本編
迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔は西へ
纏わり付く人目も顧みず、二人は熱砂の丘陵を進む。その行く手を阻むかのように、ふと乾いた向風が吹いた。一本結びの良嗣の長髪と、額まで下ろしたオトの
「あぁもう畜生、鬱陶しいなぁ!」
「……」
ざらついた汗と髪を、良嗣は無言を貫いたまま振り払った。気力も体力も擦り減りつつある二人に、天に鎮座する日輪は容赦ない熱を浴びせ続けていた。
「そもそも!何で辞めたんだよ、そりゃあ確かに頭に来たけどさ」
オトは
「あんな下劣な奴を庇う連中、信用できるか」
少女相手に狼藉を働こうとした商人、そして彼の肩を持つ商人仲間に向ける忍耐と情けを、良嗣は持ち合わせていなかった。以来、商隊と袂を分かった二人は
同様の憤りを覚えているからこそ、オトは複雑な心中を隠せなかった。
「じゃあ、
陽関は堅牢な関所だ。商隊が持っていた過所──通行証を頼れなくなった以上、今の二人に通り抜ける術はない。越境が叶わなければ、海をも越えて西域を目指した旅路は水泡に帰す。
オトから向けられた冷やかな目線を逸らしたまま、良嗣は一層強く足を踏み下ろした。ぎしゃり、ぎしゃり。軋んだ砂が歪な悲鳴を上げる。
「今はとにかく進むしかない」
「通れなくちゃ意味ないだろ」
「なら、ここで乾涸びて骨になりたいか」
「ごめんだね、大体いっつも後先考えず動くからこんな目に──」
燃え上がりかけた口論の火種を、オトは唐突に打ち消した。
「そろそろお出ましだ」
オトは声を潜めて耳打ちをし、肩を四度叩いて合図を送った。良嗣は歩みを止め、掌を硬く握り締める。汗の雫が拳を離れ、乾いた大地にじわりと染み込んでいく。
直後、丘陵の奥から視線の主たちが姿を現した。刃物を手にした三人の野盗が、粗野な咆哮を上げながら立ち塞がる。
漢語とも日本語とも異なる怒声の通訳は、声色を読むオトの役目だった。
「女と有り金、置いてけってさ」
「予想通りだな」
突然の敵襲にも動じない様子に痺れを切らし、更に強く声を荒げながら三人が迫り来る。
正面から近付く雄叫び。そこに入り混じった風と砂の声を、オトは確かに拾い上げた。
振り返りもせずにオトが叫ぶ。
「後ろ!」
背後から迫り不意打ちを謀った四人目の斬撃を避け、良嗣は振り向き様に裏拳を入れる。拳打は
続いて襲い来る正面の男には、顎へ的確に掌打を当てる。脳を揺らされた男は力無く崩れ落ちた。
次々に野盗を捩じ伏せる一方で、良嗣は敵が隠し持っていた得物を読み損ねた。間合いの外から迫る素早い鞭の一撃が、オトの外套を掠めて引き剥がす。
はらりと宙を舞う、風を孕んだ小さな麻布。
そして、一枚の白い羽根。
刹那、野盗達の思考は凍り付いた。
「見たなァ」
背に傷だらけの翼。腰から下に羽毛。骨張った脚。鋭利な鉤爪。無信心な野盗達の目に映るオトの姿は、怪物以外の何者でもなかった。
すかさずオトは怯んだ男に跳び付き、爪を振るって顔面を引き裂く。同時に良嗣は残る男に迫り、腹を拳で打ち抜く。
丘陵越しの死角から二人を付け狙っていた野盗達は、膝を突いてからようやく悟った。いつの間にか自分達は、巨大な蟻地獄に囚われた獲物と化していたと。
「失せろ」
言葉の意味は届かなかったが、込められた良嗣の感情は威圧感と共に伝播した。
満身創痍の野盗達に、最早反抗する気力は残されていない。息も絶え絶えに去っていく四人を見逃す良嗣に、オトは怪訝な表情を向けた。
「何だよ、放っとくのか?」
「逃げたのは敦煌の方だ。構わない」
西を目指さぬ者とは二度と巡り会うこともない。仮にオトの存在を何者かが狙ってきたとしても、何時もの如く全員打ち倒せばいい。その意思は決して慈悲ではなく、己が強さに対する良嗣の自負だった。
「ならいいか……ん?」
オトは拾った外套をはためかせて砂を払いながら、翼を伸ばして地面を指した。
「あれ見ろよ」
血と吐瀉物で潤う砂上には幾枚かの銭貨、そして華美な意匠の竹筒が落ちていた。
良嗣は砂上に尻を付くと、慎重に蓋を開けて中身の書状を取り出した。読めもしない筆字の連なりを、オトは良嗣と共に食い入るように眺めた。
「おい、これって──」
「ああ、運に恵まれたな」
中身は確かに陽関の過所だった。偽書か盗品か、あるいはその両方か。良嗣が抱きかけた疑念は意味を為さなかった。他に何の手立てもない以上、この書状こそが唯一の頼りなのだから。
「いいねぇ、いっそ堂々と行こう」
オトは座り込んだ良嗣の左肩に陣取り、きひひ、と笑い声を上げた。
◇
天は蒼。地は黄金。狭間の山脈は純白。
陽関を抜けた先に広がる世界は、僅か三つの色彩から成り立っていた。門前で仕入れた駱駝の足を止め、しばし二人は壮麗な景色に魅入った。
やがて、オトは小さな唇を開き、瞳に映った景色を声に閉じ込めた。
──渭城朝雨浥軽塵 客舎青青柳色新 勧君更尽一杯酒 西出陽関無故人──
「……陽関を西に出ずれば、もう友はなし」
良嗣は地平の果てを見据えながら、結句を母国語で復唱した。
発せられた一言一句には、自戒の念が込められていた。朝廷の任から背いた良嗣に、踏む故郷の土はない。親しき者への再会も二度と叶わない。その覚悟を、とうに良嗣は決めていた。大波に揺られる遣唐使船で、小さな密航者と邂逅を果たした瞬間から。
「西へ行きたい、唄が呼んでる」
かつて積荷に潜んでいた少女は、弱々しく良嗣に訴えた。
粗末な服に
戸惑いながらも、良嗣は訴えを問い質した。
「そんなもの聴こえない」
「嘘じゃない、聴かせてやる」
少女は耳にした旋律を、他の船員に聞かれぬように微音で奏でた。
唄声に惹かれた良嗣は確信した。少女は幻覚でも、邪なる存在でもない。鳥の如き翼と下半身、そして妙なる声を持つ、西方極楽浄土に住まう者──
流行病に倒れた一人娘を弔った僧侶の法話が、良嗣の脳裏に蘇った。唄を深く愛していた
眼前の少女と音子は似ても似つかない。誰も音子の代わりになどなれない。全て承知の上で、良嗣は少女を大使部屋に匿い、
出会いの日からずっと、良嗣はオトの声に聴き惚れ続けていた。だからこそ今、唄と呼応するかのように流れてきた微かな響きを、聞き逃さないはずはなかった。
「……聴こえる」
「本当か!」
「ああ、何処かから……今度こそ聴こえる」
良嗣の耳を撫でたのは、威厳と気品を纏わせた幾人もの唄声。
思わず、良嗣は三色の世界を見渡した。視界に入った景色は先程と変わらず、声の出処には辿り着けなかった。
対するオトは唯一点のみを見据え、か細い人差し指を伸ばしていた。向けられた先は、南西に
「一番高い場所だ、間違いない!」
「……あそこが目的地か」
高揚するオトを横目に、柄にもなく良嗣は考えを巡らせていた。何里先で何尺の高さを誇る山なのか。人間の力で辿り着ける場所なのか。唄は本当に頂上から響いてきたのか。声の主はオトの家族か仲間か。ならば、そこに音子は──。
「行くぞ」
血気に満ちた声で邪念を払拭すると、良嗣は駱駝に
「たまには乗ってみたらどうだ」
岩石のように逞しい
「
尚も左肩に陣取ったまま、オトは首を横に振ると澄まし顔を返した。眩いばかりの陽光と、緩やかな風が運んだ砂粒が、艶のあるオトの髪に更なる輝きを散りばめる。
無邪気な少女らしい仕草を見届けると、良嗣は安堵の表情を悟られぬよう、顔を右に背けたまま手綱を引いた。仄かに上がった口角を、真横から凝視されているとも知らずに。
「しっかり掴まってろ」
これより二人が目指すは遙かなる頂。天の蒼に最も近い白。
「迦陵頻伽の仔は西へ」完
〈続く〉
※1 七尺半 約223.5cm。
※2
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