迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔は西へ

のざわあらし

本編

迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔は西へ


 入唐にっとう後の二年半で良嗣よしつぐが集めた衆目は数知れない。外套で覆われた七尺半※1の巨躯もさる事ながら、左肩に同じ出立ちの少女を乗せ帯同しているのだから、目立つのも無理はない。人里離れた砂漠を征く今でさえ、彼方から四人分の視線を向けられている程だ。


 纏わり付く人目も顧みず、二人は熱砂の丘陵を進む。その行く手を阻むかのように、ふと乾いた向風が吹いた。一本結びの良嗣の長髪と、額まで下ろしたオトの垂髪すいはつに、巻き上げられた砂が絡み付く。たまらずオトが頭を振り乱すと、濡羽色の髪と無数の砂粒が、汗ばんだ良嗣の顔にべったりと貼り付いた。


「あぁもう畜生、鬱陶しいなぁ!」

「……」


 ざらついた汗と髪を、良嗣は無言を貫いたまま振り払った。気力も体力も擦り減りつつある二人に、天に鎮座する日輪は容赦ない熱を浴びせ続けていた。


「そもそも!何で辞めたんだよ、そりゃあ確かに頭に来たけどさ」


 オトは滔々とうとうと愚痴をこぼしながら、良嗣の左頬をつねった。不惑の年を間近に控え、所々に白みを帯びた無精髭が引っ張られる。それでも良嗣は、鋭い半眼と仏頂面を微塵も崩さなかった。


「あんな下劣な奴を庇う連中、信用できるか」


 瓜州かしゅう※2の街を出た二人は、月牙泉げつがせんで遭遇した商隊と共に、西域さいいきへの玄関口となる陽関ようかんへと向かっていた──はずだった。昨晩、オトの寝具を剥ぎ取ろうとした商人に、良嗣が拳を振るうまでは。


 少女相手に狼藉を働こうとした商人、そして彼の肩を持つ商人仲間に向ける忍耐と情けを、良嗣は持ち合わせていなかった。以来、商隊と袂を分かった二人は駱駝らくだにも頼れず、徒歩での行路を余儀なくされている。

 同様の憤りを覚えているからこそ、オトは複雑な心中を隠せなかった。


「じゃあ、過所かそはどうする気だよ」


 陽関は堅牢な関所だ。商隊が持っていた過所──通行証を頼れなくなった以上、今の二人に通り抜ける術はない。越境が叶わなければ、海をも越えて西域を目指した旅路は水泡に帰す。


 オトから向けられた冷やかな目線を逸らしたまま、良嗣は一層強く足を踏み下ろした。ぎしゃり、ぎしゃり。軋んだ砂が歪な悲鳴を上げる。


「今はとにかく進むしかない」

「通れなくちゃ意味ないだろ」

「なら、ここで乾涸びて骨になりたいか」

「ごめんだね、大体いっつも後先考えず動くからこんな目に──」


 燃え上がりかけた口論の火種を、オトは唐突に打ち消した。


「そろそろお出ましだ」


 オトは声を潜めて耳打ちをし、肩を四度叩いて合図を送った。良嗣は歩みを止め、掌を硬く握り締める。汗の雫が拳を離れ、乾いた大地にじわりと染み込んでいく。


 直後、丘陵の奥から視線の主たちが姿を現した。刃物を手にした三人の野盗が、粗野な咆哮を上げながら立ち塞がる。

 漢語とも日本語とも異なる怒声の通訳は、声色を読むオトの役目だった。


「女と有り金、置いてけってさ」

「予想通りだな」


 突然の敵襲にも動じない様子に痺れを切らし、更に強く声を荒げながら三人が迫り来る。

 正面から近付く雄叫び。そこに入り混じった風と砂の声を、オトは確かに拾い上げた。

 振り返りもせずにオトが叫ぶ。


「後ろ!」


 背後から迫り不意打ちを謀ったの斬撃を避け、良嗣は振り向き様に裏拳を入れる。拳打は鳩尾みぞおちに直撃し、意表を突かれた男は一瞬で吹き飛ばされた。

 続いて襲い来る正面の男には、顎へ的確に掌打を当てる。脳を揺らされた男は力無く崩れ落ちた。


 次々に野盗を捩じ伏せる一方で、良嗣は敵が隠し持っていた得物を読み損ねた。間合いの外から迫る素早い鞭の一撃が、オトの外套を掠めて引き剥がす。

 はらりと宙を舞う、風を孕んだ小さな麻布。

 そして、一枚の白い羽根。

 刹那、野盗達の思考は凍り付いた。


「見たなァ」


 背に傷だらけの翼。腰から下に羽毛。骨張った脚。鋭利な鉤爪。無信心な野盗達の目に映るオトの姿は、怪物以外の何者でもなかった。


 すかさずオトは怯んだ男に跳び付き、爪を振るって顔面を引き裂く。同時に良嗣は残る男に迫り、腹を拳で打ち抜く。

 丘陵越しの死角から二人を付け狙っていた野盗達は、膝を突いてからようやく悟った。いつの間にか自分達は、巨大な蟻地獄に囚われた獲物と化していたと。


「失せろ」


 言葉の意味は届かなかったが、込められた良嗣の感情は威圧感と共に伝播した。

 満身創痍の野盗達に、最早反抗する気力は残されていない。息も絶え絶えに去っていく四人を見逃す良嗣に、オトは怪訝な表情を向けた。


「何だよ、放っとくのか?」

「逃げたのは敦煌の方だ。構わない」


 西を目指さぬ者とは二度と巡り会うこともない。仮にオトの存在を何者かが狙ってきたとしても、何時もの如く全員打ち倒せばいい。その意思は決して慈悲ではなく、己が強さに対する良嗣の自負だった。


「ならいいか……ん?」


 オトは拾った外套をはためかせて砂を払いながら、翼を伸ばして地面を指した。


「あれ見ろよ」


 血と吐瀉物で潤う砂上には幾枚かの銭貨、そして華美な意匠の竹筒が落ちていた。

 良嗣は砂上に尻を付くと、慎重に蓋を開けて中身の書状を取り出した。読めもしない筆字の連なりを、オトは良嗣と共に食い入るように眺めた。


「おい、これって──」

「ああ、運に恵まれたな」


 中身は確かに陽関の過所だった。偽書か盗品か、あるいはその両方か。良嗣が抱きかけた疑念は意味を為さなかった。他に何の手立てもない以上、この書状こそが唯一の頼りなのだから。


「いいねぇ、いっそ堂々と行こう」


 オトは座り込んだ良嗣の左肩に陣取り、きひひ、と笑い声を上げた。





 天は蒼。地は黄金。狭間の山脈は純白。

 陽関を抜けた先に広がる世界は、僅か三つの色彩から成り立っていた。門前で仕入れた駱駝の足を止め、しばし二人は壮麗な景色に魅入った。


 やがて、オトは小さな唇を開き、瞳に映った景色を声に閉じ込めた。


──渭城朝雨浥軽塵 客舎青青柳色新 勧君更尽一杯酒 西出陽関無故人──


 長安ちょうあんで聞き知った七言絶句しちごんぜっく──陽関を唄った別離の詩に、オトは即興で節を付けた。その旋律は梵唄ぼんばいの如く清らかで、遥かな霊峰にも届くような妙なる調べ。


「……陽関を西に出ずれば、もう友はなし」


 良嗣は地平の果てを見据えながら、結句を母国語で復唱した。

 発せられた一言一句には、自戒の念が込められていた。朝廷の任から背いた良嗣に、踏む故郷の土はない。親しき者への再会も二度と叶わない。その覚悟を、とうに良嗣は決めていた。大波に揺られる遣唐使船で、小さな密航者と邂逅を果たした瞬間から。


「西へ行きたい、唄が呼んでる」


 かつて積荷に潜んでいた少女は、弱々しく良嗣に訴えた。

 粗末な服にしらみだらけの頭は、平安京に生きる孤児達の風体と相違ない。しかし、枯れた細枝のような脚と随所が破れ傷付いた翼が、少女が人の子に非ざる事を物語っていた。

 戸惑いながらも、良嗣は訴えを問い質した。


「そんなもの聴こえない」

「嘘じゃない、聴かせてやる」


 少女は耳にした旋律を、他の船員に聞かれぬように微音で奏でた。

 唄声に惹かれた良嗣は確信した。少女は幻覚でも、邪なる存在でもない。鳥の如き翼と下半身、そして妙なる声を持つ、西方極楽浄土に住まう者──迦陵頻伽かりょうびんが


 流行病に倒れた一人娘を弔った僧侶の法話が、良嗣の脳裏に蘇った。唄を深く愛していた音子おとこは、きっと迦陵頻伽と共に天を舞い、極楽を唄で満たしているだろうと。

 眼前の少女と音子は似ても似つかない。誰も音子の代わりになどなれない。全て承知の上で、良嗣は少女を大使部屋に匿い、乾飯ほしいいと名を与えた。それは遣唐大使としての大義も、誰もが羨むような官位も、守るべき家名も捨て去り、人の世に堕ちた迷鳥の止り木となる誓いだった。


 出会いの日からずっと、良嗣はオトの声に聴き惚れ続けていた。だからこそ今、唄と呼応するかのように流れてきた微かな響きを、聞き逃さないはずはなかった。


「……聴こえる」

「本当か!」

「ああ、何処かから……今度こそ聴こえる」


 良嗣の耳を撫でたのは、威厳と気品を纏わせた幾人もの唄声。

 思わず、良嗣は三色の世界を見渡した。視界に入った景色は先程と変わらず、声の出処には辿り着けなかった。

 対するオトは唯一点のみを見据え、か細い人差し指を伸ばしていた。向けられた先は、南西にそびえる山脈の最高峰。そのつぶらな双眼に映った山は、爪にも満たない高さしかなかった。


「一番高い場所だ、間違いない!」

「……あそこが目的地か」


 高揚するオトを横目に、柄にもなく良嗣は考えを巡らせていた。何里先で何尺の高さを誇る山なのか。人間の力で辿り着ける場所なのか。唄は本当に頂上から響いてきたのか。声の主はオトの家族か仲間か。ならば、そこに音子は──。


「行くぞ」


 血気に満ちた声で邪念を払拭すると、良嗣は駱駝にまたがり、自分の背後を軽く叩いた。


「たまには乗ってみたらどうだ」


 岩石のように逞しい二瘤ふたこぶの隙間には、まだ少女一人座れるだけの僅かな余裕があった。


だ、ここの方が落ち着く」


 尚も左肩に陣取ったまま、オトは首を横に振ると澄まし顔を返した。眩いばかりの陽光と、緩やかな風が運んだ砂粒が、艶のあるオトの髪に更なる輝きを散りばめる。

 無邪気な少女らしい仕草を見届けると、良嗣は安堵の表情を悟られぬよう、顔を右に背けたまま手綱を引いた。仄かに上がった口角を、真横から凝視されているとも知らずに。


「しっかり掴まってろ」


 これより二人が目指すは遙かなる頂。天の蒼に最も近い白。




「迦陵頻伽の仔は西へ」完




〈続く〉



※1 七尺半  約223.5cm。養老律令ようろうりつりょうにおける尺貫法(一尺=29.8cm)にて換算。

※2 瓜州かしゅう  現在の敦煌とんこう

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