第41話 赤い薔薇の香る先⑦

******


 部屋を出た私たちを見てディルが訝しげな顔をする。


「あれ、もういいのか? ん、どうしたアスルト? お前、真っ青だぞ」

「ディル。アスルトをお願い。ブルードの部屋はわかる?」

「ブルード? 突き当りを左に曲がって一番奥だったか……ってリィゼリア⁉」

 私はディルと短い会話をして酷い顔色のアスルトを押し付け、可動台トローリーも置き去りにして小走りで廊下を進んだ。


 ブルードは第二王妃様が自覚なく毒を盛ってしまったことを知っているのだろうか。

 いいえ、きっと知らないわ。第二王妃様は薬草をこっそり拝借しているようだったもの。

 それにもしブルードが知っていたなら、第一王妃様の件がバレるのを警戒して私に近付かなかったでしょうし。

 あの男は『聴香師』を恐れている。それは間違いないのだ。


 と、すれば。

 牡鹿に毒を使用したのは愚策だと思っていたけれど、前提が間違っていたことになる。

 第一王妃様が毒で亡くなったことを知らなかったから使用したのだ。


 私は廊下の突き当りまで走り切り、扉を見上げた。


 物音はしない。あとは壊してでも中に入ってシャグ茸の毒を押さえればすべてが揃う。

 ディルとアスルトを助け、ブルードを糾弾する材料がすべて。


「待てリィゼリア!」

 そこにディルが走ってきて、取っ手を握ろうとした私の腕を掴む。

「ディル、放して。ここに……!」

「いいから待てって! 焦りすぎだ!」

 彼の手を振り払おうとしたけれどびくともしない。

 左肩に痛みが奔ったけれど私は唇を噛んで耐える。

 すると彼はなにを思ったか私を引き寄せ、鼻先が触れそうなほどの至近距離で私の瞳を見詰めた。

「リィゼリア。この時間は駄目だ。ブルードと第二王子殿下は――」


「これはこれは。なにか御用ですかな?」

 

 そのときの気持ちをなんというべきか。

 背筋がサーッと冷えたような悪寒と圧し掛かるような後悔。

 第二王妃様の話を聞いて自分が想像以上に動揺し焦っていたことを思い知る。


「ブルード殿、失礼いたしました。少しお話をと訪ねた次第……え」

 ディルが言いながら振り返り、固まった。


 なんてことだろう。

 ブルードと一緒にいたのは第二王子殿下と――

「母さん? な、んで」

 ――アーリアさんだった。


 掠れた声で呟くディルの手、私の腕を掴んだままの手が、僅かに震えて。

 後悔しても遅い。私が先走ったせいでこの状況を生んでしまったのだ。

「ああ、彼女は侍女長の采配で昨日からクーフェン殿下付きになりまして」

 ディルの神経を逆撫でするような笑みを浮かべ、ブルードが妙に畏まった口調で言う。

 私は思わず息を呑み、身じろぎひとつしない彼女を凝視した。


 侍女長の采配? やはり彼女がアーリアさんを。

 つまりそれは彼女が「なにに毒が入っていたのか」知っていることを指す。

 アーリアさんの思念に赤薔薇の紅茶の香りがしていたのだから。


 考えるあいだも黙って冷たい視線を注ぐアーリアさんから〈軽蔑〉と〈嫌悪〉の香りが聴こえる。

 その最後に〈憂慮〉と乳飲み子の甘い香りが尾を引いて消えていく。


 違うのに。

 ディルが本当の息子だというのに。

 いまここで叫びたくなるほど胸が締め付けられた。


「ところで、今日も彼とは・・・ご一緒ではないのですかな?」

 さらに鼻先で笑うブルードに、私は言葉を吞み込んでぎゅっと唇を引き結ぶ。

 アスルトのことだとすぐにわかった。

 きっと彼が王子殿下ではないと確信し、失踪している前提で話しているのだろう。

 そのうえでディルを馬鹿にしているのだ。


 馨しきは〈愉悦〉と〈侮蔑〉。そして――これは硝煙。

 私の大嫌いな、あの。


 こんな、こんなやつに。

 ディルを貶されるのが酷く腹立たしい。

 私は痛む左肩を無視して咄嗟にディルの手を上から握った。

 大丈夫、一緒にいる。その思いを込めて。

「!」

 はっと息を呑んだディルは私を振り返ることなくふーっと息を吐く。

 そっと離れた手は私を背に庇うような角度で留まり、代わりに彼の思念が〈感謝〉を伝えてくれた。

「彼とはアスルト殿下のことでしょうか。些か失礼では」

 ディルの言葉は落ち着いていて、揺らぎがない。

 ブルードはそれでも笑っていた。

「アーリアから聞きましてな。なにやら彼は大変なご状況と」



「ほう? その彼とやら、どんな状況だ?」



 そのとき。彼らのすぐ近くで声がした。

 どうやらこちらも落ち着きを取り戻したらしい。腕を組み、不敵に笑うその姿が少しだけディルと重なる。

「……!」

 息を呑んだのはブルードとアーリアさん。

 アスルトはスタスタと角から出てくると彼らに歩み寄り、クーフェン殿下に視線を合わせた。

「クーフェン、健勝か?」

「兄さん。はい、兄さんもお元気そうで」

「ああ、元気だとも。お前も元気でよかった。俺は少しばかりブルードに用がある。構わないか」

「く、クーフェン殿下。このあとは座学のお時間ゆえ、私は貴方をお送り……」

「黙れブルード。俺はクーフェンに聞いている」

 ばし、と言い切るアスルトにブルードから〈怒り〉の思念が溢れ出す。

 けれどそれに混ざり、暖かな春のような優しい香りがした。


 え? これは……。


「ブルード。兄に対する振る舞いに気を付けて。僕はそちらの新しい侍女と一緒に行くよ。それでは兄さん、また」

 すっと目礼をして踏み出すクーフェン殿下の瞳がほんの一瞬、ぴたりと私に向いた気がしたのはそのときで。

 第二王妃様とよく似た夜闇のように美しく艶めいた黒髪がふわりと揺れた。

 以前とは違う光を見た気がして、私は咄嗟に思念を聴く。


 馨しきは〈敬愛〉と〈羨望〉、〈会いたい〉という願望と春のような優しい香り、そして白薔薇タスクミエッカ


 驚愕しているブルードや安堵の混ざるアーリアさんの思念とは違う。間違いなくクーフェン殿下のものだ。

 これ――まさか私に会いたいと言っている?

 去っていくクーフェン殿下とアーリアさんを見送る私をディルが肩越しに見て、ちょんと突いたのはそのときだ。

(大丈夫か、リィゼリア)

(あ、ええ。ごめんなさいディル。私のせいで)

(気にしないでくれ。俺こそ取り乱してすまなかった)

 こんなときだというのに、落ち着いた柔らかなディルの声でほっとしてしまう。

 考えるのをやめ、私は目の前で始まろうとしていることに意識を集中させた。


「さてブルード。アーリアになにをさせようとしているんだ?」

「私は侍女長の采配に同意しただけでしてな。殿下こそ私めに何用ですかな?」

「なに、俺の近衛騎士と俺の侍女が世話になった礼をと思ってな。それに」

 アスルトの瞳が眇められ、声が一段低くなる。

「正直、お前には失望した」


「……は?」


「話はそれだけだ。行くぞディル。リズ」

 アスルトの思念は痛々しいほどに苦しみ、行き場のない怒りに泣いているようだった。

 ディルは一瞬だけ私と目を合わせ、小さく頷いて踵を返すアスルトに追随する。

 私は呆然としているブルードの横を、真っ直ぐ前を向いて通過した。

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