第53話 護ると誓ったそのときに④
ディル。
ディルの声。
会いたい、と。そう思ってしまった。
剣戟の音がいくつか聞こえ、木箱のあいだから紅い髪が踊るのが見えただけで、愚かなことだとわかっているのに手を伸ばしたくなってしまう。
駄目なのに。
ここに来させては、駄目なのに。
けれど、やはりというべきか。
すぐにこの場所まで到達したディルが私に気付く。
胸が張り裂けそうなほど痛い。でもそれは、会えて嬉しいと感じているからだ。
僅かに安堵したような表情をした彼は、眉を跳ねさせてビクリと立ち止まった。
「動けば爆発するぞ」
ディルに向けて丸腰のブルードが静かに言う。
いえ、正確に言えば毒は持っているはずだけれど、いまはなにも手にしていない。
「ッ! ブルード、お前ッ……リィゼリアは関係ないだろう!」
「ここまで関わらせておいて、よくもそんな台詞が出てくるものだ。そもそも巻き込んだのはお前だろう? 近衛騎士。まあ、そんなことはどうでもいい。アスルト殿下とお前の餌にできるなら利用するまで。政治とはときに自らの手を汚すものなのだから」
「ふざけるな! 国民を護るのが仕事だろう!」
ディルは吐き捨てると剣を構えた。
その思念が、強く、強く聴こえる。
護りたい、と。
「ディル! 先走るな!」
そこでアスルトがやってきてハッと肩を跳ねさせた。
すぐに状況を把握したのだろう。
私がそろりと首を振るのを見て、彼の双眸がぎゅっと歪む。
「ブルード、なんてことを……」
「ははっ、本当にすぐ嗅ぎ付けてきたなぁ! いま爆発させれば彼女は死ぬ。助ければ王子殿下と近衛騎士様も一緒に死ぬ。さあどうします?」
剣を抜き飄々とした足取りでディルに近寄った纏め役の男がカラカラ笑うと、ディルは憤怒に満ちた瞳で男を睨んだ。
「どっちもさせない」
「ならどうします? このまま睨み合いですか?」
「……ッ」
ディルがギリ、と歯を食い縛る。
その思念は諦めてはいない。
だけど、どうしようもなかった。
私が捕まったせいだ。
そう思う。
そっと自分の周りを確認すれば、私を囲むように撒かれた火薬は私の背後を通って導線へと続いていた。
どう倒れたとしても、手足を拘束されている私には火が奔るのを止めることはできないだろう。
顔を上げると、ディルと目が合った。
彼の紅い瞳はいつでも光が煌めき魅入られそうなほど綺麗で、それは当然いまも同じ。
聴こえる馨しい思念は〈護りたい〉という願い。〈諦めない〉という決意めいた思い。そして白い薔薇と僅かな鉄。
こんなときだというのに、いえ、こんなときだからこそ。私の脳裏にディルとの時間が思い起こされる。
この二週間は目まぐるしくて、だけどとても素敵な時間で。
作って一緒に食べた野苺ケーキはディルにとって美味しかったのかしら。
そういえば、ちゃんと聞いていなかったわね。
ディルにはいつかアーリアさんと幸せな家族になってほしい。
最初からディルは彼女を嫌ってなどいないし、怒ってもいないのだから。
そのときは彼女の野苺ケーキを私も食べてみたい。
考えると波打っていた心が凪いで、こんな状況だというのに笑みすら浮かべられる気がした。
温かくて優しい気持ちになれるのだ。
ああ、そうか。私は彼を――。
だから決意できたのだと思う。
諦めることは簡単だ。それでも、私は命を賭けて足掻きたい。ディルと一緒に。
「ディル」
私は彼を呼んで、思い切り笑ってみせた。
「信じてる」
体を揺らすようにして勢いをつける。
倒れると同時、火薬のどこか甘い香りが鼻を突いた。
一気に奔る火が私の体を焼くのだろうと、きつく目を瞑る。
だけど、信じてる。
私はディルを信じているのだ。
******
「ディル」
呼ぶ声は甘く、華やいでいて。
「信じてる」
続いた言葉が、笑顔が、体中に熱を満たした。
心が痺れるような衝撃が彼の体を突き動かす。
ああ。やっぱりあんたは想像以上だ。
ディルは足の裏にぎゅっと力を入れ、石床を蹴り抜いて飛び出す。
大きく体を揺らして倒れ込むリィゼリアの向こう、燭台が燃え上がった。
ディルは剣を投げ、リィゼリアに両腕を伸ばす。
「リィゼリアッ!」
椅子ごと抱え上げて壁際に跳ぶまでは、世界が、時間が、ゆっくりと動いているようだった。
赤く煌めきながら燃焼する火薬から酷い臭いがして、ディルはリィゼリアを庇うように抱き寄せる。
柔らかな体が、温かな熱が、腕のなかにあるのを確かめるように。
斯くして。
爆発は起きなかった。
投げた剣が導線を断ち切っていたからだ。
ディルは肺の中身をすべて吐き出して、腕に力を込める。
護れた。護れたんだ。
体を竦めていたリィゼリアがゆるりと瞼を持ち上げる。
その翠玉色をした瞳に自分を映し、ディルはその口元が緩むのを見た。
「……リィゼリア、もう大丈夫だ。ごめん、ごめんな。遅くなって」
「ディル……ああ、よかっ……」
言いかけた彼女の双眸が見開かれる。
「!」
ディルは背後に迫る気配に身を翻し、リィゼリアを床に寝かせて背に庇った。
******
「剣を手放して火種を断つとは恐れ入った! けど丸腰とは無防備だなぁ近衛騎士様!」
短剣を振り翳す男が一気に距離を詰めてくる。
「ぐっ……」
ディルが胸元にその刃を突き立てられるのを――私は成すすべもなく見詰めていた。
彼はくぐもった呻き声をこぼして男を突き飛ばし、よろりと踏鞴を踏んでからガクンと膝を突く。
「や……駄目、嫌! ディル! ディル――!」
叫んだ瞬間、アスルトが剣を閃かせて男の短剣を弾き飛ばし、そのまま刃をくるりと回して石突を顎に叩き込んだ。
「ぐぁっ、は……」
男は白眼を剥き、まだ熱を放つ火薬の上に仰向けに倒れ込む。
「――ふう。ブルード、馬鹿なことを考えるなよ。お前の主がどこにいると思う」
「なん……だと?」
「七番区画、三の五。この場所を教えてくれたのはクーフェンだ。この上が俺の部屋だということは既に知っている」
アスルトは言いながらすぐさま男の足を掴んでそこから離し、青ざめたブルードを一瞥した。
そして私のところへ来て縄を斬ってくれる。
「ディルッ……! 嫌、ディル! アスルトッ、ディルが!」
私は蹌踉めきながらディルに駆け寄り、膝を折って蹲った彼の頭を抱きすくめる。
「……う、げほっ……」
「ディル、ねぇディル……!」
短剣で胸を刺されたのだ。
どうなるかなんてわかっている。
なのに、彼はふっと小さく笑って腕を広げ、私を引き寄せると優しく抱き締めてくれた。
「あんたから、抱き締められたの……初めてだ」
「……ッ」
その囁きが優しくて、甘くて、急激に視界が揺らぐ。
ずるいわ。
こんなときに言うことがそれだなんて。
堪えきれず、大粒の雫が頬を転げ落ちていく。
「貴方が望むならまたこうするわ……だから……ディル」
「……ははっ。それは、嬉しいな……ごほッ」
馨しきは〈安堵〉と〈
「ああ、そうか。俺は……あんたを護ると誓った、そのときに……」
ディルの腕に力がこもる。
その思いに呼応したのか、さらに多くの涙がぼろぼろこぼれてきた。
「貴方の心が変わらないってこと、まだ証明してもらっていないわ。そうでしょう、ディル……」
「あんた、泣いてる、のか?」
「あッ……当たり前、でしょう? だって……だってディルが……ふ、うぅ」
もっとずっと、ずっと近くで聴いていないとわからないのに。それが叶わないなんて信じられない。
息ができないくらい苦しくて、言葉を紡ぐことができなかった。
ディルを失うなんて、きっと耐えられない。
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