第43話 第二王子の決意と証②

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 庭園は今日も心が躍るような香りで満ちていて、こんな状況じゃなかったらゆっくり歩きたいとしみじみ思う。


 私が白薔薇タスクミエッカの区画にやってきたとき、クーフェン殿下はまだいらっしゃらなかった。

 ディル曰く、いまは座学の時間。

 昼の鐘が鳴る頃に終わるそうだから、もうしばらく来ないかもしれない。


 するとディルが足を止めた。

「あれは……。リィゼリア、約束どおり俺は区画の外にいるから。なにかあったら大声で呼んでくれ。すぐに駆け付ける」

「え?」

 彼の視線を辿れば、弧を描くように手入れされた蔓薔薇の下を潜り、クーフェン殿下がこちらに歩いてくるところだった。

 ディルがいては警戒されてしまうかもしれない。そう考えた私は彼に区画の外にいてくれるよう頼んでいたのだ。

 クーフェン殿下は礼をして踵を返したディルに頷いてみせた。


「やっぱりいてくれた。座学を抜け出してきてよかった」

 

 私のすぐ目の前までやってきて開口一番そう言った彼に深く頭を下げる。

 クーフェン殿下は「そんなに畏まらないで。顔を上げて」とまだ幼さの残る声で続け、顔を上げた私に儚げに微笑んだ。

「僕の思念、聴こえる?」

「……」


 地下牢でもそうだったけれど、試されているのかしら。

 私はすぐには応えず、ゆっくりと空気を吸った。


「馨しきは〈敬愛〉と〈羨望〉。〈後悔〉と〈謝意〉。それと様々な植物と土が混ざり合った春のような香りがします」


「よかった。貴女は僕のこと、ちゃんと聴いてくれるから。ええとね、僕は尊敬して憧れているけど、同時に謝りたいとも思ってる。貴女に」

「え? 私に、ですか?」

「うん。僕、いつもなにも言えなかったから。言っても殿下はまだ子供だからって返されて。だからずっと、僕は意見も感情も持っちゃ駄目なんだって思ってた」


 やはり、傀儡くぐつというのは間違っていなかったのだろう。

 ブルードはなんて惨いことをするの。

 否定され続け、感情を押し殺すことを学んでしまったのだ、クーフェン殿下は。

 自分の思念が聴こえるのなら、この嫌悪感と憤怒が脳の奥を揺さぶったはずだ。


「貴女が『硝煙』って教えてくれて、気付いた。僕、僕の気持ちは、あのとき関所で消えたんだって」

 私はその言葉に息を呑む。

 関所、と。いまそう言った?

「あの。それは鉱石メタルム戦争でのこと、ですか?」

「うん。あの日ブルードに言われた。僕のために関所を開かせて、僕のためにあの爆発を引き起こしたって。僕を王にするためなんだと、そう言ってた。僕は僕の心に蓋をしたんだ。恐かったから」

 そう言ったクーフェン殿下の思念が引き裂かれるような哀しみを告げる。

 なにもできなかった無力な自分を卑下し、なにもできなかったことに後悔して苦しんでいるのだ。


 私は胸元でぎゅっと手を握った。


「大きな音と、煙と、炎。泣き叫ぶ、たくさんのひと。僕も見たんだ、『聴香師』。僕はもう隠していられない。どんどん溢れてくるんだ。恐くて苦しくて哀しい気持ちが」

 こんな感情をずっと胸の奥深くに押し殺し、クーフェン殿下は自分を閉ざしていたのだ。

 真っ暗ななかで圧し潰されそうになっているような恐怖と絶望。

 光のなかった蒼い瞳は、いまは哀しみに染まっている。

「クーフェン殿下……」

 それを話したくて私に会いたいと願ったのだろうか。

 私になにができるだろうか。

 俯いて考えたとき、クーフェン殿下の細い指が私の手に触れ、包み込んだ。

「あのね、よく聞いて。七番、三の五。ブルードが持っていた毒の袋に書いてあった番号だよ。僕にはなんの番号かわからないけれど、貴女の役に立つかもしれない。軍務会議で兄さんを助けて」

「え?」

 顔を上げれば、泣きそうな表情で懇願するクーフェン殿下の姿が目の前にある。

 その思念は真摯で切実な願いを如実に語っていた。

「ブルード、最近ポーリアスのひとと頻繁に会っているんだ。またなにかやろうとしているのかもしれない。僕じゃ止められない。お願いだ『聴香師』」

 思いのほか力強く手を握られているけれど、クーフェン殿下の手は冷たくて小さな子供のように震えている。


 それを見て私は、あの日の自分を重ねた。

 師匠の手を取ったあの日、私の手もこんなふうに震えていたかもしれない。

 だから。


「クーフェン殿下」


 私はその手をそっと握り返し、大粒の宝石のような蒼い瞳を覗き込む。

「大丈夫です。アスルト殿下もディルもいます。私は彼らの思念の香りを信じています。それだけじゃない。貴方もともに戦っているのです。武器を取るという意味ではなく、皆を導く王族として。貴方の思念はとても優しくて、温かくて、皆を包み込むものです。香りは嘘をつきません」

 告げれば、クーフェン殿下の瞳が潤んで揺らぐ。

 なにかを紡ごうとして薄く開いた唇からは嗚咽がこぼれた。


「……ッ、う、あり、がとう。ごめんなさ、い」


「たくさん泣いてしまいましょう? 大丈夫です、誰にも言わないでおきますから」

 そっと言うと、彼の瞳からぼろぼろっと大粒の涙が転げ落ちていく。

 私はそれを見ないように、そっと瞼を下した。


『気が済むまで泣いて、泣いて、泣けばいい。そうすればまた世界が明るく見える』


 師匠が言ってくれた言葉が聴こえた気がして、閉じた瞼の内側にぽっと明かりが灯ったように思う。

 いつのまにか、こんなに深いところまで事情に踏み込んでしまったわね。

 だけど不思議と後悔はない。

 師匠もこんな気持ちだったのかしら、と。少しだけ温かい気持ちになった。

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