第39話 赤い薔薇の香る先⑤
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「アスルト殿下? いらっしゃるなら遣いをくだされば」
忙しなく動き回る侍女たちのなか、一際ピリリとした雰囲気を纏う侍女長がこちらに気付く。
広い厨房は料理の熱気と様々な香辛料の香りで満ちていて、なんとも空腹を刺激する空間になっていた。
料理をするのは専門の調理師らしく、侍女たちは食器類や飲み物を準備している。
侍女長はその統括を担っているようだ。
「少し急いでいたのでな。侍女長、話を聞きたいのだが」
「話ですか? では少々お待ちくださいませ」
アスルトの言葉で、侍女長はテキパキと指示を出してからこちらに来てくれた。
けれど彼女の思念は感じない。
さすがに侍女長ともなれば大きく心を動かされるような事態でも、凪いだ湖のように落ち着けるのかもしれない。
それは即ち、自身の感情を抑えられるということだ。
私のような『聴香師』からすれば、こういったひとは天敵と言っていい。
「いかがいたしましたか?」
厨房の隅、調理師や侍女たちからは少し離れている場所に陣取った私たち。
小声で話せば内容まで聞かれることはないだろう。
アスルトは自然な素振りで近くにひとがいないのを確認し、ディルが部屋を見渡せるように半身を引いて立つ。
「まずひとつめ。母上が最後に着ていたドレスはどこにある?」
「ドレス……ですか。お汚れになっておいででしたから洗濯をいたしました」
「なら物干し場か衣装部屋に戻されているかだな。次だ、赤薔薇の紅茶に心当たりは」
アスルトが続けると侍女長は僅かに眉を動かした。
私は一瞬たりとも聴き逃すまいと身構える。
第一王妃様は彼女の前で〈糾弾〉の思念を強く残していた。きっとなにかあるはず。
ところが、彼女はすんなりと口にした。
「第二王妃様がお好きな紅茶ですね」
思念は――僅かに〈憂い〉が聴こえた程度。
彼女は自分の心をうまくいなしている。
師匠ならこの僅かな思念からでも多くを聴くことができるだろうに、情けない限りだ。
思わず手を握り締めたけれど、腐っている場合ではない。
手のひらに当たる爪が食い込むのを感じながら、私は前を向いた。
「母上がその紅茶を飲んだことは?」
「さて、どうでしょうか。第一王妃様は紅茶をあまりお召し上がりになりませんでしたから」
そういえばアスルトも言っていたわね。
侍女長からは、やはりなにも聴こえない。
このままではなにもわからないだろう。
私は意を決して少し突っ込んだ話をすることにした。
「第一王妃様の件、なにから摂取されたのかはもうわかっていらっしゃるのですか?」
途端に侍女長の目つきが鋭くなり、その思念が一瞬だけ明確な〈呆然〉と〈怒り〉を発する。
私は思わず身を竦め、自身の迂闊さを呪った。
しまった、私はいち侍女だったわね。いらぬ怒りを買ってしまったか。
「リズでしたか。第一王子殿下付きの侍女といえど、貴女が聞くことではありません」
鋭い声音で注意されたけれど、私は彼女に頭を下げないことを選ぶ。
彼女は仕事に誇りを持っているのだ。
それなら私も自分の仕事に誇りを持っていることを示さなければ。そう考えたから。
「馨しきは〈呆然〉と〈怒り〉。呆れ、言葉を失って、貴女は私に怒りを覚えていますね。申し訳ございません侍女長。私は侍女ではございませんので、質問を続けたく存じます」
するとアスルトが私を背にかばった。
「侍女長、黙っていてすまない。彼女は俺の侍女に扮した『聴香師』だ。俺たちは犯人を捜している」
「……」
アスルトの言葉に、侍女長は眉ひとつ動かさなかった。
けれどその思念。明確な〈動揺〉が聴こえる。
やはりこのひとはなにかを隠しているのだ。
「もう一度聞かせてください。第一王妃様はなにから摂取されたのですか」
念のため、毒という単語は入れないで問いかける。
彼女は深々とため息をこぼすとキッと私たちを睨んだ。
「まだ見つかっておりません。毎晩のように嗜む果実酒、その日に召し上がった食事。どちらも普通のものでした。今回は目を瞑りますが、お遊びでこのような行為は許されませんよ殿下」
「遊びではない。口を慎め侍女長。そもそも――いや、いい。下がれ」
彼の思念が〈糾弾〉したいと訴えているのがわかる。
そもそも、お前がついていながら何故。アスルトはそう言いたかったのだろう。
侍女長はスッと頭を下げて一歩踏み出す。
制服の裾が空気を孕んでふわりと揺れたとき、ディルが耐えかねたように声を上げた。
「あの、侍女長! 母を見かけませんでしたか」
「……見ていないわ。貴方も無駄なことに手を貸すのはおやめなさい」
静かに答える背筋の伸びた美しい立ち姿を見詰める私には彼女の思念は聴こえない。
ディルは黙って唇を引き結んでいた。
侍女長が離れてから、私は深く呼吸してアスルトに視線を移す。
「アスルト。彼女、一瞬だけ動揺したわ。ドレスの確認と、それから極秘で第二王妃様にお会いしたい。貴方にその手配は可能かしら」
「ああ。すぐ移動しよう」
アスルトがディルを見ると、彼は小さく頷いてくるりと身を翻した。
もし彼女が毒を盛ったのなら証拠隠滅は容易かったかもしれないわね。
第一王子殿下にも強い口調で注意ができる存在は稀有だろうし、誰も彼女を疑わない……いえ、疑えないのかもしれないもの。
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結果として、ドレスには思念の香りは残っていなかった。
正確には赤い薔薇の紅茶の香りがしただけだ。
衣装部屋に掛けられたドレスは私の見たままの色で、裾にあしらわれた刺繍までまったく同じもの。
やはりあれは思念が視えたのだろうか。
それほどまでに香りが強かったということ?
でも、いままでそんなこと一度もなかったし。
考えを巡らせていると突っ立っているディルが目に留まった。
アーリアさんのこともあるもの。
ディルから聴こえる思念が〈困惑〉と〈抑制〉に揺れていて心配になる。
「ディル、気持ちが揺らいでいるわ。でも無理に抑えようとして気持ちを破裂させては元も子もないでしょう。安心して、アーリアさんも私が必ず捜してみせる」
思わず言うとディルは驚いたように瞳を瞬く。
「ん? あ、ああ。ありがとう。そうだな、早く調べないと」
「いえ、別に早く調べろと言いたいわけじゃ」
尻つぼみになった言葉は彼には届かなかった。
駄目ね、そう簡単に安心させてあげられないらしい。
ディルはなにかを振り払うように首をぶんぶんするとアスルトに話しかけた。
「アスルト。第二王妃様にはどうやって会う?」
そうして。
私たちは第二王妃様の私室前に立っている。
アスルトが「堂々と会いにいく」ときっぱり言い切ったからだ。
「ディルは扉の前にいてくれ。万が一誰か来たら報せを」
「ああ。リィゼリア、アスルトを頼んだ」
「任せて」
私が頷くと、アスルトが扉をコンコンと叩く。
すると扉の向こうから軽やかな鈴のような可愛らしい声がした。
『どなたかしら』
「アスルトです。第二王妃様、よろしければ少しお話がしたいのですが」
アスルトが応えると、ややあってからふわりと扉が開かれた。
そこにいたのはまるで妖精のような愛らしさを持つ女性。
漆黒の夜闇を流したような長い黒髪に、丸く人懐っこそうな蒼い瞳。
ふわりと裾が広がった水色のドレスを身に纏い、背は小さいけれど出るところが出て引っ込むところが引っ込んでいる。
愛らしさのなかにも大人の魅力があって、同じ女性でも見惚れてしまった。
「まあ、なんて嬉しいのでしょう! アスルト殿下と近衛騎士様……あら、貴女は?」
「彼女は私付きの侍女です。紅茶を淹れるのが得意で、第二王妃様に是非紅茶をと。母から茶葉を預かっていますので」
アスルトが摺り合わせておいた内容を告げ、我に返った私は深々と礼をする。
もし彼女が第一王妃様に毒を渡しその命を奪ったのなら、動揺するはずだ。
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