迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔と旅人(三)
父を殺めた双子の兄を探している──。
ドルジェの口から
三人を照らしていた太陽はいつしか西の果てへと去り、深い闇が高原を包み隠していた。清らかな雪解け水を
「なあ、それって──」
小刀を差したオトの指先は微かに震えていた。細やかな意匠が施された銀色の鞘は、焚火の炎光を受けて輝きを増していた。
「十歳を迎えた日、兄とともに父から授かりました。
やっぱりだ、
ドルジェは
「父と兄の
立ち昇る炎が揺れる。胸の中が暴れ出し語気と呼吸が荒くなる。二人は肩で息をするドルジェの陰った顔を覗き込み、小声で言葉を交わした。
「血が上ったか。一旦休ませよう。聞く耳を持ちそうか」
「んー、どうだろうな……? 一応、頼んではみるけどさ」
「話はドルジェが眠ってからだ、いいな」
「……わかったよ」
鋭く伸びた爪が当たらないよう、オトは指の腹でそっとドルジェの額に触れた。体内で煮えたぎった血が肌を突き破って溢れ出るかのように、額は生々しい熱を帯びていた。
「あーあ、興奮しすぎだよ。メシも食ったし陽も暮れたし、もう大人しく寝とけって。あと一晩だけならおれたちが面倒見ててやるから。この真っ暗な中を
言葉遣いこそ普段通りの不遜さだったが、その声色は母親が赤子をあやすように穏やかで暖かく、柔い羽根が風に舞うように軽やかだった。
『いや』。『でも』。『しかし』。喉元から幾度も出かかった反論の言葉の数々が、行き場を失い霧散していった。氷河のように頑なだった感情がオトの声によって立ち所に溶けたことを、ドルジェは何ら不自然に感じなかった。
「……わかりました。お気遣い、痛み入ります」
「堅っ苦しいなぁ! いいっていいって、さっさと眠っちまいな」
促されるまま天幕の中に入ったドルジェは、敷布に包まって両の瞳を閉じた。乱れていた呼吸が次第に緩やかになっていく。オトの耳に届く激しい心音は、次第に穏やかで一定の調子を保つようになった。疲弊していた身体と意識が、迦陵頻伽の妙なる声に導かれ、深い眠りへと堕ちていった証だった。
◇
彼方から響く野犬の遠吠えが夜の深まりを告げる。
二人が征く高原は獣が支配する地だ。人間が生み出した秩序など通用しない。生存競争に敗れた弱者は息絶え、強者の血肉となる。生きとし生ける者の誰もが従わざるを得ない自然の摂理は、受け入れようと受け入れまいと、容赦なく旅人に襲い掛かる。その結果が示した有様を、二人は確かに目にしていた。
「
長く続いていた沈黙を破ったオトは、ドルジェが目覚めぬよう密やかな声で問い掛けた。決して伝わりようのない日本語の会話であっても、密談を知られること自体が得策でない。オトはオトなりに身の振り方を
二人はつい先日目にしたばかりの、吹きさらしの骸を思い起こしていた。無数の禿鷹に食い荒らされて白骨を露わにしていた骸は、死してもなお鞘に納めたままの小刀を握り締めていた。精巧な紋様が刻まれた鞘と白銀色に輝く刀身は、二人の目を虜にして離さなかった。
やがて、刀身は良嗣によって大地に突き立てられ骸の墓標となった。良嗣なりの供養にオトは読経で応えた。そのように弔いを済ませ一度は別れを告げたはずの骸へ、また新たな因縁が付いて回ろうなどと考えが及ぶはずもない。オトが吐いた堂々たる溜め息は、焚火さえ吹き消してしまう程の勢いだった。
「はぁ……。ティルブねぇ……。名前どころか
「まだ確実とは言えないがな。刀を盗まれたか売るかして、俺たちは新たな持ち主の末路を見たのかもしれない」
「いやいや、そんな都合良い偶然あるかぁ?」
「偶然かそうでないかは、直接確かめさせれば済む話だ」
毅然とした態度を崩さない良嗣が発した一言に、オトは思わず身体を強張らせた。
「オマエ……。まさかドルジェを連れて戻る気じゃないだろうな」
さも当然と言わんばかりに、良嗣は普段通りの調子で淡々と答えた。
「
「ちょ、ちょっと待った!」
咄嗟に上擦った声を漏らしたオトは、慌てて両手で口を塞いだ。天幕の中の心音と寝息に尚も変化はない。一呼吸置き、唾液を飲み込んだ後、オトは慎重な面持ちで恐る恐る告げた。
「あ、あのさ……。おれたちが見たガイコツのこと、このままヒミツにしとかないか?」
「……何だと?」
それは良嗣にとって納得し難い、突拍子もない提案だった。秘密にする理由が一体どこにある。腑に落ちない疑問を一旦胸に留め置き、良嗣はオトの言い分に耳を傾けた。
「ドルジェには何も言わないでさ、このまま明日の朝には別れた方がいいんじゃないかな。ほら、せっかくラサの目の前まで来たんだからよ、これ以上わざわざ面倒事に首突っ込むことないって。野宿はもうこりごりだし、さっさと向かってしばらくのんびり休もうぜ」
ひどく冗長な話し振りは、親の折檻を恐れて隠し事をする幼子の仕草に似ていた。わざとらしく余所余所しい振る舞いから良嗣が抱いた違和感の原因に、思い当たる節は唯一つしかない。
オトだけが察し取り、胸の内に秘めている
確固たる疑念こそが、良嗣がオトに寄せている信頼の証だった。
「……話してくれ。お前はドルジェに何を感じた?」
【迦陵頻伽の仔と旅人(四)へ続く】
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