第17話 宴の日

第十七話 宴の日



 踊りに明け暮れている間に、日はあっという間に過ぎ、宴がやってきた。

今、私はものすごく広い、大広間にいる。きらびやかに飾りつけがされ、笙や篳篥の音がゆったり流れて、人々はざわめいている。

私たちは末席に居るので、皇子と緋芽なる女性の顔はよく見えない。

なんでも、本来は御簾越しにしか人とは会わないそうなのだが、緋芽が堅苦しいのを嫌ったらしく、今日は御簾が外されている。

私たちにとっては好都合だ。

紫翫香一座の衣装をまとった私と紗枝は、紫翫の後ろに控えている。回りには、本物の一座の役者や歌い手たちが座っている。

葵と兵藤は衣装箱のなかに潜んで来ていて、今は控えの間に居るはずだ。二人は、紫翫香の演舞が始まったら騒ぎを起こし、私と紗枝がそれに乗じて皇子に近づく、という算段だ。

紫翫の背中を見つめて、私は思わず唾を飲み込む。

「そう緊張しなさんな、お二人さん」

紫翫は、こちらを振り返り、今度は一座の全員に向かって言った。

「さぁ、そろそろ出番だよ。久しぶりの舞台だ。ひとつ楽しくやろうじゃないか」

その言葉に、一座の全員がちいさく頷いた。

皇子の側に控えていた女官が、紫翫の前に来て、何かを小さな声で告げる。

衣装をひるがえして、紫翫が立ち上がり、私たちもそれに続いた。

宴の客の間を、堂々と紫翫が先頭を切ってあるく。

いつもの紫翫のお茶らけた表情はどこにもなく、その顔は自信と才能で輝いて見えた。

紫翫香一座のために、蘇芳の皇子と緋芽の前には、広いスペースが開けられている。

紫翫はしずしずと皇子の前までやってくると、膝を折って手を床についた。私と、一座の役者もそれに倣う。

「面を上げよ」

蘇芳の皇子の声……!

初めて聞いたその声は、想像していたよりもやわらかい声だった。

顔を上げるように言われても、上げてよいのは紫翫だけだと聞いていたので、私たちはずっと頭をさげたままだ。

「本日は紫翫香一座にお声かけいただき恐悦至極に存じます。陛下がお伏せりのいま、心苦しいことではございますが、殿下妃殿下のお心が少しでも晴れますよう、精一杯努めさせていただきます」

紫翫の声は鈴のようによく通り、笛のようになめらかだ。

ここで、蘇芳の皇子からのお許しがあって、全員が顔を上げ、いよいよ演舞となる、はずだった。

いきなり、想定外の細い声が、頭上から降ってきた。

「そこの、今、少しだけ顔を上げたもの。こちらへ」

え!? 私はひれ伏したまま、視線を紗枝に走らせた。すると。

あろうことか、紗枝は、頭を下げたまま、あきらかに「あちゃあ」という顔をしていた。

あわてて紫翫が割ってはいる。

「申し訳ございません、ご無礼いたしました。私からきつく言い聞かせますので……」

「怒っているわけではないのですよ、紫翫。愛らしい娘御ですから、殿下のお酌をしていただこうと思っただけです」

「しかし、妃殿下……!」

「紫翫、緋芽がそう申しているのだ。その娘をこちらへ」

そこまで言われて断る方が不自然だ。

紗枝は、私に目だけでうなずいて見せて、すっと立ち上がった。

恐ろしく予定外の展開だけど、これで、皇子の一部を手に入れることはぐっと容易くなった。

少し安心して舞の準備をしていると、紫翫がささやくような声で話しかけてきた。

「困ったわね」

「でもこれで、紗枝が自然に、皇子に触れることができるかも……」

「だからよ。葵と兵藤くん、このあと騒ぎを起こすことになってるんでしょう? このまま静かにしてくれてた方が好都合なのに」

「あ……」

それ以上は二人で話すことができず、私たちは舞の立ち位置についた。

 つい、と顔を上げたとき、蘇芳の皇子と緋芽の顔を始めて目にしたのだけど、それがあまりに想像と違っていて、私は息を呑む。

暴君と、それを誑し込んだ女、というイメージを持っていたのだが、二人はそんなイメージとはかけ離れていた。少なくとも、見た目は。

蘇芳の皇子は、とても優しい目をした青年で、『気品』と『威厳』が人の形になったらこうなるんだろうな、なんて思った。

隣に座る緋芽は、色白で細面の、やわらかい雰囲気をまとった女性で、どこか儚い感じがした。

と、観察できたのはそこまでで、シャンと鈴がなり、紫翫の歌が始まった。

「しおのやま さしでのいそぉに すむちどり……」

 手を上げる、回る、羽ばたく……。

いつもどおりの所作をこなしながら、ちらりと蘇芳の皇子を盗み見る。

隣には紗枝が控えているが、皇子よりも緋芽の方が、親しげに紗枝に話しかけている。

「……かよぅちどりの なくこえに……」

 ここで、止まる、紫翫は舞う……。

斜めにうつむいたまま、動きを止める。紫翫はなおも歌いながら舞い続ける。

この体勢では、紗枝が見えないのがじれったい。そして、演舞がはじまったのを知った兵藤と葵が、いつ騒ぎを起こすか気が気でない。

せめて、この曲がおわるまでは何もしないで居てくれれば良いのだけど。

「……いくよぉ ねざめぬ すまのぉ せきぃもりぃ」

紫翫の声が遠くへ去るように小さくなり、最後に鼓が高い音を打って、最初の演目が終わった。

一瞬の静寂のあと、拍手と賞賛の声が溢れかえる。

紫翫は、スターにふさわしい華やかな笑顔をふりまき、優雅なお辞儀をくりかえした。

感嘆の声をたっぷりと受け止め、場内が少し落ち着くと、次の曲のために紫翫は部屋の隅へ小道具を取りに向かった。私や、次の演目の準備のいらない役者はその場に正座し、目を伏せて支度が整うのを待つ。

私は必死で、紗枝と皇子の様子を観察していた。悟られないように、少しだけ視線をあげ、耳をそばだてる。何かを話しているようだけど、内容がなかなか聞き取れない。

髪を撫で付けるふりをして、耳の後ろに手をかざすと、紗枝の言葉が聞こえた。

「……に、髪がついております。お取りしてよろしいですか?」

紗枝が、果敢にも目的を遂げようとしている……!

私は息さえもとめて、続く言葉を待った。

「頼む」

蘇芳の皇子が答え、紗枝が、彼の肩から髪をつまみあげる。

手に入れた、成功だ。

緊張で震える手を握り締めて耐え、大きく息を吸い込む。

けれどその息を吐くことはできなかった。

「取った髪を返しなさい」

蘇芳の皇子が、紗枝に向けて、手のひらを差し出していた。


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