迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔と旅人(二)
西の彼方に沈み行く夕陽は、高原の空と
湖畔の傍らに組まれた天幕の外で、旅人たちは焚火を囲んで食事と会話を交わしていた。行き倒れから救われたドルジェは、せめてもの礼にと携行食の
「えぇと、
「
「はぁー、意外だなぁ。職人なんて愛想のないヤツらばっかだと思ってたよ、こいつみたいなツラの」
オトは団子状に練り込んだツァンパを口に放り込み、頬を膨らませながら隣に座った良嗣を指差した。釣られて苦笑したドルジェは一瞬だけ良嗣の様子を伺うと、笑いを誤魔化すため椀に注がれた茶を啜った。
高原の民が操る
「それにしても、お二人ともよくぞ
「全くだ! 食い物も水もすぐ無くなるし、野犬にも野盗にも狙われるしよ……。でもな、そのぶん凄いモノもいっぱい見れたぜ。例えば──
「それは興味深い。僕も一目見てみたいものです」
良嗣と口裏を合わせた通り、オトは自分たちの素性を『
二人が旅先で出会った人物に真実を明かした機会は滅多にない。わずかに言葉を交わした程度の間柄であれば尚更だ。片や、遥か東の海を越えて
「ラサの街中にも
「
「さすが、詳しいじゃないか」
「馴染み深い寺院ですから。それに先日、奉納する
「へぇ、そりゃ大したもんだな! 忘れずやってみるよ」
ドルジェは良嗣の桁外れな巨体と、流暢に通訳を務めるオトの聡明さに気を取られるばかりで、二人の素性を露ほども疑っていなかった。親子関係でないと自称する二人が共に旅する理由こそ気に掛けてはいたが、恩人に対する過度な追求を非礼と感じ、あえて深入りを避けていた。何より、好奇心旺盛で冗舌な
「おい」
重い響きが鋭く割り込む。沈黙を貫いていた良嗣がオトを呼び止める声だった。
「
「全部は不要だ。彼の素性と旅に関する話以外、程々に省略してくれ」
「はいはい、えーと──」
こめかみに右手の人差し指を押し付け、オトは記憶を反芻した。鍛金師、工房の出、ラサの大寺の様子──。吐蕃語で繰り広げられてきた会話は、順繰りに日本語に訳されていった。
「目覚めて間もないのに、随分と饒舌な男だ」
「それがフツーなんだよ、ちょっとはオマエもドルジェを見習え」
「喋り疲れるのは御免だ。……きっと、一人旅の道中で他人と話せて張り切っているだけだろう」
「まぁ、確かに嬉しさのカタマリって感じの声だからな。あながち間違いじゃないかもしれないぜ」
オトが受け取ったドルジェの言葉には、純朴な表情通り何の淀みもなく、純然たる喜びが込められていた。旅の最中に様々な
一方の良嗣は水を差す忍びなさを覚えつつも、旅人としての本分を忘れていなかった。
「そろそろ俺からも尋ねさせてくれないか」「おう、何だ何だ? おれがしっかり伝えてやるよ」
言語の不通を承知の上で、良嗣はドルジェの柔和な瞳を見据えて丁寧に語り掛けた。たとえ言葉が通じなかったとしても、意思を伝える意思を放棄してはならない。若かりし日に都の大学寮で漢語を学んだ時の教えは、四十歳を過ぎた今でも良嗣の記憶に留まり続けている。
「ラサを出てからこの湖沿いまで何日掛かったんだ? それと、南を目指せば間違いなくラサに着くんだよな?」
問い掛けの内容は、改めてオトによって流暢に伝えられた。ドルジェは顎に拳を当てて少しの間考え込むと、良嗣の切れ長な目とオトの
「馬の足で七日ほど掛かりました。荷を積んだ
回答は良嗣の予想以上に具体的で、オトの期待以上に前向きだった。思わぬ朗報がもたらした嬉しさのあまり、オトは良嗣の背中を幾度も拳で叩いた。
「やったな、あと十日もあれば着くってよ! 目印もあるから迷わないってさ!」
じゃれつく小さな手を振り払いながらも、良嗣はわずかに頬を緩め安堵の呼吸を漏らした。たとえ単なる中継点に過ぎなくとも、いよいよ間近に迫った目的地への到着は、先の見えない地平を歩んできた二人に射した確かな光明だった。
それぞれのやり方で喜びを露わにする二人に対し、ドルジェは決まりの悪そうな表情を隠すように
「本来ならラサまでご案内して、改めて丁重なお礼をすべきところですが……。申し訳ありません、先を急ぐ旅の途中なもので」
「気にすんな、別に恩を売るつもりで助けたんじゃないからさ。でも、そんなに急いでどこ行くつもりだったんだ? また慌ててぶっ倒れても面倒見てやれないからな」
「それは──」
わずかな間、水を打ったような沈黙が流れる。天幕の脇に留められた馬とヤクが同時に
「……あの、僕の
「はぁ?」
オトは片眉を上げたしかめっ面で、ドルジェの顔をまじまじと睨んだ。オトの耳が拾ったドルジェの声に、他人を騙す心や冗談は混ざっていない。奇妙な問いは間髪入れずに良嗣へ伝えられた。
「あるわけがないだろう」
「だよなぁ」
「聞き間違いじゃないのか?」
「違うって! まったく、何だってんだ」
二人は率直に否定の意を示した。反射的に漏れ出た浅い呼吸は溜息だった。落胆を隠せぬまま、ドルジェは改めて詳しい
「……双子の兄を探しているんです。名はティルブ。七日前から行方が知れなくて。ラサを出て北へ向かったとの話だけは掴んでいるのですが」
何でもないはずの発言だった。しかし、オトは言葉の端々から、柔肌を突き破るように刺激的な響きを感じた。それは声に悪しき念が混じったときに覚える感覚と限りなく近かった。
日本語の会話はドルジェの思考に届かない。語られた経緯を良嗣に訳し終えると、続けざまにオトは抱いた懸念を述べた。疑心を口振りから悟られないよう、あえて堂々とした態度を崩すことはなかった。
「何だか調子がヘンだ。さっきまでは感じなかった、
「おい、気が早いって! 待ってろ、もうちょっと色々聞いてみるから」
外れた試しのないオトの
「ごめんな、ほんとに知らないんだよ。誰かとすれ違う機会なんてしばらくなかったし、名前もウワサも聞いた覚えがないしな」
「いえ、こちらこそ無理を言って申し訳ございませんでした。万が一にでもすれ違っていたらと期待したもので……」
「やっぱりそいつも職人だよな。どうした、仕事ほったらかして逃げちまったのか? それともケンカでもしたか?」
「はい。あいつは職人で、兄弟である以上に兄弟弟子でした。でも今は──」
逸らされたドルジェの瞳は揺らめく炎に向けられた。手に握られた椀は小刻みに震え、底に残された少量の茶が荒い波を立てる。
「師匠の、父の仇です」
オトは無言で良嗣の腕を掴んだ。柱のように
「僕はもう一度あいつに会わなきゃならない。こんな場所で立ち止まってなんかいられない。あいつを見つけて父を殺した理由を吐かせたら、喉を掻っ切って薄汚い
ドルジェは懐の中から小刀を取り出し、抱えた思いを託すかのように強く握り締めた。複雑な模様が刻まれた銀色の鞘が、炎が放つ光を反射して怪しく輝く。
二人の記憶の中に眠る頭蓋骨が肉と
太陽は地平線の彼方へ去り、今にも姿を隠そうとしている。
【迦陵頻伽の仔と旅人(三)へ続く】
※1 文成公主 七世紀中期の人物。吐蕃王国(今日のチベットに位置する)を樹立した王:ソンツェン・ガンポに嫁いだ唐の皇女。
※2 チューメ ヤクの乳を原料とするバター製の灯明。
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