迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔と旅人(三)


 父を殺めた双子の兄を探している──。

 ドルジェの口から吐蕃とばん語で滔々とうとうと述べられた旅の目的は、オトの口伝えを介して日本語に訳され、良嗣よしつぐの元へと伝えられた。

 三人を照らしていた太陽はいつしか西の果てへと去り、深い闇が高原を包み隠していた。清らかな雪解け水をたたえた翡翠色の湖も、西の彼方にそびえ立つ白き山脈も、全てが夜に飲み込まれていく。天に散りばめられた燦々さんさんたる星月は、良嗣とオト、二人の視界に欠片も映っていない。全ての瞳はドルジェが懐から取り出した小刀に囚われたままだった。


「なあ、それって──」


 小刀を差したオトの指先は微かに震えていた。細やかな意匠が施された銀色の鞘は、焚火の炎光を受けて輝きを増していた。


「十歳を迎えた日、兄とともに父から授かりました。大昭寺ジョカン御加持おかじを受けたそうです。こんなにも早く形見になってしまうとは思いませんでしたが」


 やっぱりだ、おんなじだ。無音のまま動いたオトの口が告げた。面構えを崩すことなく黙していた良嗣も、真一文字に結んだ唇を微かに曲げた。二人の胸の内に湧き上がった疑惑は限りなく確信に変わりつつあった。

 ドルジェはせきを切ったように事の経緯いきさつを語り続け、その都度オトから良嗣へと一言一句が伝えられていく。温和なドルジェに似付かわしくない不穏な言葉以上に、瓜二つの小刀を携えていた野晒しの骸の記憶が、二人の心を強く惑わせていた。


「父と兄のいさかいは、そう珍しくもありませんでした」「兄は仕事こそ真面目にすれども奔放な性分で、昔気質かたぎの父とは折り合いが付かないことが多くて」「その日の言い争いも、いつもの事だと呆れて気にも留めていませんでした」「工房に戻ったら物言わぬ父の姿がありました。辺りには当てがねや金槌、他にも様々な工具が散らばっていました」「工房の床に広がった血は土と混ざり合って、酷く濃い色をしていました」「父の菩提ぼだいを弔うことこそが何より大切だとわかっています。それでも居ても立ってもいられず、枕経の最中に飛び出しました」「一目散に馬を駆って北を目指す兄の姿を目にしたと街で聞き、だから僕も北を目指しました」「所詮、僕はまだ独り立ちできていない見習いです。たった一人の師匠を失った今、できることは何もありません」「だから僕はあいつを──」


 立ち昇る炎が揺れる。胸の中が暴れ出し語気と呼吸が荒くなる。二人は肩で息をするドルジェの陰った顔を覗き込み、小声で言葉を交わした。


「血が上ったか。一旦休ませよう。聞く耳を持ちそうか」

「んー、どうだろうな……? 一応、頼んではみるけどさ」

「話はドルジェが眠ってからだ、いいな」

「……わかったよ」


 鋭く伸びた爪が当たらないよう、オトは指の腹でそっとドルジェの額に触れた。体内で煮えたぎった血が肌を突き破って溢れ出るかのように、額は生々しい熱を帯びていた。


「あーあ、興奮しすぎだよ。メシも食ったし陽も暮れたし、もう大人しく寝とけって。あと一晩だけならおれたちが面倒見ててやるから。この真っ暗な中を松明たいまつ持ってうろつくよりは朝を待った方が絶対マシだぜ。まだ本調子じゃないんだし無理すんなよ。……な?」


 言葉遣いこそ普段通りの不遜さだったが、その声色は母親が赤子をあやすように穏やかで暖かく、柔い羽根が風に舞うように軽やかだった。

『いや』。『でも』。『しかし』。喉元から幾度も出かかった反論の言葉の数々が、行き場を失い霧散していった。氷河のように頑なだった感情がオトの声によって立ち所に溶けたことを、ドルジェは何ら不自然に感じなかった。


「……わかりました。お気遣い、痛み入ります」

「堅っ苦しいなぁ! いいっていいって、さっさと眠っちまいな」


 促されるまま天幕の中に入ったドルジェは、敷布に包まって両の瞳を閉じた。乱れていた呼吸が次第に緩やかになっていく。オトの耳に届く激しい心音は、次第に穏やかで一定の調子を保つようになった。疲弊していた身体と意識が、迦陵頻伽の妙なる声に導かれ、深い眠りへと堕ちていった証だった。



 彼方から響く野犬の遠吠えが夜の深まりを告げる。

 二人が征く高原は獣が支配する地だ。人間が生み出した秩序など通用しない。生存競争に敗れた弱者は息絶え、強者の血肉となる。生きとし生ける者の誰もが従わざるを得ない自然の摂理は、受け入れようと受け入れまいと、容赦なく旅人に襲い掛かる。その結果が示した有様を、二人は確かに目にしていた。


あいつ・・・、だよな」


 長く続いていた沈黙を破ったオトは、ドルジェが目覚めぬよう密やかな声で問い掛けた。決して伝わりようのない日本語の会話であっても、密談を知られること自体が得策でない。オトはオトなりに身の振り方をわきまえている。意図を悟った良嗣は無言で首を縦に振った。

 二人はつい先日目にしたばかりの、吹きさらしの骸を思い起こしていた。無数の禿鷹に食い荒らされて白骨を露わにしていた骸は、死してもなお鞘に納めたままの小刀を握り締めていた。精巧な紋様が刻まれた鞘と白銀色に輝く刀身は、二人の目を虜にして離さなかった。

 やがて、刀身は良嗣によって大地に突き立てられ骸の墓標となった。良嗣なりの供養にオトは読経で応えた。そのように弔いを済ませ一度は別れを告げたはずの骸へ、また新たな因縁が付いて回ろうなどと考えが及ぶはずもない。オトが吐いた堂々たる溜め息は、焚火さえ吹き消してしまう程の勢いだった。


「はぁ……。ティルブねぇ……。名前どころかつらも、それに身の上までわかっちまうとは思わなかったな」

「まだ確実とは言えないがな。刀を盗まれたか売るかして、俺たちは新たな持ち主の末路を見たのかもしれない」

「いやいや、そんな都合良い偶然あるかぁ?」

「偶然かそうでないかは、直接確かめさせれば済む話だ」


 毅然とした態度を崩さない良嗣が発した一言に、オトは思わず身体を強張らせた。


「オマエ……。まさかドルジェを連れて戻る気じゃないだろうな」


 さも当然と言わんばかりに、良嗣は普段通りの調子で淡々と答えた。


あの場所・・・・からはまださほど離れていない。犛牛ヤクの足でも一日あれば戻れる。往復二日分の食料を失うのは苦しいが、ラサまで掛かる大凡の日数を考えれば問題ない」

「ちょ、ちょっと待った!」


 咄嗟に上擦った声を漏らしたオトは、慌てて両手で口を塞いだ。天幕の中の心音と寝息に尚も変化はない。一呼吸置き、唾液を飲み込んだ後、オトは慎重な面持ちで恐る恐る告げた。


「あ、あのさ……。おれたちが見たガイコツのこと、このままヒミツにしとかないか?」

「……何だと?」


 それは良嗣にとって納得し難い、突拍子もない提案だった。秘密にする理由が一体どこにある。腑に落ちない疑問を一旦胸に留め置き、良嗣はオトの言い分に耳を傾けた。


「ドルジェには何も言わないでさ、このまま明日の朝には別れた方がいいんじゃないかな。ほら、せっかくラサの目の前まで来たんだからよ、これ以上わざわざ面倒事に首突っ込むことないって。野宿はもうこりごりだし、さっさと向かってしばらくのんびり休もうぜ」


 ひどく冗長な話し振りは、親の折檻を恐れて隠し事をする幼子の仕草に似ていた。わざとらしく余所余所しい振る舞いから良嗣が抱いた違和感の原因に、思い当たる節は唯一つしかない。

 オトだけが察し取り、胸の内に秘めている何か・・が存在する。

 確固たる疑念こそが、良嗣がオトに寄せている信頼の証だった。


「……話してくれ。お前はドルジェに何を感じた?」



【迦陵頻伽の仔と旅人(四)へ続く】

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