生が会社帰りのくたびれたオッサンを襲って、財布を盗ったりするんよ。電灯も少ないし、夏以外はイノシシが出てくる。マジで一人の夜道は気をつけたほうがええわ」
「イノシシ!」
絶句する俺を、ふたりは楽しそうに「わはは」と笑う。
「東京にはイノシシなんか、おれへんやろなー。そういえばこの前、高槻に熊が出たって噂になってたな」
先輩に菊田がうなずく。
「万が一にでも、あいつらと出くわしたら。即死確定ですわ」
「足では勝たれへんもんなー」
「そうそう」
すごいところに来ちゃったなあ……と考えこんでしまう。
「車通勤したほうがいいんでしょうかね?」
尋ねると先輩が「それな! でも一応、それが許可されてんのは課長以上やしなー」と教えてくれた。
「そっかぁ、そうなんですね」
酔いが回ってきていた先輩の呂律が、ふわふわしてきている。菊田も先輩も、顔が真っ赤だ。ふたりとも、いつのまにか。手酌のペースが早くなっている。
「俺らみたいなヒラの独身社員は駅から徒歩二十分の、こんな寮やしな。差別っちゃ差別やけど、まあ金つかわんでええか」
「そんなん言ってて先輩、この前。車、買い替えたやないですか」
「あほ、入社以来ずっと軽しか乗ってなかったやろ。あんなボロやったら福原の風俗にも行かれへんわ」
菊田が愉快そうに笑って、ビールを飲み干す。
瓶を差し出した俺に、「さんきゅ」と言って空のコップを向けてくれた。それから、彼は言った。
「そういえば青木、東京の経理部のフロア。幽霊が出たとか出ないとか聴いてんけど。おまえ見たことあんの?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます