第2話

 三日間の旅から戻ると、思い出したように空が一気に泣き出した。土砂降りの雨が、朝から晩まで降り続き、これ以上降れば、近くの川が氾濫してしまうと、周囲では騒がれていた。

 時羽は、ただぼんやりと、降りしきる雨を眺めていた。陰間の支度をしていても、悪天候のせいで茶屋に客が来ない。主人の伊佐田も、店を閉めるか否か迷っているようだった。そんな中、時羽の意識は此処には無い。未だに意識だけ、あの旅籠・半月屋での夢のような情交を繰り返していた。

(雪様…)

 雪安も、あれから茶屋に来ていない。


『お前さん、よく帰って来たな』

旅から戻ってすぐ、伊佐田が声をかけに来た。

『…足抜けすると思いましたか?』

『そりゃ思うさ…間夫と旅に出るなんて言われちゃあ…』

『間夫…?』

『ああ、そうなんだろ?』


 間夫…。他人に言われて、初めて思い知る己の気持ちに、少し戸惑いを覚えた。確かに、今まで感じた事のない感情を、雪安に対して抱いている。でも、どうしたらいいのか分からない。あの夜、旅籠で言われた言葉。濁りの無い、真っ直ぐな瞳で言われた言葉を信じたい。

(…どうすれば、信じられる…?)


 深い溜息を一つ漏らした時、一階の方から大きな物音がした。

 襖を開け廊下に出ると、階段の下から何やら声がする。聞き耳を立てると、伊佐田と誰かが揉めているようだった。

「お客さん、此処は陰間茶屋ですよ?!遊女はいませんよ?お解りで…」

「解ってるよ…!だから来たんだッ…」

 伊佐田の言葉に喰い気味で答える男は、出立ちから何か商人のように思えた。多少呑んでいるのか、頬が上気しているように見えたが、雨に濡れた髪の下には、怒号には似合わない優男風の顔があった。

「陰間は二階だろ?」

 男が階段の手すりに手をかけたのを見て、時羽は思わず後退りした。今更ながら、客に恐怖を覚えてしまった。

「あ、待ってくださいな、すぐに用意しますから…!」

 止める伊佐田を振り払い、足音を立てながら、男が階段を上がって来る。時羽は急いで部屋に戻ろうと、廊下を引き返した。襖の取っ手に指をかけた時、背後から声がした。

「おい、あんた…陰間か?」

 恐る恐る振り返ると、さっきの男が、口元に笑みを滲ませて立っていた。

「お客さん、困りますよッ…!」

 追いかけて来た伊佐田に、男は言い放つ。

「主人、俺はこの妓を買う。いいだろ?」

「時羽を…ですか?」

「ときわ、というのか?」

 男は品定めをするように時羽を眺めると、その手を取った。

「なかなかの上玉じゃないか」

 男の振る舞いに嘆息しつつ、伊佐田は時羽に視線を送る。

「それじゃあ時羽、宜しく頼むよ?」

「はい…」

 呆れ顔の伊佐田に、時羽は伏し目がちに頷き、男と共に襖を引いた。


 部屋に入ると、男が強く身体を引き寄せてきたので、一旦それを制した。

「こんなに濡れて…風邪を引いてしまいます…」

 手拭いを広げ、母親が子供にするように男の髪を拭いてやる。

「随分と甲斐甲斐しいじゃねぇか?」

「手が、冷たかったから…」

「傘、忘れちまってな…」

「一日中、雨だったのに?」

 男が拗ねたような顔をするので、時羽はクスクスと笑ってしまった。

「ときわってのは、どんな字を書く?」

 男の掌が頬に触れて、ただの冷やかしでないのだと思った。本当に事に及びたいのだと。行燈の灯りの中で光る男の眼光は、何処か冷えている。雪安とは違う色をした男だった。

「時間の時に、鳥の羽です」

「俺は…榊宗一だ」

「榊様…」

「宗と呼べ」

「…宗様」

 名を呼びながら、潤んだ瞳で見つめ返すと、雨で冷えた唇が重なった。

「ん…ふ…ッ…」

 下唇の上を滑るように、侵入して来た舌は熱く、唇の冷たさを忘れるほどで、時羽の口内を激しく蹂躙する。その間に、振袖の合わせ目から入り込んだ手が、襦袢の上から腰をまさぐる。手は、舌を吸い合っている最中に素肌に到達し、太腿の間を分け入る。唇を解放された頃には、下の、男を受け入れる入口に指が届いていた。

「あっ…」

「此処で何人、男を咥え込んだ?俺で何人目だ?」

 思わず声を漏らすと、熱い吐息と共に鼓膜を犯され、酒の匂いが漂った。

 時羽は引き倒され、布団の上で四つ脚にさせられ、着物の裾を腰の上まで捲られた。下肢が露わになる。まるで、女を手篭めにするようだと、宗一は思った。髪を島田に結い上げ、振袖を着た後ろ姿は、若い娘にしか見えない。それでいて、どれだけ犯しても陰間は孕む事がない。

(都合がいいって訳だ…)

 宗一は雨で湿った羽織を脱ぎ捨て、枕元の通和散の袋を乱暴に開けると、手際良く一枚口に入れた。その様子は手慣れていて、遊び慣れている様子が伺えた。自身の指に溶けた通和散を纏わせると、テラテラと光るその指を、時羽の中に挿し入れる。

「あ、ぁぁ…はぁ…あ…」

 的確に指を動かされ、時羽の腰が勝手に動き始める。止めようとしても、快感の波に抗えず、腰を揺らしながら喘ぐしかなかった。

「あんた、淫乱だな…いつもこんな風に煽ってんのか…?」

 嬲るように言われ、僅かに胸が傷んだ。陰間がこんな事を気にしていては務まらないのに、何故今更、自分は傷付いているのだろうか。快感に塗れながら、時羽は違和感を覚えていた。

「慣れてんだなぁ…」

 面白がるように反応を試されて、それが次の快感を呼ぶように肌が粟立つ。

「あぁ…あ、やぁ…」

「嫌じゃねぇだろ…」

「ぁ…」

 乱暴に指を引き抜かれ、また声が漏れた。疼く身体に早く次の刺激をと、粘膜が欲している。どんなに蔑まれようと構わないとさえ…己の中が蠢く感覚に息を詰め、陰間は男を待つ。


「あぁッ…!」

 宗一に後ろから押し広げられ、熱く硬く脈打つ魔羅を、時羽の襞が歓迎する。荒く抱かれても、身体は悦ぶ事しかしない。好きな場所に鬼頭が当たれば、嫌でも感じてしまうのだ。

「あ、や、そ…こ…あぁ…あ…」

 不意に宗一の手が、勃ち上がり首を振る時羽自身を握った。

「勝手にイクなよ、いいな?」

「…んッ…やぁ…」

「耐えろ…」

 脚の広げ、上半身を伏せた状態で後ろから突かれると、魔羅が狭い所を奥まで抉り、ひっきりなしに声が漏れる。しかも、達する事を禁じられ、悦に身悶え、視界はぼやけていく。

「あぁ…や、だ…こん、なぁ…」

 ゾクゾクとした疼きだけが、内腿辺りをうろついて、その先に行けない。もどかしさに気が触れそうだった。時羽は振り返り、涙を浮かべ、宗一に訴える。

「まだ駄目だ」

 冷ややかに言いながら、腰を突き上げる。

「ああぁッ…」

「あんたさァ、前を強く握ると後ろが締まるんだな…」

 言葉で犯しながら、同時に激しく腰を打ち付ける。中の弛緩と締め付けを味わいながら、浅く、深く、胎内を陵辱していく。女が相手の時より背徳感に満ち、胸中を欲望に逆撫でされる。握っている時羽自身も、硬度が増し熱を帯びて、そろそろ限界が近いようだった。

「も…お願い…は、なし…て…」

 震えた声で懇願され、宗一は時羽の芯を解放した。その代わりに、時羽の腰を両手でしっかりと捕らえ、身体の深部を抉った。

「や、あああぁッ…!」

泣き叫ぶような喘ぎに劣情を刺激され、手加減無しに攻め立てた。

「…あ、そんな…に…し、あぁ…あ、あぁ…」

「時羽…そんなに悦いか?」

 何度も首を縦に振る姿に、最後の追撃を仕掛ける。


「くっ…」

 締め付ける時羽の胎内に己の精を放ち、荒い息のまま魔羅を引き抜いた。時羽の身体は小刻みに震え、痙攣している。きっと、ほぼ同じ頃合いで達したのだろう。赤い布団が白く汚れている。

 宗一は、改めて見る時羽の姿に息を呑んだ。着衣のまま、下肢だけ露わにし、白い太腿に男の精液を垂らし、頬を上気させて、潤んだ瞳で横たわっている。その酷く淫らな様は、酷く美しくもあった。それが妙に恐しくなり、素っ気なく時羽から離れ、布団に潜り込み背を向けた。

「…もう、良いのですか?」

「ああ…今夜は飲み過ぎた…」

 気怠く尋ねる時羽に、無愛想な返事を返し、眠れもしないのに目を閉じた。

「…あんたも休んでいいぞ…」

「え…?あ、はい……」

 執拗に抱いた割りに、呆気なく事が済んで、時羽は少し拍子抜けした。精に塗れた半身を清浄し、乱れた着物を直してから、改めて宗一を振り返る。宗一は背を向けたまま、微動だにしない。そっと片手を伸ばしかけ、途中でやめた。何となく、今はこのままにしておいた方がいいと思った。朝まではまだ間がある。時羽も宗一の隣に横たわり、闇を見つめた。

(雪様は、今頃どうしているだろう…)

 他の男に抱かれた後だというのに、何を考えているのかと、少し自虐的になる。それでも…瞼の裏にちらつく面影が消えないのだ。


 いつの間にか、耳に障っていた雨音が聞こえなくなっていた。

 まるで、夕立のような情事だった。



***



 呉服屋の桔梗屋と言えば、飛ぶ鳥を落とす勢いで、急成長を遂げた大店である。

「どうりで羽振りがいい訳だ…」

 帳簿を指で弾きながら、伊佐田は何度も深く頷いた。

 榊宗一は、その桔梗屋の跡継ぎ、若旦那だという事が後に判った。ひと月程前に祝言を挙げ、嫁を貰ったのだが、当の本人は一向に落ち着く気配がなく、気紛れに店から消えては、遊び歩いているらしかった。伊佐田は新妻が不憫だと言いながら、時羽に持ちかける。

「あの若旦那が常客になれば、うちにとっては都合が良い。だから時羽、お前さんの手管でどうにか出来ないかい?」

「手管だなんて…あまりしつこいと逆に嫌われますよ…」

 そんなもんかねと、伊佐田は茶屋を開ける準備に取りかかった。時羽も二階に上がり客を待つ。


 窓の向こう、紫色と茜色が重なる空が切なく見える。簡単なものだ人間なんて、心情一つで見え方が変わるのだから。

(雪様……)

 同じ言葉だけが、頭の中で繰り返される。狂ったように、何度も、何度も…反芻している。考えれば考えるほど苦しくて、やめたいのにやめられない。また心の中、あの黒い水に浸かってしまう。

(どうして、あれから来てくれないんだろう…?)

 次第に涙が滲んで、時羽は頭を振った。これから客を取るというのに、こんな状態ではいけない。何かを祓うように、胸の前で一度柏手を打った。

「時羽?どうしたんだい?」

 我に返って顔を上げると、開いた襖から、伊佐田が覗いていた。

「あ、いえ、何でもありません…」

 慌てて居住まいを正すと、伊佐田が明るい口調で言う。

「早速おいでなすったよ、あの若旦那」

「え…?」

(宗様が…)

 少し戸惑った声を洩らすと、伊佐田は嬉しそうに頷いた。そして、頼んだよと襖を閉じ、軽い足取りで去って行った。宗一の素性が知れてから、伊佐田の態度が掌を返したように変わった。商売人としては、その方が良いだろうが、時羽はどうしてもついて行けなかった。


「よぉ」

 再び襖が開き、そこに立つのは、口元に笑みを湛えた宗一だった。

「いらっしゃいませ…」

 三つ指をついて頭を下げていると、頭上で鼻で笑う声がした。

「顔、上げろよ…他人行儀だなァ…」

聞き覚えのある声に従うと、顎を捕らえられた。

「一度寝た仲じゃねぇか?」

 間近で見る宗一の瞳は、やはり冷たい光を宿し、時羽を写している。今日も濡れているのかと思い、そっと髪に触れてみた。

(濡れてない…)

 宗一の腕が時羽の腰に回り、耳を噛んだ。

「何だ…もう欲しいのか…?」

 舌が、耳の中に侵入する。

「あッ…」

 さっきまで、あんなにも雪安の事を想い焦がれていたのに、宗一の舌先一つで、容易く塗り替えられてしまう。簡単な身体だと、自分自身に呆れた。

「今夜はシラフだ…だから、たっぷり抱いてやる…何度でも、な?」

 背筋が寒くなる恐怖と、激しい快感への期待が入り混ざり、肌が過敏になっていく。はだけた胸を吸われ、崩れた脚を着物の外に晒して恍惚に染まる。露わになっていく時羽の白い肌に触れる度、宗一の理性は何処かへ行きそうだった。酔ってもいないのにまさかと、少し意地になる。

「なァ、時羽…?何を考えてる?」

 肌を舐めながら問いかける。

「宗様の事を…」

「本当か?」

「他に、何を考えると言うんですか…?」

 時羽も宗一の乳首に吸い付きながら、脚の間に手を伸ばし、魔羅を優しく指で撫で上げた。

「…んッ…」

 唸るような声が、宗一の喉から聞こえ、時羽は抱き付きながら唇を重ねた。

「どうぞ、滅茶苦茶にしてください…」

 潤む眼差しに煽られて、折り重なるように褥に堕ちる。舌を絡ませ、どちらの唾液か判らなくなる程貪った。宗一の荒々しい腕の中、時羽は思う。こんな日は、酷くされる方がいい。何も考えられないくらい、痛みを伴う快楽に溺れてしまえばいい。そうしていれば、いつかまた朝が来るから…それまでどうか、忘れさせて、抱き潰して欲しい。幾度となく宗一の精を受け止め、時羽も、それと同じくらい精を放った。はしたない嬌声を上げ続け、いつの間にか意識が途切れていた。


 身体が軋んで目が覚めた時には、すでに深夜だった。肘をつき、腕の力だけで布団から這い出した。傍で寝息を立てている宗一を横目に、幾重にも散らばった布の中から、自分の襦袢を探し手繰り寄せた。それを羽織ろうと膝立ちになった時、内腿に嫌な感覚を覚えた。

「…っ」

 息を詰めて、自身の口を手で覆った。また、喘ぎを零しそうになる。さっきまでの情交を思い出すように、時羽の肚に注がれた宗一の精液が、後から後から内腿を伝う。こんな事にさえ感じて、なんて淫らな身体なのかと思う。息を殺しながら、己から溢れる他者の体液を懐紙で拭い、濡れた手拭いで清め、ようやく一息ついた。

 ふと、外の空気が吸いたくなり、窓の戸を半分ほど開けた。室内の熱を逃がすように、風が滑り込んで心地良い。窓辺に座り、暫くぼんやりとしていた。


「…時羽…」

 唐突に名を呼ばれ、顔を上げた。真っ先に宗一を見たが、横たわった状態で微動だにしていない。時羽は立ち上がり、窓の下を見下ろした。茶屋の前、桜の木の陰に人影がある。

(誰…?まさか…)

 時羽は身を乗り出し、その人影を凝視した。影も時羽に気付いてか、窓の真下まで動いた。

「時羽か…?」

 その声に、胸が張り裂けそうになる。叫びたい気持ちを抑え、声を潜めた。

「雪様ッ…」

「…今、大丈夫か?」

 時羽は宗一を振り返り、寝ている事を確認する。

「はい、少しなら…」

「実は…父の容態が悪くなり、外出が困難になっていた…やっと昨日辺りから、落ち着きを取り戻した所だ…」

 暗くてよく見えないが、時羽は頷きながら聞いているようだった。

「来てやれなくて、すまない…また、必ず会いに行く…」

「はい…お待ちしています…」

 時羽の声が、幾分震えているような気がした。

「だから…心変わりしないでくれ…」

 時羽は、落ちそうになるのも構わずに、手を伸ばした。雪安も、その手を握ろうと手を伸ばす。けれど、あと少しの所で届かない。


「時羽ァ?どうしたァ…?」

 気怠い男の声が、二人の空気を引き裂いた。二人同時に伸ばしていた手を戻す。時羽が振り返ると、寝起きの宗一が怠そうな目で見ていた。

「外の…風に、当たりたくて…」

 勤めて平静を装って、時羽が答える。

「…んな格好して、落ちるぜ?」

 あくび混じりに話す宗一を前に、時羽は必死に言葉を探していた。

「あんまり、気持ちが良くて、つい…」

 宗一は、一糸纏わぬ姿で立ち上がり、窓辺に近付いて来た。時羽が何か羽織るように言ったが、全く気にしていないようだった。そして、窓下を覗く。

「あ?何だァ…侍か?」

 雲から出てきた月が通りを照らし、去って行く雪安の後ろ姿を鮮明にする。時羽は、祈るような気持ちで、その背中を見送りながら、宗一には何も気取られぬようにと、願った。

「もう気が済んだろ?」

 強制的に視界を遮るように、宗一に雨戸を閉められ、時羽は夢から醒める思いがした。  そして、全裸の宗一に抱き締められる。

「朝まで添い寝しろ…」

 耳元で命ぜられ、それに従うしかなかった。


 それから褥の中、何度もうつらうつらする度、接吻を浴びせられ、いつの間にか眠りに落ちて行った。



***



 「雪様」というのは、誰だ?


 あの夜以来、そればかりが脳内で浮遊している。時羽は陰間なのだから、間夫の一人や二人、いてもおかしくない。それくらい予想の範囲内だ。けれど…何故か面白くない。気に入らないのだ。

 宗一は憮然としながら、縁側に腰掛けていた。店の羽織に袖を通しているが、やはり今日もやる気が無い。頭にあるのは商売の事ではなく、交わった陰間の姿ばかりだ。

(知ってるさ…俺は商売に向いてない…)

 頭を無造作に掻きながら、庭の陽だまりで目が止まる。次に会いに行った時、何を話そうか。そう言えば、まだ、ろくに会話もしていない。すぐに抱いてしまい、抱き潰して夜が明ける。何故か、いつも余裕が無い。こうして明るい陽の光の下にいる時なら、何の焦りも感じない。今ならきっと、向かい合って話が出来る。でも…空が夕闇の色に変わり、部屋に行燈が灯り、艶やかな振袖と白い首筋、紅を引いた唇が薄く開き、黒目がちの目で見つめられたなら…次の瞬間には、褥に押し倒しているだろう。

 サラリと風が吹き抜け、軒下の風鈴が、季節外れの涼やかな音色を奏でた。後ひと月もすれば、紅葉が見られるようになる。夜の訪れも早まり、人肌も恋しくなってくるだろう。

 秋は、月夜。月夜に、時羽を抱いていたい。

(そういや…あの夜も月夜だったな…)

 黒髪の髷が揺れる後ろ姿。袴を穿いた腰には、大小がしっかり差してあった。あれは紛れもなく侍の出立ちだった。

 宗一は立ち上がると、羽織を脱いで畳み始めた。そして自室に向かい、羽織を風呂敷で包み、足袋を履き、小綺麗な草履で出掛けて行った。

 昼下がりの空はよく晴れて、昏い欲望も、どうにか抑えてくれそうな気がした。


 夏の名残りを残す日差しが眩しく、まるで行手を阻むかのように思えた。これ以上深入りするなと、忠告しているのかもしれない。

(ただの好奇心だ…)

 宗一は、武家屋敷が建ち並ぶ鏡町にいた。もし怪しまれたら、店の羽織を出して、御用聞きを装えばいい。そんな策を巡らせた所でふと、気がつく。わざと自分を偽らずとも、実際に商人なのだから、御用を聞いて注文を取っても何の不思議もないのだ。そんな事にさえ気づかず、成りすます事を考えるなんて、やはり自分は商いに向かないと、宗一は溜息をついた。

 昼間だというのに、鏡町は人気がない。

 屋敷を囲う背の高い白い壁が、果てしなく続いているように見える。迷い込んだら帰れなくなりそうで、僅かに寒気がした。いや、でも、そうしたら、商人をしなくて済むのかもしれない。叶いもしない想像でぼんやりしていると、突然人影が視界に飛び込んだ。慌てて白壁の影に隠れる。

「雪安様ー!お待ちくださーい!」

 響き渡る声に、耳を疑った。

(ゆき、やす…?)


『雪様…』


 息を潜める宗一の中で、時羽の声がこだまする。

(まさか…!)

 白壁の影からそっと通りを覗くと、袴姿の後ろ姿がそこにあった。艶のある髷が風に揺れている。通りの向こうから、小柄な初老の男が、息を切らしながら走り寄って来た。

「雪安様…こちらをお忘れです…」

「ああ、すまない…では、行って来る」

「はい、お気をつけて…」

 宗一は、二人のやり取りを聞きながら、羽織を包んでいる風呂敷包みを握り締めた。おそらく袴姿の方が武士で、初老の男は屋敷の使用人だろう。やがて、武士らしき男は去って行き、使用人の男は来た道を引き返して行った。

 袴姿の背を暫く見つめ、宗一は、使用人の後を追いかけようと通りに踏み出した時、爪先に何が触れた。

(何だ…?)

 足元を見ると、女物のような櫛が一つ落ちていた。拾い上げてみると、それは上等そうな柘植で出来ており、翼を広げた鳥が彫られている。裏を返すと、文字が刻んであった。

櫛の端と端、一文字ずつ。

「時」と「羽」。


 宗一は、拾った櫛を懐にしまい、すぐに使用人の男を追った。



***



 店に帰り着いたのは、陽が暮れてからだった。本当はもっと早く帰れたのだが、人気のない寺で、暫くぼんやりとしてしまった。拾った櫛を見つめながら…。

 人目を避け、勝手口から中に入り、薄暗く長い廊下を歩いていると、今、最も会いたくない人物と出くわした。

「またフラフラしていたのか、お前は」

 帳簿片手にじっとりと睨んでいるのは、桔梗屋の大旦那、つまり宗一の実父である。

「まったく…たまには注文の一つも取って来たらどうだ?」

 苦々しく小言を言う実父の眼前に、一枚の紙を差し出した。

「何だ、これは?」

「注文…取って来た」

 実父は紙を手に取ると、目を見開いた。

「何処で取って来た?」

「鏡町…三条邸より、喪服の注文だ。なるべく早く、仕立ててほしいそうだ」

 実父は目を丸くして、宗一を見た。

「納品の際は、俺が行く…」

 そう告げると、宗一は無表情のまま自室に向かった。


(それ所じゃねぇよ…)

 懐にしまっていた櫛を取り出すと、途端に無表情が崩れた。

 あの後…使用人を追った後、宗一はある屋敷に辿り着いた。

 白壁にどっしりとした門構えは、如何にも武家屋敷という風格だった。風呂敷包みを広げ、店の羽織を着て、辺りを探索していると、丁度門から人が出て来た。先程とは違う男だったが、身なりから使用人のようだったので、声をかけた。すると、これから呉服屋に行くつもりだったと言う。理由を尋ねると、近々喪服が要るかもしれないとの事。宗一が詮索すると、当主の容態が良くないと明かした。年齢的に仕方がないと、使用人は零すのだ。さらに探りを入れてみると、次の当主は既に決まっているので、その点では安心だと笑みを見せた。

「次の当主というのは、雪安様で?」

 とぼけた調子で宗一が聞くと、使用人は片手を横に振った。

「いやいや、雪安様は御次男ですから…」

 その瞬間、心の奥をざらりと削られる思いがした。武家の次男というのは、後継ぎ争いを避ける為、一生独身を通すと聞いた。

(それじゃ…奴は自由って事か…?)

 それからは、記憶が曖昧だった。おそらく、使用人の注文を無心で帳面に書き付け、愛想笑いを浮かべながら、その場を去ったのだろう。


 時羽を、奪われてしまう。

 薄ら寒い恐怖が、荒波のように心中に押し寄せる。後ろ姿しか知らない男に、酷く嫉妬していた。自分には無い、自由を持った男。生涯独り身でいられるなら、時羽を身請けし、囲う事も出来る。そして、ずっと傍に置く事も…宗一には到底無理な話だった。手の中の櫛を再び見つめる。この櫛を時羽が受け取ったら、身請けされてしまう。そしたらもう、時羽に触れられない。

 宗一は座敷で膝をついたまま、暫く呆然としていた。




 夜になると、鈴虫の声が聴こえる。夜風も、大分秋めいて涼しい。

 白い素肌を抱きながら、鎖骨に囁く。

「お前に…渡したいものがあったのだが…何処かで、失くしてしまったようだ…」

「何を…失くしたのですか…?」

「それは……秘密だ…」

 互いに小さく笑いながら、二体の身体の隙間を埋めた。



***



 此処は、何処だ?


 真っ黒な空間で、黒い水に腰まで浸かっている。水は冷たく、骨まで凍える。歩こうにも、両足は鉛のように重く、思うように前に進めない。


 何なんだ?!

 くそっ、一体どうなってんだ!


 顔を上げると、視線の先に白いものを見つけた。それは、白地の振袖を身に纏った時羽だった。表情は無表情だが、唇に引いた真っ赤な紅が妖艶で、宗一は、誘われているような感覚を覚える。白い着物に白い肌の時羽、そして一点の赤。振袖がまるで白無垢のようで、花嫁と見まごう美しさだった。


 時羽っ…!


 視線を奪われてもやはり足が重く、走る事は叶わない。その間に、時羽が踵を返してしまう。


 待てッ…行くな…!!


 滑るように去って行く時羽の隣に、もう一人、誰かが寄り添った。紋付き羽織の袴姿の長身、黒髪の髷が揺れている。見覚えのある後ろ姿だった。途端に脈が加速し、胸が苦しくなる。


 嫌だッ、時羽ッ…!時羽…!!


 紋付き羽織の男が、ゆっくり振り向きかけた時、目の前が真っ黒に塗り潰されていった。



 目覚めた時、空は白み始めていた。

 冷や汗で湿った寝間着が不快で、珍しく早々に起き出した。

 空に浮かぶ白い三日月は、あと少しで消えてしまいそうだ。袂からあの櫛を取り出すと、さっきまでの夢が、色鮮やかに蘇って胸を焦がした。全てを、捨ててしまいたい。店も、妻も、自分が自分で在る事も…別の誰かに成り代わり、違う人生を送りたい…もっと自由で、魂が喜ぶ人生を…。叶わぬ夢と、苦悩ばかり抱えて、何が幸せと呼べるのか。

 宗一は、早朝の縁側で独り、項垂れていた。


 それから宗一は、連日連夜、同じ夢を見るようになった。夢の内容はいつも変わらないのに、心身は日に日に衰弱していくようだった。それを気力で振り払い、黙々と店の仕事をこなした。主に帳簿の整理や、売上の管理など意欲的に取り組んだ。その様子に実父は面食らったが、やる気になったのならそれに越した事はないと、宗一の好きなようにやらせた。

 そうして宗一は、店の裏にある、鍵の付いた蔵へ行く機会が増えた。以前より頻度は減ったが、時々ふらりと出掛けるのは相変わらずだった。ただ、昼間は真面目に働いている事と、前のように酔って帰る事がなくなった為、誰にも注意されなくなっていった。


 懐にはいつも、あの櫛を忍ばせながら……。



***



 秋の夕陽は、本当に美しい。

 朱色、橙色の濃淡が幾重にも折り重なり、灰色の雲が筆を走らせた空は、優れた才能のある浮世絵師にも描けないだろう。


 宗一は独り、町外れの稲荷神社へ向かっていた。

 最近では、真面目な仕事振りのせいで、出掛けても咎められない。動き易くはなったものの、不本意で哀しくなった。誰も、自分の本質や本音など、どうでも良いのだと。実の親でさえ、我が子が何を思っているのかなんて、取るに足らない事なのだ。ただ仕事だけしていれば、言われた通りに働いていれば、他は要らない…傀儡で在れば良いという事だ。


 ふと我に返ると、赤い鳥居は目の前に迫っていた。足を止め、辺りを見渡す。聞いた話では、稲荷神社の祠の裏に入口があるらしい。しかし、裏手に回ってみても、そこには木が生えているだけで、入口らしいものなど見えない。

(何だよ…本当にあんのか?)

 宗一は半信半疑ながら、木の幹の間を擦り抜けるように奥へ進んだ。それほどに突き動かされる想いがあった。

 陽の光が届かないくらい奥へ行くと、引き戸のようなものが現れた。真っ黒に塗られたそれは、一見壁に見える。

「これは…」

 恐る恐る手探ると、指が窪みに引っかかった。そして、意を決して引いた。


「やあ、いらっしゃい…」

 ゆったりとした声と共に視界に入ってきたのは、ぼんやりとした行燈の灯りと、狐…狐の面だった。

「いやぁ…久々のお客さんだねぇ…どうぞ?」

 招かれて警戒しながら、およそ店とは思えない店内に、宗一は足を踏み入れる。

「あんたが、店主か?」

「ええ…僕一人だけですよ」

 面妖な男だった。顔の上半分を白い狐面で隠し、黒髪を肩上で真っ直ぐに、まるで禿のように切り揃えている。そして、黒無地の着物の上に、女物らしき派手な花柄の羽織を着ていた。

「今日は、何をお探しで?」

 そう聞かれて店内を見渡すが、六畳ほどの部屋には商品棚もなく、品物とおぼしき物が何も置かれていない。唯一、部屋の隅に、黒塗りの背の高い箪笥が置いてあるだけだった。

「…どんなものを、御所望で?」

 言葉を探せずにいる宗一に、店主は聞き方を変えた。

「…惚れ薬、というか…」 

「ほぅ…」

 気恥ずかしさで俯いたが、店主は驚きもせず頷いた。

「俺無しじゃ…いられなくなるような…」

「それは…情交において、という事で?」

「…ああ」

 店主は何度か頷くと、箪笥の引き出しを開け、何かを探し始めた。

「御相手は、女の方?」

「…いや、男だ…」

「はいはい…なるほど…」

 店主は慣れているのか、やはり淡々と引き出しを探る。

「あ、あった、あった…」

 口元に笑みを浮かべながら、宗一の眼前に小さな瓶をかざした。透明な小瓶の中の液体は薄紫色で、紫陽花の花に似た色だと思った。

「それは、何だ?」

「藤雫という媚薬の一種です…特に男同士の色事で、良い効果をもたらしてくれます」

狐店主の口元が笑っている。目も笑っているのだろうか。面の下は、やはり見えない。

「どうやって使う?」

「惚れさせたい御相手は、下になる方でしょうか?」

「…ああ、そうだ」

「ならば…」

 面の赤い隈取に囲われた目が、細く笑う。行燈の火が、僅かな音を立てて揺らめいた。



 幼い頃、逢魔が刻に出会うのは、人だけではないから気をつけなさいと、言われた事があった。

 宗一はその日、小さな瓶を一つ、妖から買い取った。



***



 皮膚の感覚がやけに過敏で、気がついた。

 媚薬を盛られた、と。


 陰間などしていれば、行為に薬や張り型を使われる事も珍しくない。きっと、さっき口を付けた盃に仕込んであったのだろう。

「宗様…」

 宗一の袖を引いて見つめると、その表情で察したらしい。

「効いてきたか…?」

 着物の上から触られても、何言か零れそうになる。それを知りながら、敢えて強く腰を抱き寄せてくる。

「宗、様…」

「さて、どうしてやろうか…?」

 接吻を待ち切れず、時羽は、迫る宗一の唇に舌を這わせた。そのまま首に腕を絡ませ、吸い付いた。

「んっ…」

 水を湛え潤む瞳、上気する頬、熱い吐息に開く唇…狐屋の言っていた事は確かだった。



『ほんの一滴、何かに混ぜて飲むと、身体の至る所が潤ってきます。受けの方なら、後ろの具合も柔らかくなり、行為がし易くなります。』



 身じろぐだけで、肌に触れている着物や襦袢の質感さえ、ただの快感に変わってしまうようで、時羽の指先が小刻みに震えている。その様を愛でながら、振袖の帯を解いた。

「今、悦くしてやるから…待ちな…」

「は、やくッ…」

 宗一の衿を掴んで、幼子のように首を振った。脱がしながら口吸いしてやると、身体をいちいち痙攣させ、透明な糸を引いた唇で、もっと欲しいとせがむのだった。

(淫乱なのか初々しいのか、分かんねぇな…)

 宗一は口元を緩ませながら、時羽の白い肌に掌を滑らせる。

「あッ…んっ…ぁ…」

「時羽…俺だけ見てろ…」

「宗…さ、ま…」

 震える膝を割ると、時羽がそれを拒絶するように、宗一の腕を掴んだ。

「や…見ない、で…」

 願いを無視して、時羽の脚を掴み褥に転がした。仰向けにして、掴んだ脚を広げさせると、着物の中が露わになる。

「や、だ…」

 狐屋の言葉が、脳裏を過ぎる。


『陰間など、後ろを使う事に慣れている身体ならば、其処がまるで女陰のように濡れ、前戯が不要になるかもしれませんね…』



 ニヤリと口角を上げていた、狐店主を思い出しながら、宗一は息を呑んだ。

 其処は、いつも狭く閉じていて、こじ開けるように侵入していたが、その入口が今、紅い口を開け、氾濫を起こし、襦袢を濡らしていた。好奇心を駆り立てられ、開いた紅い口に指を挿入してみる。

「あ…だ、めッ…」

 言葉とは裏腹に、時羽の腰が揺れ始める。前の方にも触れると、鈴口から溢れた涎で、全体がドロドロで、勃ち震えていた。

「あんた、慣れてっからな…余計に辛いんだな…」

 宗一は時羽に覆い被さり、耳元で囁いた。

「このまま挿れてやるから…」

 時羽は何度も大きく頷き、自ら脚を開いた。


「あぁぁッ…」

 招くように、既に開いている恥部に容赦なく侵入する。入口の様子から、中も緩いのかと思ったが、内部はやけに締め付けてくる。

(なるほどなァ…)

 受け入れ易く、快感を与え易くなる。だからこそ、受け側に有効という訳だ。そして、媚薬を飲んだ当人も、感覚が過敏になり、悦を得易くなる。

「あぁッ…宗さ……」

 襞を削るように、魔羅で擦り付けると、時羽は涙を零して唇を震わせた。喘ぐ暇も無いくらい腰を使ってやると、声にならない声を上げ、時羽は己を放った。それでも止まらずに突き上げ続けると、またガクガクと全身を痙攣させ、果てるのだった。

「や、だぁ…おかし、く…なる…」

「おかしくなれよ…俺のせいで…俺に、狂え…」

 理性が失われていく、頭の芯がぼんやりと霞んで、性的感覚以外が欠落していく。このまま堕ちて行けたら、どんなに幸せだろう… このまま、このまま、快楽の奈落へと…。

「俺の事だけ考えろ…時羽ッ…」

 切羽詰まったような宗一の言葉が、耳元で繰り返される中、時羽の意識は現を置き去りに揺蕩う。それでも悦に溺れる身体は、腰をくねらせ、脚を絡ませて宗一を求めた。

 夜露で濡れた藤の花が、風に吹かれ雫を落とすよう、後から後から溢れ出る。繋がっても尚止まらず、動く度、濡れた音を立てて煽情する。時羽が背を反らすと中がきつくなり、宗一は喉を鳴らした。

「時羽…あんたを囲ってもいいか…?」

 陰間と客の間で、交わす契りは絵空事。

「俺だけのものに…時羽…」

 叶わぬ夢、叶わぬ想い。重ねた身体の数だけ重ねる嘘。我を忘れ喘ぐ時羽の瞳には、何が映っているのか。

 時羽の身体を掻き乱しながら、ふと行燈に目をやると、傍らにあの櫛が落ちていた。着物を脱いだ時に飛び出したのだろう。常に懐に入れてあったから、取り出すのを忘れていたのだ。それを眺めながら、時羽の腰を深く抱いた。

「あ、あぁッ…も、やぁ…あぁぁ…」

 泣いて啼きながら、吐き出すものが無い状態で、空のまま絶頂に達する。そのすぐ後に、宗一も己が欲を時羽の胎内に放った。

 意識を失いかけながら、全身を震わせる時羽の目を盗んで、櫛をそっと自身の着物の下に隠した。


 外からはもう、虫の声は聞こえない。静かな夜だった。吹く風も肌寒く、生肌の温もりが恋しい季節が、いつの間にか訪れていた。



***



 晩秋の夕暮れは、釣瓶落とし。

 夕焼けを愛でる暇もないくらい、あっという間に陽が落ちてしまう。


 この所、週に一、二度は、宗一が顔を見せるようになった。不思議なもので、宗一が茶屋に通うようになると、雪安の足が遠のく、まるで示し合わせたかのように。

 そして最近では、時羽と色事に及ぶ際、宗一は必ず藤雫を用いるようになった。毎回乱れ啼く時羽の耳元で、自分のものになれと、経のように繰り返し囁くのだ。

 それと一つ、気になる事があった。宗一が店主の伊佐田に、何事か話している姿を見かけるようになった事だ。伊佐田は、早く話を終わらせたい素振りだが、宗一の方は真剣な表情で、何か訴えているようだった。つい今し方も、そんな様子を廊下の奥に見つけたばかりで、時羽は見ないふりをしていた。


「時羽…話がある…」

 いつものように酌をしようとすると、改まった様子で切り出された。

「何でしょう?」

 時羽が小首を傾げて尋ねると、膝に置かれた手を握り、真っ直ぐに見つめてくる。雪安の漆黒の瞳とは違う、鳶色の瞳。

「あんたを、身請けしたい…!」

「…え?」

 目を丸くする時羽の手を引き、抱き寄せる。

「駄目か…?時羽ッ…」

「………」

 長い沈黙の後、時羽は答える。

「身を滅ぼしますよ…?」

 脳裏で密かに思い出す。あの夜、同じ台詞を別の男に言った事を…。

「構わねぇよ…」

 どうして、二人揃って同じ事を言うのだろうか、時羽は胸が締め付けられる思いがした。求められる事は嬉しい。それなのに誰の胸にも飛び込めない、そんな自分の弱さが疎ましい。

「あんた、陰間が出来なくなったら、どうするんだ?」

「そしたら…出家します」

 時羽にとって、いつかはそうなるだろうと、大分前から考えていた事だった。少なくとも、雪安と旅に出るまでは、それだけが自分の未来だと思っていた。

「…坊主になる方が、俺に身請けされるよりマシってのか…?」

 不貞腐れた口振りに、時羽は宗一の手を握り返した。

「いえ、そんなつもりじゃ……」

 戸惑う時羽に引き寄せ、そのまま体重をかけて褥に押し倒した。ガチャンと大きな音がして、膳の上の徳利が倒れたのだと思った。

「それとも…他に好いた奴でもいるのか?」

 時羽を見下ろしながら、その手首を強く握った。宗一の鋭く熱い眼光が、心の奥を暴こうとする。

「時羽ッ…!」

 耐え切れず顔を逸らすと、首筋に噛み付かれた。乱れた裾から、白い膝が晒される。

「痛っ…あっ…」

 思考が混乱する中、拒む事なく宗一を受け入れる。心中に雪安を宿しながら、今宵も、宗一の魔羅で貫かれる。両手首を腰紐で縛られ、半ば凌辱のされるような格好で抱かれた。これで気が済むのなら…そんな憐憫を感じていた。何故人は、人の肌を欲するのだろう。どれだけ求めて、上塗るように重なり合っても、心も身体も一つにはなれないに…。

「んっ…そこ、いい…はぁ…」

「此処だろ…?」

「あぁ…もっと…んッ…」


 陰間になった時から解っていた。長く出来る仕事ではないと。いずれは何処か、安住の地を探さねばならないと。男に組み敷かれながら考えて、辿り着いた答えが出家の道だった。

 でも…憂鬱に沈みがちな精神を、あの暗い水の中から救ってくれた人…真っ直ぐな漆黒の瞳、大きくて力強い手、優しさと激しさを持つ人。


(あ…そっか…私は……)



「紐…解いてください…貴方に、触れたいから…」

 解放された手で宗一の胸を触り、指と指で乳首を愛撫した。

「…ッ…こら…」

宗一が眉を顰めると、時羽は小さく笑った。

「ずっと、怖い顔してるから…本当は、優しい顔なのに…」

 独り愉しげな時羽の不意を突き、肚の奥を一度深く穿った。

「ああッ…!」

 油断していた身体を震わせ、身悶える。

「急に…強くしない、で…」

 宗一の腕に爪を立てながら、肩で息をする。その脚を開かせ、顔を近づけた。

「あんたが悪い…煽りやがって…覚悟しろよ?」



 宗一が時羽を抱いていた日。夜明け前に、珍しく鴉が鳴いていた。



***



 葬列は無彩色の景色の中、厳かに歩いて行く。

 長い長い白壁の間を、灰色の空に見下ろされながら、道行く人は皆、道を譲り、手を合わせて列を見送った。

 雪安は、重たくのしかかるような寒空を見上げながら、白い息を吐いた。

(父上は無事に、母上の所へ行けただろうか…?)

 初夏に行った神社の御守りは、余り効力を発揮してはくれなかった。時羽と二人で参拝した事がいけなかったのか、己の心に卑しさがあったからか…などと、無意味な事を考えていた。父の野辺送りの最中にさえ、時羽の事が頭を離れない。不甲斐ない気がしてくる。ただ、自分の性質を知らないまま、父母が他界したのは、救いだったのかもしれない。息子が女を愛せないと知れば、親として落胆していたかもしれないから。

(四十九日が明けたら、時羽に告げよう…)


 葬儀は滞りなく終わり、屋敷に戻ると、下女達が皆に熱いお茶を用意していた。寒空の下を歩いて来た身体を癒やす温かさに、思わず溜息が漏れる。

 家人達が一息つく中、雪安は奉公人に別室へと呼ばれた。

「どうした?」

「あの…夏の頃に頼まれていた、別邸の件なのですが…」

「ああ…!見つかったのか?」

「はい。しかし…余りにも狭過ぎると思いまして…あれでは邸というより庵です…」

 若い奉公人は、眉をハの字にして話すので、雪安は少し笑ってしまった。

「広過ぎるよりはいい。住まうのは、一人か二人だからな…」

「左様で御座いますか…ならば、一度見に行かれますか?」

「そうだな…四十九日が明けたら、そうするか…」

 沈む灰色の空から、はらはらと雪が舞い散った。二人はほぼ同時に、それを目で追った。

「どうりで…冷える訳ですね…」

「涙雨ならぬ、涙雪か…」

 他の家人達も雪に気づいたようで、清らかな白い花弁を暫く眺めていた。

「では、その時が来ましたら、案内致します。」

「ああ、宜しく頼む。すまないな、凛太郎。ありがとう…」

「いえ、お役に立てて光栄です。」

 笑みを返し合う二人の背後で、雪は降り続いた。


 降りしきる雪の上、足跡を残す。その足跡を雪がまた、消していく。景色を白く染め上げて、音すら消してしまう白。

 今宵はきっと、静かな夜になるだろう。



***



「今日はもう、お客さんは来ないだろうねェ…」


 女将の気怠い声に、宗一は顔を上げた。

 今宵は独り、久々にじっくり飲んでいた。以前のような悪酔いはしなくなったが、酒の回りが早い気がした。さっき女将がぼやいていたのは、昼過ぎ頃から降り出した雪の事だろう。今日はしっかり傘を持参して来たから、帰りも心配ないだろうと思っていた。

「…そんなに降ってるのか?」

 宗一が尋ねると、女将は大きく頷いた。

「お客さんも早く帰った方がいいよ?店に泊める訳にいかないからさァ」

 さっぱりとした口調で言うと、厨房へ入って行った。店主である亭主と、早仕舞いする事を話し合っているらしい。

(どうするかなぁ…この後……)

 深い溜息を吐きながら、考えを巡らせた。 こんな時に限って、翌日は休日で何の予定もない。時羽の所へ行きたかったが、懐が少しばかり淋しい。

(こんな事なら、もっと金を入れて来りゃ良かった…)

 盃をあおり、また溜息を吐く。そんな事を繰り返していた。


 時羽…。

 最初はただの好奇心だった。遊女は何度か買った事があった。陰間はまだ知らなかったから買った…ただ、それだけだった。子供が新しい遊びを試すように、時羽を買った。嫌になったらやめればいい、飽きたらもう通わなければいい、そう思っていた。性欲に関する事は道楽だった。

 でも、時羽は…。

 何故こんなにも、心惹かれたのかはわからない。そういえば、時羽以外の陰間を買った事がない。いや、時羽以外、試す気になれなかった。頭の中に、時羽しかいなかったのだ。

(こんなに…溺れちまうなんてなァ…)

 どんな時に会っても、時羽はいつも同じだった。宗一が酒に酔った時も、不機嫌な時も、あの襖を開ければ、薄暗い部屋で艶やかに佇んでいる。その姿は、山中にひっそりと咲く山桜のようだった。

 遊び回っていた時も、真面目に働くようになってからも、周囲の人間が態度を変えても、時羽だけは何も変わらず、宗一に接していた。それが陰間という商売なのだろうが、心は癒され、身体も情交により深く満たされた。

(時羽……)


 出入口の戸が開く音で、宗一は我に返った。女将が暖簾を中に入れている。外された暖簾の向こう側に、ただ一面の白色が見えた。それをぼんやりと眺め、盃を口に運んだ。店内を見渡すと客は宗一と、浪人風の男が独り、店の片隅で飲んでいた。

(俺以外にいたのか…)

 また上の空になると、女将に声をかけられた。

「お客さん、悪いけど、それ飲んだら帰ってくれるかい?今日はもう店閉めるからさ…」

「そうか…まァ、仕方ねぇな…」

 気怠く答えると、女将は浪人の所へ行き、同じ事を告げた。浪人は、声を出さずに頷いていた。


 最後の酒を飲み干し、外へ一歩出ると、そこはもう銀世界だった。弱いながら、雪は未だ降り続いている。冷えた外気に身震いし、傘を開いて歩き出そうとすると、不意に声をかけられた。

「あの、もし…」

 驚いて振り返ると、浪人笠を深々と被った男が、こちらを向いていた。

(さっきの、あの浪人風情か…)

「…何だ?何か用かい?」

 宗一が答えると、浪人は微動だにせず声を発した。

「これから先は、どうか、お気をつけください…」

「あ?ああ…この雪だからな…」

「どうか…真実を、見誤りませんように…」

「……」

 意図の解らない言葉に気味が悪くなり、宗一は一歩後退った。使い込んだ笠に着古した着物と袴は、色褪せなのか汚れなのか、よく判らない色むらが無数にあった。

(何だこいつ…)

 宗一は踵を返し、雪の中を歩き始めた。



***



 サクサクと雪を踏む音が、頭の中を無にしていく。

 酔いが廻った身体はぼんやりと熱く、辺りは凛と冷え切っている。それが心地良かった。一面が真っ白に化粧を施され、此処は本当にこの世なのかと、疑いたくなるような景色だった。

(あぁ…まずい…ちと飲み過ぎたか…)

 重くなる身体を動かし、足元の悪い帰路を辿る。白い息を忙しなく吐きながら、空を仰いだ。


 純白の花弁が、落ちてくる。

 空に、吸い込まれていく。

 無彩色の世界。


 暫くの間、立ち尽くしていた宗一は、帰路から外れ、違う方向へ歩き出した。

(やっぱり…時羽に会いたい…!)

 玉代の足りない分は、ツケにしておけばどうにかなる。一見の客ではない、馴染みなのだから、店主も嫌とは言わないだろう。

(時羽…)

 あの薄暗い廊下を進み、見慣れた襖を開ければ、行燈の灯りの中に浮かび上がる姿。華やかな振袖を身に纏い、白い肌に差した赤い紅が誘う。島田に結い上げた艶やかな黒髪、長い睫毛が縁取る黒目に見つめられ、白粉の匂いに身を投じれば、現は跡形もなく消え失せる。

(時羽…時羽…)

 目の前が霞み出し、足元がおぼつかなくなってきた。酒のせいなのか、時羽への恋慕のせいなのか、それとも雪明かりのせいか、宗一はふらつきながら歩いた。


 重たくなる足を引きずり、やっとの思いで太鼓橋まで辿り着いた。この橋を越えれば、茶屋はもうすぐだ。

 一呼吸して顔を上げると、橋の途中、丁度中間辺りに人影があった。こんな雪の夜に出歩く物好きが、自分以外にもいたのかと、宗一は口元を緩ませた。いざ橋を渡り始めると、雪で橋板がスルスルと滑り、足に力を入れないと転んでしまいそうになる。慎重に歩きながら、さっきの人影に目をやると、島田髷の若い女らしき後ろ姿が確認出来た。女は川の方を向いて立ち、微動だにしない。

(妙な女だなぁ…)

 先刻の浪人風情といい、雪に惑わされているような気分だ。自身の足元に視線を移し、女の後ろを通り過ぎた時、耳元で声がした。


「宗様…」


 聞き覚えのある声に鼓動が高鳴り、咄嗟に振り返った。

「と…時羽ッ…」

 そこには、目を疑う光景が広がっていた。

真っ白な世界に、白地の振袖に身を包んだ時羽が佇んでいた。白い肌に浮き上がる赤い紅を引き、その唇は軽く微笑んでいる。

「時羽…どう、したんだ…?こんな、所で…?」

 驚きの余り、声が上手く出せない。

「貴方に…早く、会いたかったから…」

 時羽は、銀世界の中でゆっくり微笑んだ。高鳴る心臓を押さえながら、宗一は時羽に歩み寄る。足元の新雪は真っさらで、本当に此処はこの世なのだろうか。

「さぁ…宗様…」

 差し出された右手に、かじかんだ手を伸ばした。

「共に、参りましょう…」

 ゆっくり動く唇から、目を逸らせない。瞳の中が、時羽で溢れて何も見えない。そう…時羽を知ったあの日から、心は既に奪われていた。握った手の温もりから、紛れもなく時羽なのだと確信する。白地の着物に描かれた蓮の花が綺麗に咲いて、酷く美しい。

「時羽…俺は、本当に…」

 繋いだ手を引き、思い切り抱き締めた。求めていた香りに包まれて、恍惚に溺れていく。

「あんたが、好きだ……」

 身体がふわりと軽くなる…癒されていく…黒い空から零れる白い羽に覆われ、目を閉じた。



 橋の上には、開いたままの傘が雪に塗れ、落ちていた。

 白い夜は呼吸の微かな音さえも吸い、誰も触れないしじまに閉じ込める。それでも人を魅了して止まない、その美しさ故に…。


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