迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔は西へ
のざわあらし
前日譚・番外編
迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔の憧憬
闇に包まれた
立像が発する威圧感を物ともせず、オトは良嗣の側に座り込み、口に干葡萄を放って頬の中で転がした。少女の舌を虜にする
「まさか
もたつく口元から発せられたオトの
「案ずるな、
二人が訪れている
オトが導くまま
「南無阿弥陀仏」
繰り返される念仏に立像は何も応えず、ただ二人を見下ろすばかりだった。
祈りは良嗣の日常に根を下ろしていた。
一方、祈りの傍でオトは長髪を振り乱し、良嗣と立像の顔を幾度も見返していた。
「ん──……」
「どうした?」
良嗣は眉間に皺を寄せ、腕組みするオトを凝視した。
「いや、何かさぁ……。ひひっ、きぃひひひっ!」
無邪気な声が石窟内に響き渡る。オトは良嗣の顔を前にして、一層激しく引き笑いを続けた。
「おい、何が可笑しい!」
「ひひひひっ……!だ、だって!似てんだよ、顔!顔っ!それに雰囲気も!」
呼吸を乱したまま、オトは良嗣と立像の顔を交互に指差した。
仏像染みた面構えをしているな。かつて時の
図星を突かれた一言に、良嗣は頬を紅潮させた。急
「適当なことを」
「本当だって!光栄だろ、ひひひっ」
「誰が光栄なものか」
決まりの悪さを誤魔化そうと、良嗣は目を伏せながら
視線が捉えた立像の足元には、先客達が残した数多の蝋燭が置かれていた。皆背丈は低く不恰好だが、芯は辛うじて生き永らえていた。良嗣は着火済の蝋燭を鷲掴みにして、手当たり次第に炎を分け与えていった。太い指に流れる溶けた蝋の熱は、分厚く硬化した皮膚が頑なに拒んだ。
灯りの数が増え、石窟が強い光で満たされていく。
すると、天井の暗闇が青く晴れ渡り、岩壁に余す所なく描かれていた極彩色の壁画が全容を現した。
「おぉ」
先刻の冗談も干葡萄の味も忘れ去り、オトは興味深そうに周囲を見渡した。噂に名高い莫高窟の壁画は、幼心をも掴む程の麗しさを秘めていた。
青空の中に描かれていたのは、絢爛豪華な
「探してみるか」
「何を?」
「
外套に包まれたオトの背中を、良嗣はそっと叩いた。分厚い手を
極楽浄土に住まう
「ん」
オトは良嗣の外套を掴み、繰り返し引っ張った。
「上の方、よく見えないんだよ」
要求に余計な言葉は不要だった。良嗣はオトを担ぎ上げて左肩に座らせた。他人に足先を見せないため、また幼い身体を労るための配慮は、いつしか逞しい止まり木を作り上げていた。
青空に触れられる程の高さから、改めてオトは同族の姿を探した。翼を持たぬ
「あ!いた!あそこっ!」
「どこだ?」
「左の角っこの方!で、赤い服着てるやつの少し上!」
細指が示した先には、翡翠色の羽衣を身に纏い、頭上に
壁画の迦陵頻伽とオトを見比べながら、良嗣は淡々と意趣返しを放った。
「……似ていないな」
「似ててたまるか!あんな
オトは皮肉の込もった正論を返すと良嗣の肩から降り、土色の外套を捲って隠した姿を露わにした。膝下は骨のように細く、足先は鋭い鉤爪が光り、背に伴うは白き翼。迦陵頻伽としての有様は、信頼の置ける相手にしか晒していない。
砂埃を気にも留めず、オトは石窟の床に寝転がって呟いた。
「飛べたらなぁ」
再び遠く離れてしまった青空に、小さな両手が伸びる。
「ああやって飛べたらさ、吐きまくった海だって薮だらけの山道だってクソ暑い砂漠だって、全部無視して行けたのに。コソコソ隠れ回らなくたっていい。誰にも邪魔なんてされない。おれを呼んでる方へ真っ直ぐ向かってやる」
純粋無垢な
オトの翼は空を知らない。幾枚もの羽根は毟られたように抜け落ち、羽ばたきさえもままならず、癒える気配は一向に見られなかった。
壁画の如く空を飛べさえすれば、危険を冒して密航を試みる必要も、出会う理由すらも存在しなかっただろう。座り込んで思考を巡らす良嗣の背中を、小さな手が勢いよく
「ばぁーか!寂しがるなよ!置いてきゃしないって、おれ無しじゃここまで来れてないだろ」
「大した
冗談めいた大口を、良嗣は否定しなかった。
人間離れした精緻な感覚が拾っていたのは、西の彼方から響く歌に限らない。オトは海風の調べを詠み、嵐の被害が最小限に留まる航路を陰ながら良嗣に口添えした。瓜州へ至るまでの陸路でも、差し迫る危機の予兆を次々に察知した。オトの助力で脱した窮地の数は、枚挙に
「でも、おれだけじゃここまで来れてない」
「……ああ、そうだな」
娘を
しかし、オトとの邂逅は穴の存在を忘却の彼方に追いやり、良嗣に遣唐使団からの出奔さえも決意させた。行く先に降り懸かった火の粉は、体躯を活かした剛腕で容赦なく払い除けた。道を示すオトと切り開く良嗣。果ての見えない旅路には、互いの存在が必要だった。
「寄り道は終わりだ」
良嗣は再び腰を上げた。感傷に浸り続けるよりも手足を動かす性分こそが、歩を進める原動力だった。
「街で
「その前に昼メシだ昼メシ!羊がいいな、また葡萄も買っといてくれよ」
仕方のない奴だ、と呟きながら、良嗣は指に力を込めて蝋燭を扇いだ。巻き起こる風圧は立ち所に炎を消し去り、極楽浄土を再び暗闇へと帰した。
仄明かりが射し込む出口へ踵を返す前に、良嗣はもう一遍だけ念仏を唱えた。
「南無阿弥陀仏」
声には感情が宿る。意思が宿る。心が宿る。オトの鋭敏な聴覚が拾う良嗣の念仏からは、常に畏敬の念が欠落していた。その空虚な祈りの真意に向き合う勇気を、今のオトは持ち合わせていなかった。
「迦陵頻伽の仔の憧憬」完
〈「迦陵頻伽の仔は西へ」に続く〉
※1 約七尺半 約223.5cm。
※2
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